対話の一致点を拡大させろ
人々の大部分は暗いことを体質的に好きではない。
暗い路地裏を歩くとか、不幸のあった家で夜明かしするようなことを好きな人はおそらくほとんどいないだろう。
人の性格に対しても同じだ。なぜかいつも憂鬱な表情をしていたり、いつも顔をしかめている人、いつも嫌気がさして怒りやすい人の周囲を見てみなさい。そんな人には友達がいないことをすぐに知ることができる。その理由は何か。そんな人と一緒にいると心が穏やかでないからだ。
一般的に暗い感じを与えることは、人の本能的な警戒心を呼び起こさせる。どんなに聡明で美しい女性でも言葉使いが明るくできないと驕慢だという印象を与えるから人が近づこうとしない場合が多い。その女性の暗いイメージが驕慢だという否定的な認識で作用するのだ。
子供たちの反応を通してもそんな事実を知ることができる。
泣いている子供に飴をあげながら沈鬱な声で「これ食べる。」と言ったならば子供はもっと大きく泣く。
子供は大人の沈鬱な声で何か怪しい危険を本能的に感知しているのだ。
反面、やさしく明るい声で「これ食べる。」と言いながら飴を差し出すと泣いていた子供も泣くことをやめてだんだん安定を取り戻す。
このように、どんなにその意志がよくても感じがよくない暗い話法で話をすれば対話の目的を成すことは難しい。
ここで、暗い話法と言うのは、沈鬱な声と固い表情でする対話を意味する。合わせて、感じのいい話法とは、澄んだ声と明るい表情が宿った対話を意味する。
人の心が真であることができなければどんなにいい話をしても声に曇りが出るものであり、表情もまた明るくすることができない。
相手を嫌がる気持ちがある時その人の微笑みは自然にできない。単純に人を幻惑させるための微笑みはどこかうわべだけが感じられるものだ。
感じのいい話法の2つ目の条件は相手の気分と一致する話をすることだ。
仮に天気に関する話をするとしよう。
「いい天気ですね。」と行った時、「本当に今日のようなのどかな天気にはどこか旅行にでも行けばいいですね。」というのと、「必ずしもそうではないですよ。」ということは、相手の気分を両極に変える。
前の例は、聞いた相手の気分に同調する感じのいい話法に該当するが、後のものは意図的に相手の気分を傷つけようとする意志と解釈されることもありうる。
天気と言う客観的な事実であるからある人には晴れてある人には曇るということはできないのだ。
よく、「対話が順調だった。」「話がよく通じた。」と表現は言葉の一致が多かったということを表す言葉だ。
ビジネス関係ではじめてあった人との場合も出身学校、故郷、友人関係など、互いに一致することが多いほどに話題が豊富になり互いに親しく感じるようになるものだ。ここに互いの志向や価値観が似ていたならば、その日の対話の半分ぐらい成功したのと同じだ。
だが、こんなよい条件であっても合意とか取引が成功しない場合は十中八九言葉の不一致のせいだ。
「故郷はプサンですか。」
「はい。」
「私もプサンですが。」
「はい、、、、」
「ならば、学校もプサンですか。」
「いいえ。」
「なら、どこ、、、」
このような対話は5分も持たずに気まずい空白を作ることになる。
大概、「はい」「いいえ」の2つの答えしか言わない人は垢にまみれない純真な性格か、威張るのが好きな性格か2つのうちのひとつだ。
小学生とか、中学生程度の子供に言葉をかけるとこのような事実を知ることができる。
「何年生だ。」
「3年生。」
「今、どこへ行く。」
「あっち。」
子供がこんな風にしか答えることができないのはまだ、社会性が発達できていないからだ。ところが、成人になってもこんな言い方を捨てることができなければ、積極的な対人関係を形成することが難しくなる。
相手の故郷が自分と同じプサンならば、少なくとも「はい、そうですか。」ぐらいの修飾語のひとつをつけるとか、「これは、うれしいですね。故郷の人とここで会うとは。」と言いながら言葉を合わせることを知るぐらいの話法は体に慣れさせておかなければならない。
明るい表情と声で相手の気分に同調できる対話の一致点を探しなさい。言葉の一致点を拡大させるほどに対話が順調なのです。