埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。
【2015年6月発表】
かつて作家の石田衣良氏が、日本は政治もエンタメも右傾化して危険な世の中になっているとして「右傾エンタメ」というレッテルを貼りました。これに対して評論家の古谷経衡氏が、実例を詳しく挙げてそのレッテル貼りは当たらないとし、さらにずっと過去の「宇宙戦艦ヤマト」などの方が明らかに軍国主義的だが、そのような非難はされたことがないと指摘しています。
「要するに、アニメや漫画、映画やゲームといったカルチャー全般に疎い者が、このような雑然とした右傾エンタメ論を展開しているのがことの真相なのである。作品を観ない・触れないで、『なんとなく』のイメージのもとに語られるのが『右傾エンタメ』の真相だ。」(産経新聞6月5日付)
私はアニメには詳しくありませんが、目からウロコの思いです。
少し前に加藤典洋氏という文芸批評家が、百田尚樹氏の『永遠の0』を、彼が保守的発言をしているというだけの理由で、巧妙に仕組まれた右翼的作品と決めつけていました(『特攻体験と戦後』中公文庫解説。http://asread.info/archives/1423参照)。
加藤氏の場合は、作品に触れた上で、小難しい理屈を作り上げてそうしているのだから、もっとタチが悪い。しかも彼は文芸批評の専門家のはずです。文学作品をその外側のイデオロギーによって裁断する。これは批評家がけっしてやってはいけないことです。
石田氏にしろ加藤氏にしろ、文学畑の人は、えてしてこの種の軽はずみな政治的発言をするものですが(たとえば大江健三郎氏や村上春樹氏)、それは自分の本来の仕事に自信が持てなくなってきた証拠だと思います。
また、古谷氏の指摘は、何もアニメやゲームに限ったことではありません。
原発問題や集団的自衛権問題など、それらが国民生活にとって持つ総合的な意味をよく調べもせず考えもしないで、漠然とした印象だけで、ただ反対、反対と叫んでいる例があまりに多い。
これらの「空気」による世論形成は昔からお馴染みですが、今日のような高度大衆社会になると、その傾向はますます助長されます。こうした「空気」の支配のほうが、いわゆる「右傾エンタメ」の流行などよりはるかに危険です。というのは、こうした怠惰な傾向が増していくと、いくら真実を訴えても聞く耳を持たない全体主義的な社会が生まれるからです。
たとえば先ごろ橋下徹大阪市長が提唱した「大阪都構想」がそのよい例で、これに賛成した人たちは、その構想の意図や実態をよく調べもせずに、ただ地盤沈下に対する不満のはけ口を、何かやってくれそうな「改革」のイメージに求めただけなのです。これはたいへん危険な局面でした。
また安保法制化の国会論戦での反対野党の態度は、この法案がどんな国際環境の変化に対応したものか、どういう具体的な局面での自衛隊の活動を規定したものかを丁寧に議論せず、ただ「戦争への道を許すな」という左翼的ムードを利用しただけの、お粗末でヒステリックなものでした。
今日、必要な知識・情報はネットのおかげでいくらでも得られます。それは功罪相半ばなのですが、少なくとも何か発言する時には、観ない・触れない・調べないを決め込まずに、功の部分を大いに利用してからにしようではありませんか。
こちらのエッセイとは関係ないんですが…
他のサイトで内田樹氏に対する批判文を拝見しました。
一時期、氏に傾倒してかなり読み込んでいました。
確かに、自身がライフワークとしている古武道・能の修練を通じた身体運用の本質的洞察などには説得力があります。
しかし一方で恣意的・感覚的な表現が多いと感じたことや、読んでいて自分が心地よく誘導され籠絡されていることに気が付き、すこし距離を置いていました。
小浜先生の文章を読んで、自分の感覚に論理的な根拠が与えられて溜飲が下がる思いでした。
喧々囂々のこの御時世に頼もしい評論家は何より心の支えになります。応援しています。
