断定的な反論は避けなさい
必ずこれでなければダメなのですとか、この方法しかありませんと言うような表現は聞く人の心を抑圧する。
「この問題を解決する方法はこの方法以外にはありません。」
公の会議の席で誰かがこんな発言をしたとしよう。
耳には自信感にあふれ迫力があるように聞こえるかもしれないが少し後になると何か知らずに非常に気まずい感じが波のように押し寄せてくることになる。
「あの人、何であんなにすごいんだ。」
「馬鹿じゃないか。俺はあんなに大きなことをポンポン言って上手くいったものを見たことがない。」
聞く人の立場ではこのような断定的な表現がとてもうっとうしく感じることもある。本人がどんなに確信に満ちて言っている言葉かもしれないが、言葉の裏面では他の人の意見のようなものは受け入れないと言う自分中心の傾向が強く内包されているからだ。
こんな風な決定的な言い方が口になじんだ人は大概融通性がない性格とか、深刻な権威主義に囚われている場合が多い。
周囲の人と議論する時もそうだ。
「ピクニックなら江華島ほどのところはないでしょ。」
「ちゃんとした物を買うなら○○百貨店でないとダメだね。」
このような発言は全的に対話の規則を無視した独断に過ぎない。結論がひとつだけならばはじめから対話だとか何だとか必要がなかったのではないか。
こういう時もし、他の人が、「江華島に何が見るものがあるとそんなことを言いますか。そこよりは沙里がずっといいですが。」「そんな話がどこにある。物を買う時には市場に行くのが一番だ。」と反論したならば結局極端な対立が避けられなくなる。
こんな極端な発言を理知的な発言と言うのだが、はじめから人の意見を受容しようとしない高圧的な姿勢ででてくるので、たやすく人の反感を買う危険がある。
どちら側かが一般的に対話の決定権を握っていたならば、それは対話自体を放棄したことだ。
対話と言うものは本来一方通行が不可能なもので、自分の主張にだけ絶対性を持ったならば何の意味があるだろうか。こういうことは独裁者の座に置いてこそありうることだと言うことを覚えておきなさい。
論戦の場では問題解決の方法が他の人にもあると言うことを認めなければならない。互いに意見を交わして合意する中であるひとつを採択することもあり、でなければ第3の解決点を探すこともできる。
はじめから意見収斂の過程も持たないですぐに通過されることならばそんな場を持つ必要もないことだ。
「私はこう思いますが皆さんの意見はどうですか。」とか、「今の言葉にも一理ありますが、私はその問題をこのように考えてみようと思います。」と言う風に対話が進行されてこそ他の人も意見を出すことができるようになるのだ。
もし、相手の意見が自分の主張と違う場合にも、
「「ちょっと待ってください。その意見には全的に反対します。」
「あ、それは間違ったことです。」
「そうではないです。」
このように急に反論を提起したり、自分の意志と関係のない話を聞く必要もないというような行動をとると、当然言葉がとんでもないところに陥ってしまう。
「そんなことを聞いたら、3歳の子供でも幼稚だというよ。」
「何だ、今、何ですべてのことをお前のしたい通りに解釈しようとする。」
もはや対話は論戦から喧嘩に変わってしまった。
どちら側かが椅子をけって出て行かない限り、このような対話は互いに噛み付いて食いちぎる言葉尻をつかむことで終わってしまうものだ。
「あんな人とは到底話が通じないから、私が相手をしないようにしなければ。」
「いったい、話になる話をしないと。やっぱり救済不可能なんだから。」
結局双方が対話の決裂の責任を互いに押し付けるところで、あわただしいままに言葉の乱闘場はやっと収集されるが、相手の意見まで否定するこんな風な対話によって人間関係は食い止めることができずゆがんでしまう場合もよくある。
対話の目的は互いの心を与えてもらうところにある。それが公の対話であろうと個人的に親しい関係に夜対話だろうと、内容それ自体を反対したり否定することはあっても相手の人間性まで否定することがあってはならない。
こういう時、対話が中断されることは言葉で互いの人間性を攻撃する段階まで至ったためだ。
対話を主張しながら結果的には喧嘩になって互いに対する不信を露骨に表すことは、相手の人間性まで否定してしまう高圧的で断定的な発言のせいで作り出されることが多い。
相手の意見が理知に合わないとしても、暖かい心でそれを包んであげれば、その心が相手にも伝わって戻ってくる反応は一層やさしくなることができるものだ。こういうことを正に「心の話法」という。
もちろん相手の自尊心を尊重してやる方法も程度を過ぎると不自然極まりない。中がはっきりわかっているのにうわべだけで言う言葉や心のないお世辞は対話とは関係ない。ただ、反対の意見を言う時は論戦にならないように注意しろと言うことだ。
「ところで、この方法はどうですか。」
「あの、ひとつ申し上げることがあります。」
こんな言葉をはじめに、緻密に反対の意見を提示することも論戦を避けるための方法になる。ただ、こういう時、急に声が大きくなったり感情的な発言にならないように注意しなさい。
言葉は精神の脈拍だと言った。声に均衡を失うことはあなたが平常心を失っていると言う意味だ。怒った時、自分が怒っていると言う事実にもっと興奮する場合がある。
このように声が大きくなると感情も激しくなるものだ。いつも冷静にやわらかい態度で対話をできるように平常心を維持しなさい。
何でも自分だけが正しいと考える人は、仕事が上手くいかないと人のせいにする無責任な面も合わせて持っている。そんな人であればあるほど、人に少しでも自尊心を傷つけられるようなことがあれば、かっとして大声を出すものだ。
対話を流しておく独善的な態度は自らを孤立させる口実になるだけだ。
対話が中断されることは言葉が互いの人間性を攻撃する段階に至ったからだ。相手の人格が理知に合わないからといっても暖かくこの人を包んでやる心を持つことが必要だ。