「ユニバーサルデザイン(Universal Design、UD)とは、文化・言語・国籍の違い、老若男女といった差異、障害・能力の如何を問わずに利用することができる施設・製品・情報の設計(デザイン)をいう。」こととなっています。」
ユニバーサルデザイントイレとは、ユニバーサルデザインという「考え」で設計・建築されたうえ、一般に供用されているトイレということとなるかとも思います。
また、ユニバーサルデザインとは、障がい者などに配慮したという発想とは別とのことだそうです。それは、バリアフリーとかいう理念であり、障がい者や老人などなにがしかの要支援者に対する配慮という別の発想だそうです。
先ごろから、自分の用件で、公共物や、準公共物を訪うとき強くいらだつことがあります。というのは、最近建築されたものについては、男の小便器のあるトイレが少なくなり、ユニバーサルトイレの中いわゆる多機能(小便・大便一緒の様式トイレをベースにし、障がい者への対応、こどものホルダー、ストマの処理までついた何でもアリのトイレです。)トイレの設置となり、なかんずく男女共用のトイレさえありました。これらについて、おしなべて不愉快です。
男のトイレは、その頻度のほとんど小用です。小便器ならまだしも、便座トイレに立って放尿するのは、トイレ自体を汚しそうで、余計な気を遣うし、それを避けるために、便座の上で小用をするのは、備え付けの便座クリーナーがあるにせよ、好きになれません。
男(私を男一般と仮定しますが)だけの感覚なのか、知り合いの女性に聞いてみると、意外にも、「まだ和式がいい」とか、「公衆トイレの便座に座りたくない」、「必ずしも便座トイレとかでなくてもいい」けど、「膝を痛めたので、もうダメよねー」、とかの人も多く、しかしながら、「男女共同参画トイレ」は論外だそうです。
先ごろ、さる金融機関(残念ながら日本国民のために一般的に私が支援する金融機関、JA(農協)の新築の支店でした。)で、たまたま、顧客用の男女共用トイレの実態を見たとき、怒りに震え、「君たち職員は、職場で男女共同トイレを毎日使っているのか、顧客の事情に配慮せずこんなトイレを設計して建築した、建築士とその事業所は狂っている(?)」というアンケートに意見を書いておいてきました。しかし、新築の堅牢な建物であり、建築基準を満たしているのでしょうから、男女別のトイレを作る法的な義務はないのでしょう。したがって、「大多数の国民の抱く社会通念にも配慮できない(多くの国民大衆の意向も退ける)建設省も狂っている」、と申し添えます。 ま、そう書いても無駄かもしれませんが、顧客に、そんな不便と不快を強いる金融機関には、それ以降、極力いかないようにしています。
さすがに私が経験した範囲では、デパートや、ホテルなど、こんなとんでもない施設は「当然」ないところですが、コンビニとか、いまだにユニバーサル=男女共同参画トイレに固執しているところもあるようです。
殊に、「男と同じトイレを使うなんておぞましい」と言い切った知り合いもいましたので(その方は、うちの妻と娘のように、「おやじはくさい」、「あなたはくさい」とまでは言わない人ですが)、やはり、男と同じ公衆トイレを使うのは、感覚的にイヤダ、と強く思っているのでしょう。公共プールでも、「男の後を泳ぐのも嫌だ(くさいから)」、と言う女性を知っています。
桐野夏生の小説(「だから荒野」)でも、専業主婦の主人公が、夫と息子の使った後の汚れたふろの浴槽を描写するシーンがあり、女性が感じるそのあまりのリアルさと切実さに、小説のそのあとを同じ男として読み進むのが、いやになりました。
あれを読むとさらに、男と女の隔絶した「感覚」の違いがよーくわかります。
ここらで、まず結論を出しましょう。
私は、社会的な側面では、不特定の人が使うトイレにおいては、当然ながら、当該日本の伝統は守っていただき、男女別れたトイレで、男子トイレは小便器と大便器と別れたトイレを希望します。
公共的トイレの設置者は、男と女の性差に基づいたそれぞれの歴史性を考慮し無自覚であることなく、伝統等を考慮した男女それぞれの嗜好に応じたトイレを設置するとともに、その後時代の変遷により必要となった便益性(荷物おき、こども用のスペース、車いすなどの利用者への配慮)を付加することを忘れることなく、外出してトイレを利用したい様々な一般国民に対するサービスの質を配慮するとともに、普通に要望される社会の共通利害のよりよい実現に努力することを怠るべきではないのです(あらゆるトイレにおしなべてとまではいいませんが)。