内田樹氏は、『ためらいの倫理学』『おじさん的思考』の頃は、知識人として特定のイデオロギーに加担しない用語法を駆使したなかなか洗練された書きっぷりを披露していたのですが、ある時期から単純な反権力リベラル丸出しの主張をあられもなくするようになりました。馬脚を現したとは、まさにこのことです。
しかも最近では、間違った認識に基づいて特定秘密保護法案に反対する学者の会の音頭を取ったり、「日本が無条件降伏したのは、戦争指導部が、このままでは革命が起きて自分たちが殺されるかもしれないことを恐れたからだ」とか、「中韓の日本に対する謝罪要求が終わらないのは、謝っていないからだ」などというとんでもないデタラメを平気でふりまいたりしています。
このたびの安保法制化に当たっては、安倍政権の政策やそれを支持する国民に「反知性主義」という利いた風なレッテルを貼りつけ、自分がさも「知性主義者」「教養主義者」であるかのような気取りを示して、「俺は君たちよりものが見えているんだぞー」というインテリのアイデンティティを懸命に維持しようとしていますが、実態は、上に見たとおり、事実を何も調べずに幼稚なサヨク・プロパガンダに走っているだけです。
これって、戦後日本リベラル知識人のお決まりのコースなんですね。たとえば、大江健三郎、柄谷行人、加藤典洋、村上春樹、宮台慎司、石田衣良……。そして今回の内田樹。
専門の仕事で一家をなした人たちが、揃いも揃ってただのバカサヨクと変わらない不勉強なイデオロギストに落ちぶれてゆく。知識人としての資格を自ら放棄していくわけです。
なぜ日本では決まってこういうことになるのか、そのうちまとめて分析してみようかと思っています。
ちなみに私自身は、安倍政権の安全保障政策は支持していますが、経済政策はまったく支持していません。国民のためにならない緊縮財政策やグローバリズムへの迎合策ばかり取っているからです。
これからもどうぞよろしく。
いずれも、内実をよく知らずに
私も最近の一部のマスコミの『空気』の支配に何となくですが違和感を抱いています。
少し前にある芸能人が集団的自衛権にについての賛成でも反対でもない意見をコメントしただけで反対派から猛バッシングされたとの記事を読みました。これって小規模ながら全体主義的傾向ですよね。
集団的自衛権に反対することがまるで知的な人間にとって当然かのような報道、空気、うんざりです。
私自身は、勉強不足もありますが率直に言って「分からない」というのが本音です。とはいえ将来起こりうる危険に対処するための法案であろうことは理解しています。
ところが法案反対の理由として『戦争法案』だなんて言われても「アホか」としか思えないのです。そこには政治も外交も議論すら何にもなく、ただ感情の垂れ流しと『空気』の支配もしくは感染しかないんじゃないでしょうか。
反対するのが学者・学生・文化人という善くも悪くもピュアでナイーヴな連中だというのも説得力に欠ける気がします。はっきりいうと暢気な道楽にしか見えないのです(それこそ内田樹など、わたしは数年前までは愛読していたものですが・・・所詮あの人、悠々自適のお調子者なんじゃないかと・・・悪いことじゃないですけどね、大学教授兼文筆家としてなら)。
私の周りの人間などは賛成反対以前に上記三種類の人間については胡散臭い連中としか思っていないのが実情ですけれども。まあ一般人(?)ってどこでもそんなものじゃないでしょうか。とはいえ知識人としての自負があるのなら、もっとまともな議論を仕掛けてほしいものだと思わざるを得ません。
小浜さんの『ことばの闘い』、今後も楽しみにしております。
「学者・学生・文化人という善くも悪くもピュアでナイーヴな連中」について、周りの方たちが胡散臭い連中としか思っていず、どこでもそんなものだというご指摘、たいへん面白く、また真相を突いた重要なご指摘であると感じました。
きっといつの世でもそうなんですよね。そう考えればあきらめもつくのですが、でもこの人たちの一部が、けっこういわれなき権威を手にして、間違った認識によって世の中を動かしてしまうという現実もまた無視できません。
励ましのお言葉を重く受け止め、これからも息の続く限り書いていこうと思います。