この倭の大王「讃」とは誰でしょうか???これ、又、幾通りかの解釈があるようですが、現在、大方の見方は「履中天皇」であるとされております。彼は磐媛の嫉妬を恐れて吉備の国に帰った黒姫伝説の仁徳天皇の第一子です。年代は420年ごろです。
この「讃」と同じ時期に、吉備の大王が居たのは確かです。彼の名前は不明です。その当時、倭の国内で何が起きていたのか、そこら辺りの日本歴史については謎につつかれた時代と云われ、霧の中に隠れて、よく分かってはいません、が、相当な権力を握っていた王がこの吉備にいたのは確かです。その時の吉備の大王の墓が、今、岡山市新庄にある「造山古墳」です。履中天量陵と同じ大きさを誇る古墳です。420年頃の古墳です。
420年頃が共通ですから、この宋書に書かれている「讃」は、「もし」と云う言葉を使うならば、吉備出身の大王が、その後、大和に進出して倭国の王になったのかもしれませんが?????
その根拠はと問われそうなので、答えておきます。それは仁徳天皇が、吉備に、その思い人「黒媛」を訪ねた時に出来た皇子だと言うのです。
おっとっと、こんな説を吉備人の中には、ささやいている人もあるようですが、どうでしょうかね????????????????
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