昨日見てきたように、愛妃「兄媛」を尋ねて吉備に行幸され、「葉田の葦守宮」で、その兄「御友別」から大歓迎を受けた応神天皇は大層喜ばれ、御友別一族が吉備の長たることを確かにされますが、日本書紀にはこれ以上の御友別のその後の歴史は何も書かれてはいません。しかし、吉備津神社に伝わる「吉備津神社記」には
とあり、御友別一族もこの神社に祭られていることが記されております。
では、この神社記にはその他何が記載されているのでしょうか、しばらく見ていきたいと思いますので、お付き合いいただけたら幸いです。
まず、吉備津神社の祭神について
”人皇第七代孝霊天皇の御子に渡らせ給ひ、御名を日子五十狭芹彦命、又の名を大吉備津彦と申し奉る。蓋五十狭とは猛勇、芹とは邁進<セリ>の仮字なれば、其の御性質の雄々しかりしことは、推して知るべし。・・・・御母は倭国香媛といふ。歴史には御生誕の年は記されざれども、社伝に拠れば、孝霊天皇即位の三年、即、皇紀三百七十年、倭国黒田の廬戸宮に生れ給ひぬ。”
と、記されております。西暦に直すと、お生まれになったのは紀元前287年のことです。
とあり、御友別一族もこの神社に祭られていることが記されております。
では、この神社記にはその他何が記載されているのでしょうか、しばらく見ていきたいと思いますので、お付き合いいただけたら幸いです。
まず、吉備津神社の祭神について
”人皇第七代孝霊天皇の御子に渡らせ給ひ、御名を日子五十狭芹彦命、又の名を大吉備津彦と申し奉る。蓋五十狭とは猛勇、芹とは邁進<セリ>の仮字なれば、其の御性質の雄々しかりしことは、推して知るべし。・・・・御母は倭国香媛といふ。歴史には御生誕の年は記されざれども、社伝に拠れば、孝霊天皇即位の三年、即、皇紀三百七十年、倭国黒田の廬戸宮に生れ給ひぬ。”
と、記されております。西暦に直すと、お生まれになったのは紀元前287年のことです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます