おばちゃんがかれこれもう30年近く何かの宗教団体のところへ通っている。
おばちゃんは離婚してすぐその新興宗教に入った。
特にまわりに進めるわけでもなかったし、お金がかかっているわけでもなかったし、誰もが良いとも悪いとも言わない。
そのおばちゃんが半年前くらいに珍しく自分のお店のお客さんにその宗教の話を熱弁していた。
私は雑誌を見ていてもそのおばちゃんの声が大きくて聞こえてしまった
その話はずるずると長引いて、とうとうおばちゃんがどうやらその団体のトップクラスであることもわかった。
そりゃ~30年もいればそういうこともあるんだろうと特に気にもしなかった。
ただ私はおばちゃんの家庭状況を知っていて、その宗教が何かの足しになっていると思っているのは勘違いだろうと考えていたし、子供たちや孫たちや旦那さんは私に電話してきてはおばちゃんの愚痴をこぼしていた。
いわゆる「信じる者は救われる」の状態で、その救われるという状態はどういうときかもわからないだろうし、おばちゃんは30年も救われていないらしい。
とうとう70歳が近くなって、まだそれを言うかと私は少々あきれていた。
「旦那や息子が変わる」という声が聞こえてきて心の突っ込み自分が「イヤ、それは知らんだけやろ」と言ってる。
おばちゃんは無邪気で純粋な人だ。悪く言えば自己中とも言う。
だけどまっすぐな人間だ。だから憎めない。
そして弱い。
話を聞きながら弱いんだなあってじわっと頭の中に浮かんできた。
弱虫ってことじゃないけど、上手く説明できないけど。
信じるって大事だ。大切な支えだろう。私もあるけどそれは人間なら当たり前に信じていいものを信じているわけで、裏付けがない哲学を振りかざしているものを信じているのは よほど何かに寄りかかりたかったのだろうかと言う気がする。
なぜ30年もおばちゃんに何も言わないで、今になってこんな風に考えるのかというと、おばちゃんの人間質を客観的に見るようになったことと、何よりおばちゃんがまわりに勧め始めたことだ。
まあお金が絡まないだけセーフな感じもするな。
教祖的な人がいて、その人が自動的に利益を得るシステムがあったりするともうネズミ講じゃないかという目で見てしまう。
おばちゃんが信じるものは順番が違う。
最初に家族で次に仲間で次に先祖で次に恩恵をさずける存在じゃないのかな。
私はあれからおばちゃんに会ってない。
あの新興宗教の神様がもしすばらしいものなら、おばちゃんは私が会いたくなるようなパワーの持ち主だったはず。
昨日、母が「電話も来ないけど生きてるんだか・・・」と言った。
私は「私が小さい頃のおばちゃんはおっちょこちょいでぼやっとしてたけど仕事が上手で明るい人だったよね。その頃の方が好きだったかもしれない」というと、母は「昔は頼りがいがあってカッコ良かったのよ。」と昔のおばちゃんを自慢げに話した。