柳田の日本民俗学のルーツではないかと云う話をもう一つ。
梨一は、この神功皇后のお話の中で、「干満珠寺」のいわれの他に、もう一つ里人から聞いた話を御丁寧に書きいれています。それは
「この皇后の御陵を造る前に、既に、象潟にある汐越川に烏帽子岩と云う石があって、芭蕉がここを訪れた時に
“むかし誰 岩に烏帽子をきせぬらん かたかたとしてよい男なり”
と、ざれ歌があった。その後 その石を蚶満寺の庭に移して、それを親鸞聖人の「腰掛石」と名付け、今もこの寺にちゃんとある」
と。 このお話からも分かるように、神功皇后の御陵がこの地にあったと言うのも、里人たちが作り上げた
“或ハ此類ノ虚妄ナルベシ”
と、わざわざ、梨一は書き加えております。
でも、このような「里に残されている話を書き添えた」と言うことが、後のあの「遠野物語」などの民話が世に出るきっかけを作ったのではないでしょうか。
なお、これは、又、自慢話になりますが、私はこの「遠野物語」の初版本を持っております。(350冊の内の1冊)、何かの御参考にでもなればと・・・・・
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