同志社女子大学の山田邦和先生の歴史講座を受講していて最近は平安時代後期の院政期を学んでいます。講座では時代は白河天皇(法皇)の時代ですが、後白河院の「法住寺殿」跡地の一部である三十三間堂を再度、拝観に来ました。
平安時代長寛2年(1164)に後白河上皇の院政庁である法住寺殿の一角に平清盛が造営し寄進したのが三十三間堂です。
しかし、約80年後に焼失しましたが文永3年(1266)に再建されたのが現在の三十三堂です。
お堂の長さは約120m、正面の柱間が33あることから「三十三間堂」と通称されています。
堂内には1001体もの観音像がお祀りされています。年に数体ずつ修理・修復をされ、また、京都国立博物館や奈良国立博物館、東京国立博物館に寄託されていた観音像も戻られ、2018年には一括して国宝指定されました。
お堂中央の中尊を中心に左右にそれぞれ500体、その合計1001体がご本尊です。その内の124体が火災を免れ残っているのは驚きですね。そのお像には足元に「創建時造立仏」の札が架けられています
中尊は運慶の長男湛慶の82歳晩年の作で、その2年後に湛慶は亡くなっています。
観音像は頭上に11のお顔と左右に20種の手を持ち、それぞれの手には眼が描かれている「十一面千手千眼観音像」です。素材は全て檜で寄木造りの手法で造られています。
堂内の両端には風神像と雷神像がお祀りされています。鎌倉彫刻の代表作で建仁寺所蔵の俵屋宗達筆の国宝「風景雷神図屏風」もこの2体の像をモデルにしたと言われています。
堂内の諸仏に比べ建物は非常に簡素に見えますが、その免震構造は特筆するものがあります。
地盤は砂と粘土を何層にも重ね地面の振動を吸収し、柱や長押も揺れを想定した構造にするなど様々な免震構造が採用されています。
これは再建前に建築されていた得長寿院の建築構造を参考にしていたようです。
保元3年、二条天皇に譲位した後白河上皇が政務を執る院庁として造営したのが「法住寺殿」です。
その面積は今の京都国立博物館や妙法院などを含む四方十余町に及ぶ広大なものだったようです。
非常に見どころの多い"国宝の宝庫"ですね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます