昨日、「履中」、即ち、「讃」は吉備の大王の娘「黒媛」のお子だと書いたのですが、それに対して、反対の意見もあるようです。それは、「讃」(履中)は日本書紀にも、「ちゃんと、磐之媛のお子である」と書いてある。だから、黒媛のお子ではないと。
宋書によると、「讃」の次の王を「珍」だとしています。この「珍」は、日本書紀の「反正天皇」です。この「反正」こそが黒媛のお子で、吉備で生まれて、直ぐに淡路に移され、そこで成人したのです。日本書紀には
“初生于淡路宮、生而齒如一骨、容姿美麗”
と書かれております。
「淡路島でお生まれになり、その容姿は大変麗しかった」と。履中と同母弟とも書いては有りますが、磐之媛が淡路島に住んだと言う事実は有りません。また、その母である磐之媛が大変美しかったとも云い伝わってはいません。だから、わざわざ、その子が
“容姿美麗”
であると書かれたのには、他に何か理由がそこには有る筈です。これは、暗に、当時、大変な美女であったとされる「黒媛」がその母親だったと言う事を指し示しているのだと思われます。そう考えてみれば、この「反正」こそ「黒媛」のお子様であると云う事を指し示しているのではと考えられます。なるほど、そう聞けばその方がより真実に近いような気もしますが、どうでしょうか????
それから、また、こんな事も云われるのです。
吉備にある「造山古墳」は「履中天皇陵」と、大体、同じ時期に造られた大きさも同じくらいな大古墳です。しかし、反正天皇陵は他の天皇陵と比べるてみても、どうしてかはその理由はわからないのですが、大変小さな古墳です。ちなみに、その母であるとされている磐之媛命陵と比較しても小さいのです(全長219mと148mの前方後円墳)。そこには、磐之媛の何らかの意識があったと思われます。それを知った反正天皇の真の母親である黒媛とその一族(吉備海人部直)は大いに憤慨して、その父「仁徳陵」には及ばないまでも、せめて、兄の履中陵と同じくらいの墓、そうです、古墳の建造を思い立ち、吉備の総力を掛けて作り上げたのです。それが「造山古墳」なのです。また、それだけの力が、当時の吉備には有ったと言うことが伺えるのです。
どうです。壮大なる吉備を語るお話ではありませんか????今まで誰もが思いもしなかったロマンいっぱいのお話ですが、どうお思いでしょうか。ご感想を!!!!!
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