孝霊天皇の皇子「大吉備津彦命」は、
「第十代崇神天皇の御代、不庭の徒、四方に起りて、世の中何となく穏かならざりければ、天皇はこれを鎮めさせんがために、皇族の御中より選びて北陸・東海・吉備・丹波の四道に差し向け給ひしが、もとより御性質も雄々しくましましければ、この選に漏るべくもあらず、やがて、四道将軍の一人として、吉備津路に向はせらるることとなり給ひき。”
その出発の時に、たまたま、孝元天皇の皇子「武埴安彦命とその妻吾田媛」の反乱がおこり、その反乱を鎮めてから、その異母弟「若日子武吉備津彦命」と共に吉備津路にむかわれます。
”当時、吉備津路には、如何なる醜類の割拠せしかは詳ならざれど、社伝に従へば百済より温羅<ウラ>といへる強賊の来りて、この地方に居を構へ、西国の貢船を掠めしことを伝へたり。”
とあります。なお、伯耆の楽々福<ササフク>神社の社伝には大吉備津彦命が征伐した強賊は「蟹梟帥<カニタケル>」だと記されているとかかれてあります。
「第十代崇神天皇の御代、不庭の徒、四方に起りて、世の中何となく穏かならざりければ、天皇はこれを鎮めさせんがために、皇族の御中より選びて北陸・東海・吉備・丹波の四道に差し向け給ひしが、もとより御性質も雄々しくましましければ、この選に漏るべくもあらず、やがて、四道将軍の一人として、吉備津路に向はせらるることとなり給ひき。”
その出発の時に、たまたま、孝元天皇の皇子「武埴安彦命とその妻吾田媛」の反乱がおこり、その反乱を鎮めてから、その異母弟「若日子武吉備津彦命」と共に吉備津路にむかわれます。
”当時、吉備津路には、如何なる醜類の割拠せしかは詳ならざれど、社伝に従へば百済より温羅<ウラ>といへる強賊の来りて、この地方に居を構へ、西国の貢船を掠めしことを伝へたり。”
とあります。なお、伯耆の楽々福<ササフク>神社の社伝には大吉備津彦命が征伐した強賊は「蟹梟帥<カニタケル>」だと記されているとかかれてあります。
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