対話の最終的な判断は聞く人のものだ
話す人がいれば聞く人もいるのが当たりまえだ。
私たちはよく話す人と聞く人が互いの役割を替えながらする話を対話と言う。対話を上手くやろうとしたらまず自分が何を言おうとするのかについてきちんと整理した考えがなければならない。
どんなに即興的で短い対話にも話の目的があるはずだ。
「どこへ行くのですか。」(A)
「ちょっと。」(B)
「じゃあ、行ってらっしゃい。」(A)
こんな風に短く終わる対話を分析してみても、話の目的と内容がある。すなわち、Aが対話を始めた目的はBの行き先を知ろうとしてのことだった。BはAの問いに対して「ちょっと。」と曖昧に答えた。これに対してAは行き先の方向に対する本来の疑問をたたんだまま別れの挨拶をすることで対話を終わらせようとする意思を伝達した。
この対話の明らかな目的に合うBの答えは「ちょっと。」よりは「ちょっと、薬局へ行きます。」「銀行へ行く途中です。」など具体的な内容でなされなければならなかった。しかし、Bは「ちょっと。」と答えることでAの質問に対して正確な情報を与えないという意思表示をしたことになることもあり、また、そんな意思があったとしても不適切な語彙使用で相手を混乱に陥れている。
しかし、ここで注目しなければならないことはAの2回目の言葉だ。彼は対話の目的がBから遮断されたと思ったのか、あるいはこの対話自体に興味をなくしてしまったとも言える。それで、Bにどこへ行くのかと聞いた対話の目的を放棄して「じゃあ、いってらっしゃい。」と対話を終結宣言をしたのだ。
私たちが短い対話を通して知ることができることがまだある。もしかしたら、AははじめからBが行くところがどこなのかその場所が気になって「どこへ行くのですか。」と聞いたのではないこともありうる。
「どこへ行くのですか。」と言ったAの問いの中には「どこか遠くへ行くのですか。」と言う時間的な距離概念に対する気がかりが内包されていることもある。だから、「ちょっと。」と言ったBの答えは時間的な距離概念に対するAの質問にある程度具体的な情報を提供したことと見ることもできる。
このように考えると結局対話の主目的であるAの気がかりを拒否されたり、自ら放棄したのではないということもあるという意味になる。
言葉というのはこのように奥深いニュアンスを含んでいるのだ。
もし、上のような対話が終わった後、A、Bが互いに違った誤解を抱いたならばこんな風に対話が再生産されることもある。
「どこへ行くのか聞いたのに、わざと答えないのだね。」(A)
「何だって。私はそんな覚えはない。」(B)
「ちゃんと答えないでそのまま行ったじゃないか。」(A)
「それが何でちゃんと答えなかったことになる。『どこか遠くへ行くのか』と聞くから『ちょっとそこまで。』行くと言ったのじゃないか。」(B)
「私が知りたかったのはそれではなくて、『どこへ、何で。』行くのかだったのだ。」(A)
「それならちゃんとそのように言ってくれないと。」(A)
「私はそう言ったのにそっちが聞き間違えたのだ。」(B)
誰でも一回ぐらいは言葉の伝達の過程で生じるこんな風な誤解で意思疎通の難しさをなめた経験があるはずだ。
対話とは聞く人を前提にしてするものだ。聞く人が話しを間違って理解したならば意味が間違って伝わる危険があるからだ。だから話をする人はいつも正しく正確に話を導いていくことができなければならない。
対話の最終的な判断は聞く人がするものだ。
「私はそんな考えで言ったことではないのに、あの人は誤解したようだ。」
こんな不平が出てくる理由は大概言う人が聞く人の理解を十分に確保できなかった状態で対話を終わるからだ。
相手は話す人の表情とか態度、言葉使いはもちろん対話の場所、時間など総合的に分析した後にその話の内容に対する最終分析に入るのだ。同じ話をしてもいつ、どこで、どのように、言ったかによって話の効果は大きく違いうる。
聞く人の決定権を最大限に意識して対話をすること。
そのためには聞く人の反応を見ながら話をすることも重要だが、何よりも自分の話が正確に受け取られるように相手を配慮する心を持つことが必要だ。
※ 対話とは聞く人を前提とするものだ。だから、話す人は
いつも正しく正確に話を導いていくことができなければならない