それはそうとして、トイレ問題を一つとして、なぜ、日本国政府は本来の男女個々の性差に基づく思考、好悪、感覚について、本来配慮すべき努力をしないのか、あるいは怠っているのかについて考えたいと思います。
かねてより、人権研修と銘打ち、我々被雇用職員は、性差を原因とした、「社会的な」差別の排除を極力排除すべき、という見地から、職場研修を強いられています。われわれの同僚には、普通の大人の考えとして、「男女の差別より、男女の区別や、差異が問題だろう」という、至極まっとうな人が多かったのか、皆、担当者を除き、積極的に取り組むとは思えません。個人的に私は、この、忙しい時期にと思い、私の参加した行事のアンケートで、「「相互の差異を尊重した「男女共同参画」」と、最初に掲げるのなら、理念としてまだ意味がある。本来、男女差別は、不徹底な男女間の不平等賃金の格差の解消と、女性の産前産後休暇の確保ををあらゆる職場で義務化すればそれ以外は、余計なお世話」と、書き上げ提出しましたが、たぶん主催者には、そんな投書をフィードバック(弁証法的な契機を取り込む)するような経路などないでしょう。
しかしながら、安倍政権は、なぜ、つまらない、「男女共同参画」運動に血道を上げるのか、と考えれば、小浜逸郎氏の考察を見れば明らかでしょう。(「母親就業率のランキングに見る欺瞞」http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/6fd741b410e321baaef92ce805928cd3)
「すべての女性が輝く政策パッケージ」として、平成26年10月、政府自民党は、「すべての女性が輝く社会づくり本部決定」として、「すべての女性が輝く社会をつくる。これは、安倍内閣の最重要課題である。女性は社会のあらゆる分野で重要な役割を担っている。「すべての女性が輝く社会」とは、各々の希望に応じ、女性が、職場においても、家庭や地域においても、個性と能力を十分に発揮し、輝くことができる社会である。」と歯の浮くような、空論を書いています。
それが、実際に、不安定な派遣労働、パートタイム労働で市民社会の中で奮闘する恵まれない大部分の女性たちの「本来の利害」と「現状の正しい改善」の問題に対し、 いかに厳しく対立しているかは、明らかに思われます。
また、女性管理職の登用という施策など、恵まれた一部エリート女性に媚び、バイアスのかかった不公平な人材登用で、現場のやる気を阻害し、能力不足により、指揮系統に混乱をきたす人事を国・地方レベルで実現しようとしています。各職場において能力のない上司は、いずれにせよ御免ですが、優秀で有能な女性上司は女子力を最大限有効に使っているし、はげ・デブで時に臭い男上司より歓迎するぞ、というのが、男、部下皆の本音ではないのでしょうかね。
男と女には、古来から(?)、当然に、肉体的にも、観念的にも明らかに差があり、その差異を消去しようとしたり、制度で無理やり埋めようとしたりしても、何の意味もない、むしろ差異を尊重し、当該特質を社会に還元できるような経路がまず必要なのではないか、というのが、国の本来の知性ある施策ではないのでしょうかね。(みなさん、再度、小浜氏の人気ブログを、拳拳服膺(けんけんふくよう( 意味 :人の教えや言葉などを、心にしっかりと留めて決して忘れないこと。両手で物を大切に捧ささげ持って胸につける意から▽「拳拳」は両手でうやうやしく捧げ持つ形容。「服膺」は胸にくっつけることから、よく心に留めること。「服」はつける意。「膺」は胸の意)してくださいね。)
閑話休題、
あえて、言うならば、女性よ、生理的な反応感覚だけで、男(夫・父など)を貶め、誹謗するのはよせ、それをしないのが、本来の人間としての教養とか、知性とかいうものじゃないのかね、と言いたい、ところです。
しかし、同性同年齢の私としても、現在のような、容貌とかにおいや感覚性に過剰に過敏な、他者の欠点に過度に非寛容でかつ現在のような半ばに神経症的な世界になじめば、「やはりおやじはくさい」、と感じるのは悲しいところですが・・・。
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かつて、太宰治は、名著「カチカチ山」において、主人公の16歳の処女(?)のウサギが、愚鈍で醜い、しかし過度に悪くないタヌキをこれでもかと懲らしめる様を、「・・・皮膚感覚が倫理を覆(おお)っている状態、これを低能あるいは悪魔という。」と評しています。
思春期(発情期)のつらい(?)時期に、「暗い」とか「キモイ」とか、低脳か、悪魔かに口をそろえてはやされたら、内向的な(内面性のある)、殊に男の子ってつらいよね、確かにあやつらは、悪魔だ。
