対話の主導権を掌握するな
対話はピンポンのようなものだ。互いにやり取りする対話の規則が守られていなければ双方の間で興味を失うことになるからだ。
対話が進行される過程では話すことに負けないぐらい聞いてやる姿勢も重要だ。もし、しばらく話を引っ張ってきた人が「あれまあ、私の話が長くなったね。」と言いながら言葉尻を下げたならば、聞く人に問題があったということができる。
誰かを相手に話をしようとすることは物理的に声だけを出すと言う意味ではない。すなわち相手が気分よく聞いてくれることを望むことだ。どんなにだらだらと話をしても聞く人が聞いてくれないならば話をする人の立場で、力が抜けるのは当然なこと。
対話の相手を探してきた人の話を聞いてやることはその人の内面を治療してやることだ。自分の話に真摯に傾聴してくれる人の前で彼は苦痛と言う疾病を治癒することもし、欲求不満として苦痛を持った霊魂を浄化させる力を得ることになる。
だから、いい聴取者になると言うことは対話の相手として当然持っていなければならない礼儀だと言うことができる。
ならば、どうすればいい聴取者になれるのか。
最も確実な方法は相づちを打ちながら聞くということだ。反応を見せない相手に話をすることのようにつまらないことはない。まるで石を前に置いているような聴取者の態度が硬かったならばどうやっても言葉が出てこないものだ。
相づちは対話をやわらかくする潤滑油の役割をする。相槌を打ったからと言って誇張されたジェスチャーをしたり聞くまねだけをしてはむしろ馬鹿なことになってしまう。
「それで。」
「そう。」
こんな風に何を言ってもただ事務的に口を塗られた同じ言葉だけ繰り返しては本当の相づちを打ったとはいえない。言葉で、表情で、目で、真心のにじんだ心で話に助言してくれることが本当の相づちだということができる。
相手は一生懸命話をしているのに、一緒に相づちは打てなくても話の腰をポキポキ折って聞くことは聞く人の礼儀ではない。
「昨日の晩、キム代理と残業したのだけど。」
「俺は、昨日イ部長と酒を飲みに行ったんだ。」
「キム代理が急に俺と仕事をするのができないというのさ。」
「ところで、俺たち今日残業するんじゃないか。」
こんな風に話の途中で間を空けて入ってくることは対話の常識から外れたに憎たらっしいことだ。こんな人が対話の相手になったらどんなに不幸なことだろうか。
聴取者としてもうひとつ注意しなければならないことは人の言葉尻をとってはならないということだ。
「どうして子供があんなにかわいいのか。あの子のお母さんは目に入れても痛くないだろうね。」
「何を馬鹿なことを言っているんだ。子供がどうして目にはいる。コンタクトレンズでもあるまいし。」
「今日の朝、朝刊にこんな記事が載っていたよ。」
「今日の朝の夕刊だと言うことでもあったか。」
こんな風な対話はむしろ喧嘩するよりもダメだ。
これは相手の自尊心を削ぐための話法であると同時に聴取者としての役割を拒否する意思の表れとして解釈してもかまわない。
政治の場面で登用されそうなこのような低俗な話法が人間関係を篤くするどころかむしろ殺伐とした敵対関係に押しやっているということを覚えておきなさい。
聞く人の心の姿勢
1. 傾聴する。
これが一番重要だ。受け入れるか入れないかを決定する傾聴する前に話をよく聞こう。性急に結論を出す場合が多いが、これは断片的な情報だけで考えを決定してしまうからだ。
2. 伝達者にすべての注意を傾けなさい。
話を聞く者の注意が散漫だと混乱や誤解の原因になる。
3. 質問をしなさい。
相手の話や意図、目的に少しでも疑問を持ったならば答えや判断を下す前に質問をする。自分の解釈を説明してそれが正しいのか確認する。