ユーモアを活用しなさい
若い作家が何人か集まった。
「ここに面白い記事が載っているんだけど。」
その中の一人が本を開きながら皆に見せた。彼が集まりにくる時に持ってきた文芸誌だった。
「わが国の歴代新春文芸当選作家目録だ。」
なるほど、その本にはわが国で新春文芸制度が実施されて以来現在まで国内の主要な日刊紙を通して排出された作家の名簿がぎっしりと書かれていた。
「何で、作家がこんなに多いのだ。」
「知らない名前も多いね。」
「本当にそうか。大韓民国に作家がこんなにたくさんいたのか。」
皆不思議なように一言ずつ言いながら、名簿を読んでいった。
「この名簿に書かれた人たちの中で生き残っている作家がどれぐらいいるか見てみよう。」
「それはいい考えだ。」
「よし、今から一人ずつチェックしてみよう。」
こう言って特にやることもなかった若い作家たちは名簿の上から下に隈なく調べながら下線を引き始めた。
「この人は高齢だけど今まで活発に活動をしているでしょ。」
「そうだ、本当に大した人だ。」
「この作家はいつだったか絶筆したと言ったが、今回作品集が新しく出たよね。」
「作家が絶筆したと言ったって、何が絶筆だ。書かないのじゃなくて書けないのさ。」
数ある中で忘れられた人は飛ばして最近まで名前が知られていたり、作品活動を熱心にやっている作家の名前の下に印をつけながら、自分たちの未来像を占ってみる若い作家たちの表情はとてもまじめであるも、心がそわついて見えた。
「果たして自分の名前がここにあったら生き残っている方に属するだろうか。でなければ忘れられた名前になるだろうか。」
そんな錯綜した気持ちで、心の覚悟を新たにしている渦中にふと誰かがこういった。
「お、今作家デビューしてもうこんなになるのか。」
彼らの視線が集まったところは今から約20年前デビューしたことで記録されているある作家の名前だった。
「俺はそんなに経っているとは思わなかった。
「そうだな。初作品集が出たのが3年前じゃなかったか。」
「反応がすごかったよな。」
今さらながらその名前を探してみて作家たちの目にある種の残念な気持ちが漂う中、誰かが出し抜けに一言言った。
「だけど、本当に生き残れなかったね。」
「、、、、、」
しばし、皆は戸惑ったまま言った当事者に視線を向けた。
「俺、間違ったか。本当に生き残れなかったじゃないか。」
その話がいい終わらないうちにその場に漂う戸惑いの雰囲気はすぐに爆笑に変わった。
「それはひどい。」
「でも、その通りだ。」
問題の発言者がいきなり非難と賛辞の主人公になった訳だ。その作家が創作集を出していくらも経たない内に不意の事故で亡くなったからだった。
もしかしたら、上の発言者がこれからの文学的成果が期待される優れた先輩の死を残念に思いながらも、気持ちが沈んだ友達を笑わせようとユーモア感覚を発揮したのかも知れない。
ユーモアは人間生活の潤滑油の役割をしている事を誰も否定することはできない。また、ユーモア感覚は話術の最高のテクニックだと言うことができる。
大概、伝統的な儒教意識がにじんでいる東洋圏でユーモアが自然に根を下ろすことができなかった傾向はあるが、今日においては必ずしもそうだとは言えないようだ。
現代人たちは笑いに渇いている。もしかしたら、私たちは「言葉がなければ笑うことができない」そんな世の中で生きているのかも知れない。
新聞やニュースを見ながら笑うことができる場合はほとんどない。私たちが時に笑うことができるのはトークショーとかコメディー番組を通してだけだ。
毎日、悩まされる日常生活の中ではより、笑うことがない。いわゆる「職場生活のハイライト」だと言える月給日でさえ、TV広告のように買った果物の袋を持って笑いながら家に帰る父の姿が果たしてどれだけいるだろうか。
ユーモアはこのような息の詰まる日常生活に活力をくれる清涼飲料と同じものだ。サイダーのように新鮮でコーラのようにパチンと打つようなユーモア一言が提供する笑いが、疲れた現代人にどれだけ切実なものであるか、私たちは「マントギ シリーズ」や「チェブラム シリーズ」などの例にも見ることができる。
何々シリーズと言う名前で、瞬く間に広がって全国民の酒席での話題として、あるいはデート現場のよくでてくるなじみの話題として登場することもあるユーモアは最近も終わることなく拡大再生産されている。
笑いに渇いている現代人にユーモア感覚がある人は当然、人気者と賭して通る。
ユーモア感覚というのは積極的な性格からでてくるものだから、すべての人が主導的な立場になるのが難しい。しかし、ユーモアを受容することができる能力は誰にでも公平に与えられたものだ。人間には笑いに対する欲望と言うものもあるからだ。
こんな理由で今日、政治家とか指導的な位置にいる人にとってユーモア感覚は必須的なものになった。
だけではなく、一般的な対人関係でもユーモア感覚は好感を導き出すことに有利は条件として作用する。ついには、未婚の女性が望む配偶の条件としてユーモア感覚を上げる調査結果が出てきているほどだ。
ユーモアとは単純にばかげた動きを演出して人を笑わせる寸劇とは違い、言葉の聖餐と言う点で少し格が高い笑いを提供する。
一般的にユーモアとは多少誇張された側面があるものだが、笑いの後に否定的な余韻を残さないように注意しなければならない。相手をけなしたり、自分をこき下ろすために使用するユーモアは聞く人の心を不快にするからだ
ユーモアはひとりでに作られたり、無理に作ったりしてできるものではない。反面ユーモア感覚はユーモアを受け入れることができる余裕だけあれば誰でも悟らせることができるものだ。
人が笑わせた時に楽しそうに笑うことができる人はユーモア感覚がある人だ。
あなたが沙悟淨(西遊記にでてくる妖怪)でなければ十分にユーモア感覚がある人だ。そういえば、最近には沙悟淨もそれ自体がユーモアとして通る世の中だから、それも心配する必要はないようだ。いずれにしても他人を笑わせて楽しくできたならばあなたはユーモア感覚が豊富な人だ。
※ ユーモア感覚はユーモアを受け入れることができる余裕があれば
誰でも悟らされることができる。人が笑わせた時楽しそうに笑うことができる人は
ユーモア感覚がある人だ。