「皮膚感覚だけで、一生渡れると思うなよ、低能が・・・」と罵ってもむだか、「男どもよ、勝てないだろうが負けるなよ」、とエールを送ります。
ユニバーサルデザイントイレとは、ユニバーサルデザインという「考え」で設計・建築されたうえ、一般に供用されているトイレということとなるかとも思います。
また、ユニバーサルデザインとは、障がい者などに配慮したという発想とは別とのことだそうです。それは、バリアフリーとかいう理念であり、障がい者や老人などなにがしかの要支援者に対する配慮という別の発想だそうです。
先ごろから、自分の用件で、公共物や、準公共物を訪うとき強くいらだつことがあります。というのは、最近建築されたものについては、男の小便器のあるトイレが少なくなり、ユニバーサルトイレの中いわゆる多機能(小便・大便一緒の様式トイレをベースにし、障がい者への対応、こどものホルダー、ストマの処理までついた何でもアリのトイレです。)トイレの設置となり、なかんずく男女共用のトイレさえありました。これらについて、おしなべて不愉快です。
男のトイレは、その頻度のほとんど小用です。小便器ならまだしも、便座トイレに立って放尿するのは、トイレ自体を汚しそうで、余計な気を遣うし、それを避けるために、便座の上で小用をするのは、備え付けの便座クリーナーがあるにせよ、好きになれません。
男(私を男一般と仮定しますが)だけの感覚なのか、知り合いの女性に聞いてみると、意外にも、「まだ和式がいい」とか、「公衆トイレの便座に座りたくない」、「必ずしも便座トイレとかでなくてもいい」けど、「膝を痛めたので、もうダメよねー」、とかの人も多く、しかしながら、「男女共同参画トイレ」は論外だそうです。
先ごろ、さる金融機関(残念ながら日本国民のために一般的に私が支援する金融機関、JA(農協)の新築の支店でした。)で、たまたま、顧客用の男女共用トイレの実態を見たとき、怒りに震え、「君たち職員は、職場で男女共同トイレを毎日使っているのか、顧客の事情に配慮せずこんなトイレを設計して建築した、建築士とその事業所は狂っている(?)」というアンケートに意見を書いておいてきました。しかし、新築の堅牢な建物であり、建築基準を満たしているのでしょうから、男女別のトイレを作る法的な義務はないのでしょう。したがって、「大多数の国民の抱く社会通念にも配慮できない(多くの国民大衆の意向も退ける)建設省も狂っている」、と申し添えます。 ま、そう書いても無駄かもしれませんが、顧客に、そんな不便と不快を強いる金融機関には、それ以降、極力いかないようにしています。
さすがに私が経験した範囲では、デパートや、ホテルなど、こんなとんでもない施設は「当然」ないところですが、コンビニとか、いまだにユニバーサル=男女共同参画トイレに固執しているところもあるようです。
殊に、「男と同じトイレを使うなんておぞましい」と言い切った知り合いもいましたので(その方は、うちの妻と娘のように、「おやじはくさい」、「あなたはくさい」とまでは言わない人ですが)、やはり、男と同じ公衆トイレを使うのは、感覚的にイヤダ、と強く思っているのでしょう。公共プールでも、「男の後を泳ぐのも嫌だ(くさいから)」、と言う女性を知っています。
桐野夏生の小説(「だから荒野」)でも、専業主婦の主人公が、夫と息子の使った後の汚れたふろの浴槽を描写するシーンがあり、女性が感じるそのあまりのリアルさと切実さに、小説のそのあとを同じ男として読み進むのが、いやになりました。
あれを読むとさらに、男と女の隔絶した「感覚」の違いがよーくわかります。
ここらで、まず結論を出しましょう。
私は、社会的な側面では、不特定の人が使うトイレにおいては、当然ながら、当該日本の伝統は守っていただき、男女別れたトイレで、男子トイレは小便器と大便器と別れたトイレを希望します。
公共的トイレの設置者は、男と女の性差に基づいたそれぞれの歴史性を考慮し無自覚であることなく、伝統等を考慮した男女それぞれの嗜好に応じたトイレを設置するとともに、その後時代の変遷により必要となった便益性(荷物おき、こども用のスペース、車いすなどの利用者への配慮)を付加することを忘れることなく、外出してトイレを利用したい様々な一般国民に対するサービスの質を配慮するとともに、普通に要望される社会の共通利害のよりよい実現に努力することを怠るべきではないのです(あらゆるトイレにおしなべてとまではいいませんが)。
それはそうとして、トイレ問題を一つとして、なぜ、日本国政府は本来の男女個々の性差に基づく思考、好悪、感覚について、本来配慮すべき努力をしないのか、あるいは怠っているのかについて考えたいと思います。
かねてより、人権研修と銘打ち、我々被雇用職員は、性差を原因とした、「社会的な」差別の排除を極力排除すべき、という見地から、職場研修を強いられています。われわれの同僚には、普通の大人の考えとして、「男女の差別より、男女の区別や、差異が問題だろう」という、至極まっとうな人が多かったのか、皆、担当者を除き、積極的に取り組むとは思えません。個人的に私は、この、忙しい時期にと思い、私の参加した行事のアンケートで、「「相互の差異を尊重した「男女共同参画」」と、最初に掲げるのなら、理念としてまだ意味がある。本来、男女差別は、不徹底な男女間の不平等賃金の格差の解消と、女性の産前産後休暇の確保ををあらゆる職場で義務化すればそれ以外は、余計なお世話」と、書き上げ提出しましたが、たぶん主催者には、そんな投書をフィードバック(弁証法的な契機を取り込む)するような経路などないでしょう。
しかしながら、安倍政権は、なぜ、つまらない、「男女共同参画」運動に血道を上げるのか、と考えれば、小浜逸郎氏の考察を見れば明らかでしょう。(「母親就業率のランキングに見る欺瞞」http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/6fd741b410e321baaef92ce805928cd3)
「すべての女性が輝く政策パッケージ」として、平成26年10月、政府自民党は、「すべての女性が輝く社会づくり本部決定」として、「すべての女性が輝く社会をつくる。これは、安倍内閣の最重要課題である。女性は社会のあらゆる分野で重要な役割を担っている。「すべての女性が輝く社会」とは、各々の希望に応じ、女性が、職場においても、家庭や地域においても、個性と能力を十分に発揮し、輝くことができる社会である。」と歯の浮くような、空論を書いています。
それが、実際に、不安定な派遣労働、パートタイム労働で市民社会の中で奮闘する恵まれない大部分の女性たちの「本来の利害」と「現状の正しい改善」の問題に対し、 いかに厳しく対立しているかは、明らかに思われます。
また、女性管理職の登用という施策など、恵まれた一部エリート女性に媚び、バイアスのかかった不公平な人材登用で、現場のやる気を阻害し、能力不足により、指揮系統に混乱をきたす人事を国・地方レベルで実現しようとしています。各職場において能力のない上司は、いずれにせよ御免ですが、優秀で有能な女性上司は女子力を最大限有効に使っているし、はげ・デブで時に臭い男上司より歓迎するぞ、というのが、男、部下皆の本音ではないのでしょうかね。
男と女には、古来から(?)、当然に、肉体的にも、観念的にも明らかに差があり、その差異を消去しようとしたり、制度で無理やり埋めようとしたりしても、何の意味もない、むしろ差異を尊重し、当該特質を社会に還元できるような経路がまず必要なのではないか、というのが、国の本来の知性ある施策ではないのでしょうかね。(みなさん、再度、小浜氏の人気ブログを、拳拳服膺(けんけんふくよう( 意味 :人の教えや言葉などを、心にしっかりと留めて決して忘れないこと。両手で物を大切に捧ささげ持って胸につける意から▽「拳拳」は両手でうやうやしく捧げ持つ形容。「服膺」は胸にくっつけることから、よく心に留めること。「服」はつける意。「膺」は胸の意)してくださいね。)
閑話休題、
あえて、言うならば、女性よ、生理的な反応感覚だけで、男(夫・父など)を貶め、誹謗するのはよせ、それをしないのが、本来の人間としての教養とか、知性とかいうものじゃないのかね、と言いたい、ところです。
しかし、同性同年齢の私としても、現在のような、容貌とかにおいや感覚性に過剰に過敏な、他者の欠点に過度に非寛容でかつ現在のような半ばに神経症的な世界になじめば、「やはりおやじはくさい」、と感じるのは悲しいところですが・・・。
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かつて、太宰治は、名著「カチカチ山」において、主人公の16歳の処女(?)のウサギが、愚鈍で醜い、しかし過度に悪くないタヌキをこれでもかと懲らしめる様を、「・・・皮膚感覚が倫理を覆(おお)っている状態、これを低能あるいは悪魔という。」と評しています。
思春期(発情期)のつらい(?)時期に、「暗い」とか「キモイ」とか、低脳か、悪魔かに口をそろえてはやされたら、内向的な(内面性のある)、殊に男の子ってつらいよね、確かにあやつらは、悪魔だ。
「皮膚感覚だけで、一生渡れると思うなよ、低能が・・・」と罵ってもむだか、「男どもよ、勝てないだろうが負けるなよ」、とエールを送ります。