問題解決を急ぐな
NATOのユーゴ空襲が強化された時に全世界の言論に最も切実に登場した単語が正に「対話による問題解決」だった。
戦争当事者同士による一日でも早い積極的な対話を通してユーゴ問題の解決の方案を模索したならば、爆撃で死んでいくコソボ難民の数はかなり少なくなったはずだ。
違う。爆撃がある、それ以前にも対話の可能性はいくらでもあった。NATOの介入の前にセルビア系とアルバニア系の紛争が解決されれば最小限、命を失う人はいなかったはずだ。
紛争のあるところに対話を。
おそらくテレビを通してユーゴの惨状を目撃した全世界の人々の切実な叫びは正にこの一言だったはずだ。
対話を通した問題解決にはいくつかあるはずだ。国家間の紛争とか労組間の対立、家族間の葛藤など対話はすべての問題を解決の鍵を握っている。
対話を通した問題解決が思ったように簡単ではないことは、相互の利害関係がピーンと対立しているからだ。特に、はじめから互いに反目して憎しみの目で見合っている間に問題が生じると対話の場としても問題解決が円満に成されることができない。互いに少しの譲歩もなく自分の主張だけするのがあきらかだからだ。しかし、人が対話を通して解決できない問題はないはずだ。
紛争は現実の生活を不可能にする。戦争が起きると全国土が廃墟となるように、労使間の対立は産業活動を中断させ、家族の不和は家庭を破壊させる。
このような紛争は、その当事者たちはもちろんとの者たちと直、間接的に関係を結んでいる社会構成員たちにもよくない影響を及ぼすから、いつかは互いに対話の必要性を切実に感じるものだ。
こうやって一旦対話の場が作られただけでも状況は発展したと考えられやすいが本当の問題はここからだ。
対話の当事者同士、深みのある人間関係を回復しようと言う努力がなければ、たとえ互いに顔を合わせているといっても効果的な対話を期待するのは難しいことだ。
どうして戦争を始める前に国家と国家は対話することができないのか。どうして催涙弾と火炎瓶が乱舞する前に労使間は真摯な対話をすることができないのか。それでも、ある時は花のようだった妻、頼りがいのある家長として互いに信頼しながらうらやむものなく暮らしていたもの同士の夫婦喧嘩をなぜするのか。
それはただ、愚かな人間の習性だというところだけに押し付けるにはあまりにも切ない現実であることに、人は身動きできない破局に直面してやっと対話の必要性を切実に悟るのだ。
ところが、このような場合人間関係をあまりにも重視しすぎて実際の対話の確信を適当に避けていく妥協として事を結ぶ場合をよく目にすることができる。
「これから上手くやろう。」
互いに捕って食べるぐらいにうなっていたのに結局裁判所の前まで行った夫婦の間でした対話が、夫のたががこの一言で終わってしまったならばどんなにこっけいであるか。
労組間の紛争においても同じだ。闘争とか勝ち取ることに絶対の原則とか雄大な名分を掲げて血が飛ぶような戦いをしていたのに、協定のテーブルにつくと互いに握手して「上手くやりましょう。」と叫びながら写真を撮ったならば終わりだ。
これは対話を通した問題解決というよりは単純な社交場の和睦に過ぎない。たとえ対話の前の状況よりももっと激しい追及と意見の衝突が不可避であっても問題をひとつひとつ指摘していく過程が必ずあってこそ互いの成長に助けになりうるのだ。
対話が人間関係を前提にすると考える人はよくこれと同じくお茶を濁すような対話の罠に陥る危険が多い。
対話は問題解決と人間関係を分離して考えることではない。いつもこの二つをひとつに折衷することができてこそ本当の問題解決が可能なのだ。
すべての問題が人間関係だという面で終わるものではなく、どこまでも人間関係を通して問題解決の核心に狭めていくという明らかな心を持っていなければどんな解決策も正しいいえない事を覚えておきなさい。
※ 問題解決をあまり急ぐならば、適当にお茶を濁すような対話で
問題の核心を過ぎてしまう危険がある。