まずは、題材が悪趣味!
レポート(放送大学の授業の課題)を書く目的がなければ読み通してないって!
だって五人姉妹がみんな自・殺しちゃうんですよー。
五人姉妹とは、テレーズ(17)、メアリー(16)、ボニー(15)、ラックス(14)、セシリア(13)の
みんな年子で、みんなブロンド美人のリズボン一家の娘たち。
お母さんが敬虔なクリスチャンだったせいか、常に束縛されてる。
もっと開放してあげようよ、と義憤を感じずにはおれませんでした。
死なれたほうはたまんないね。
それが思春期だったら尚更だ。
だって、姉妹に気があった"ぼくら"は彼女等を救い出そうとやっきになってたんですよ。
パーティに招かれたり、デートを申し込んだり、ダンスパーティに誘ったり、
電話をかけて様子を探ろうとしたり、彼女等の家の2Fの窓明かりが明滅するのを
何かの信号ではないかと分析してみたり…。
"ぼくら"っていうのは小説の語り手。
事件から20年が経過し、頭が禿げたり腹が出てきたりした"ぼくら"が
当時を振り返って証言するっていう設定になってるわけ。
この"ぼくら"っていうのがミソで"ぼく"はどこにも登場してこない。
この語り口は斬新です。
また、ジェフリー・ユージェニデスの筆力は天才的で、
読むものをぐいぐい引っ張っていくわけよ。
まあ時々、あちゃらこちゃらに脱線するきらいはあるけど。
処女作にして多方面から絶賛されたっていうのもうなずけるね。
僕の好きな一節を引用する。
これはセシリアによる一番最初の自・殺のあとで、彼女の日記を手に入れた"ぼくら"の感慨が描かれてる。
スカートを巻き上げる冬の風の冷たさも、授業中に両膝を合わせていなければならないつらさも、男の子が野球しているのを横目に縄跳びで我慢するのがどんなに退屈で腹立たしいことかも身につまされた。なぜ、女の子が女らしくなることにあれほどこだわるのか、お互いにほめあわなければならないと感じるのか理解できなかったが、ぼくらの一人が日記の一節を読みあげるのを聞いているうちに、誰かと抱き合いたい、自分たちがどんなにかわいいか確かめあいたい、というような衝動に駆られることがたびたびあった。ぼくらは女の子でいることがどんなに不自由なものか、女の子であればどんなふうに心ときめかせ夢を見るものか、どんなふうにしてどの色とどの色が合うのかがわかるようになるものかを感じとった。ぼくらは姉妹とは双子同士なのだということに気がついた。みんな、同じ模様の毛皮の動物のように、この世に生まれてきたのだ。ぼくらは彼女たちのことを何一つ見抜くことができなかったが、彼女たちはぼくらのことを何でも知っていたのだ。姉妹は見た目は少女でも、紛れもない女で、愛のみならず死さえも理解していたということを、ぼくらはようやく悟った。ぼくらの役割は、彼女たちの心をひきそうな物音をたてることでしかなかったのだ。 (佐々田雅子訳)
この一節は単行本初版の42ページ、つまり小説の出だしの方にあたるのだが、
すでに、全てを語っているようだ。
僕はこの一節だけで他の諸々の不快な思いをちゃらにできます。
尚、この小説は『ヴァージン・スーサイズ』というタイトルで、
ソフィア・コッポラの手で映画化されてます。
主演はキューピーの一番嫌いな女優:キルトステントコロブ・パンスト
もとい、キルステン・ダンストです。
原作に忠実に描かれた映画だそうで、
"後味が悪い"っていう評判です。
レポート(放送大学の授業の課題)を書く目的がなければ読み通してないって!
だって五人姉妹がみんな自・殺しちゃうんですよー。
五人姉妹とは、テレーズ(17)、メアリー(16)、ボニー(15)、ラックス(14)、セシリア(13)の
みんな年子で、みんなブロンド美人のリズボン一家の娘たち。
お母さんが敬虔なクリスチャンだったせいか、常に束縛されてる。
もっと開放してあげようよ、と義憤を感じずにはおれませんでした。
死なれたほうはたまんないね。
それが思春期だったら尚更だ。
だって、姉妹に気があった"ぼくら"は彼女等を救い出そうとやっきになってたんですよ。
パーティに招かれたり、デートを申し込んだり、ダンスパーティに誘ったり、
電話をかけて様子を探ろうとしたり、彼女等の家の2Fの窓明かりが明滅するのを
何かの信号ではないかと分析してみたり…。
"ぼくら"っていうのは小説の語り手。
事件から20年が経過し、頭が禿げたり腹が出てきたりした"ぼくら"が
当時を振り返って証言するっていう設定になってるわけ。
この"ぼくら"っていうのがミソで"ぼく"はどこにも登場してこない。
この語り口は斬新です。
また、ジェフリー・ユージェニデスの筆力は天才的で、
読むものをぐいぐい引っ張っていくわけよ。
まあ時々、あちゃらこちゃらに脱線するきらいはあるけど。
処女作にして多方面から絶賛されたっていうのもうなずけるね。
僕の好きな一節を引用する。
これはセシリアによる一番最初の自・殺のあとで、彼女の日記を手に入れた"ぼくら"の感慨が描かれてる。
スカートを巻き上げる冬の風の冷たさも、授業中に両膝を合わせていなければならないつらさも、男の子が野球しているのを横目に縄跳びで我慢するのがどんなに退屈で腹立たしいことかも身につまされた。なぜ、女の子が女らしくなることにあれほどこだわるのか、お互いにほめあわなければならないと感じるのか理解できなかったが、ぼくらの一人が日記の一節を読みあげるのを聞いているうちに、誰かと抱き合いたい、自分たちがどんなにかわいいか確かめあいたい、というような衝動に駆られることがたびたびあった。ぼくらは女の子でいることがどんなに不自由なものか、女の子であればどんなふうに心ときめかせ夢を見るものか、どんなふうにしてどの色とどの色が合うのかがわかるようになるものかを感じとった。ぼくらは姉妹とは双子同士なのだということに気がついた。みんな、同じ模様の毛皮の動物のように、この世に生まれてきたのだ。ぼくらは彼女たちのことを何一つ見抜くことができなかったが、彼女たちはぼくらのことを何でも知っていたのだ。姉妹は見た目は少女でも、紛れもない女で、愛のみならず死さえも理解していたということを、ぼくらはようやく悟った。ぼくらの役割は、彼女たちの心をひきそうな物音をたてることでしかなかったのだ。 (佐々田雅子訳)
この一節は単行本初版の42ページ、つまり小説の出だしの方にあたるのだが、
すでに、全てを語っているようだ。
僕はこの一節だけで他の諸々の不快な思いをちゃらにできます。
尚、この小説は『ヴァージン・スーサイズ』というタイトルで、
ソフィア・コッポラの手で映画化されてます。
主演はキューピーの一番嫌いな女優:キルトステントコロブ・パンスト
もとい、キルステン・ダンストです。
原作に忠実に描かれた映画だそうで、
"後味が悪い"っていう評判です。
放送大学の授業の中の対談で、作家の川上弘美さんが、外国文学には日本には絶対ないものがあって、それが楽しみだ、とおっしゃってました。僕もまだ少ししか読んでませんが、これからどんどん読んでいこうと思っています。
斬新な語り口の文章、多方面からの絶賛・・・読む価値ありでしょうか?
早速amazon.co.jpで本の検索をしてみたいと思います。