若い頃、ある議題を巡って会議が紛糾し深夜に及ぶ中でトップが倒れ救急車で運ばれるということがありました。それはトップの健康状態や精神的状態によるものだったのですが・・・。次の日にある新聞が使った見出しが「まるで集団リンチ」でした。
その経験はいったん活字になると、それが事実のように一人歩きする恐ろしさこわさを私の中に刻みつけました。
「どんな暴力があったのか」と信頼している友人にまで聞かれたのです。意見の応酬はあったにせよ、会議としてすすんでいた中での運の悪いできごとであったにもかかわらず。
言葉におどらされる人々、たたみかけてくるマスコミの得体の知れない姿、政治的圧力。
上のいうことを聞かない職員が悪い、処分・・・。
***
昨日「暴行目撃、教諭止めず」という見出しがありました。
この見出しを見た人は「何してたんだ」「この教師けしからん!」「どんなひどい学校だ?」と思うのでしょう。
被害者と加害者がどんな人間でどんな関係だったか、被害届を出しマスコミを呼んだ側の事実や経過、そして困難なことが多い中で先頭に立ちがんばっていた教師・・。見えること見えないことが多々あっても、もう「暴力に屈している教師たち」「だからこの学校はよくならないんだ」的にしか思われないでしょう。
:::::
前首相が「美しい国」や「教育再生」をかかげたとき、言葉が浮遊しているような気持ち悪さを覚えました。「教育再生」といっても、どれだけ現場のことを理解して言っているのか???でした。
:::::
たとえばA校の校区は5000万円以上する家がほとんど年収も安定した層が多い、B校は生活保護を受けている低所得者層がたくさん住む公営のアパートがかなりの割合を占めるとします。学力テストをしてA校の成績が高くB校の成績は低かったとしてB校の教師はさぼっているのでしょうか?次から次にいろいろな問題行動が出てきたとしてB校の教師が能なしなのでしょうか?「再生」とは何を自覚し何を改良していくのか、根っこを見ていない言葉の羅列のように思えました。
:::::
「言葉から見える真実、見えない真実」「その言葉はどこから来てどこにいこうとしている?」
見極めることの難しさを実感します。