この「葦守宮」の所在地が、現在ある「足守宮」だと、この辺りの人々は誰も信じているようですが、私はそれは違うのではと思われます。現在ある「足守宮」の場所は山際で、広くもなく、当時の吉備の首長の館跡があった場所としては考えられません。その場所はもっと南にある「吉備の津」付近(岡山市津寺)にあったのではないかと思われます。それは、あのジンムが日向の国から東を目指して出発されますがその最初に立ち寄られた場所である筑紫の国「菟狭」を描いている「日本開闢由来記」の挿絵(絵師「歌川國芳」)から考えてもそうだと思われます。
なお、由来記に描かれているジンムが東征の途中で立ち寄った「ウサの館」は
"一柱騰宮<アシヒトツアガリノミヤ>”
と呼ばれていて、「宮」ですが、決して、お宮さん(神社)では決してありません。ちなみに、そのウサの首長は莵狭津彦という人ですが、ジンム達一行を丁重に迎え入れ、饗膳<ゴゼン>を奉ります。その國芳の絵を・・・
相当大きな屋敷ですよね。
でも、我が「オウジン」の吉備への行幸はその時代よりも数世紀も後の世の出来事です。この絵より数段の高い建築技術を駆使して造られた相当立派な館だったのではと想像されます。それも今の足守宮のような山際の狭い場所でなく、もっと広々とした吉備の津の近くだと思われるのです。
そこに到着されオウジンに対する吉備の首長のその対応について、日本書紀には、次のように書いております。
"時御友別参赴之。則以其兄弟子孫為膳夫、而奉饗焉”
ここには「兄媛」が、難波の津で、しきりに会いたがった両親が顔をのぞけませんが、どうしたのでしょうかね???
なお、由来記に描かれているジンムが東征の途中で立ち寄った「ウサの館」は
"一柱騰宮<アシヒトツアガリノミヤ>”
と呼ばれていて、「宮」ですが、決して、お宮さん(神社)では決してありません。ちなみに、そのウサの首長は莵狭津彦という人ですが、ジンム達一行を丁重に迎え入れ、饗膳<ゴゼン>を奉ります。その國芳の絵を・・・
相当大きな屋敷ですよね。
でも、我が「オウジン」の吉備への行幸はその時代よりも数世紀も後の世の出来事です。この絵より数段の高い建築技術を駆使して造られた相当立派な館だったのではと想像されます。それも今の足守宮のような山際の狭い場所でなく、もっと広々とした吉備の津の近くだと思われるのです。
そこに到着されオウジンに対する吉備の首長のその対応について、日本書紀には、次のように書いております。
"時御友別参赴之。則以其兄弟子孫為膳夫、而奉饗焉”
ここには「兄媛」が、難波の津で、しきりに会いたがった両親が顔をのぞけませんが、どうしたのでしょうかね???
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