くどくどしすぎるかもしれませんが、もう一つ此の「アシヒキノ ヤマダヲ ツクリ・・・」の木梨軽王の歌についてよく分からない点がありますので書いてみます。
というのは、此の歌の最後部部ですが、私の持っている天保期の本には
“椰主區【津】娜布例<ヤスク ツタフレ>”
と出ていますが、インターネットによると、その部分は
“椰主區【泮】娜布例<ヤスク ハダフレ>”
と、なっています。「津」・「泮」とどちらが正しいのかは私には判断がつきかねます。これについて、宣長のように、「泮」としなければいけない所を、「津」と間違って写したのだと断言はできません。その間違いを証明する何ものの私は持っていませんので。どうでしょうかね???皆さんはどう思われるでしょうか。意味からすれば<フ>の方がいいのではと思われますが。
それはとにかくとして、記紀の何れにも、この同母兄妹が相通じたと言う記事が見えますので、史実としては有ったことは間違いない事だと思います。衣通郎女が天皇の妃であったのか、それとも娘であったかの別は違いはありますか、大変な美女であったことには違いありません。美しさが着物を通しても見えると言う美女なのです。今まで日本のの女性の中で、そんなに美しい人がいたでしょうか。原節子や京マチコだって側にも寄れないような美女だったのだと思うのですが???。
そのような身分の高い美女の短い生涯が、日本の歴史を動かすような一大事件を引き起こしたのには間違いありません。それをこの二つの歴史書は高々と歌っているのですが、それほどの皇女ですのに、その名があまり日本国中に知りわったってはいないのです。どうした訳でしょうかね。是も日本歴史の盲点なのでしょうか。
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