いつもながら、時宜に合わぬ投稿となりますが、先に録画だけ済ませていた、BSのNHKスペシャル「定点映像 震災5年の記録」という番組を、本日見ましたが、いろいろ思うところがあり、2014年に仕事で、標記の文集を編まれた方とお会いしたことがあったので、当該顛末について、下記のとおり私見を述べさせていただきます。
******************************************
「記憶 3月11日 HAND DOWN 東北」という文集を読んだことについて その1
2014.9.23
来る、平成26年11月5日(水)市内のT中で、Tブロック人権推進協議会行事が行われます。今回は、3.11で被災した、子どもたちの文集(2014年2月1日刊行)を契機に、その文集運動を組織した、代表の女学生(?) たちを呼ぶことになっています。どの手記も、自分自身の「直接体験」とその後の〈日常〉を率直に素直につづっています。山口在住の私たちにとって、彼女たちに会えるような、このような機会はあまりないと思いますので、皆様方に、是非参加をお勧めします。
あの2011年3.11以降、当時の私の個人的な感覚として、東京以北と、東海道以南と日本列島が大きく分断されたように感じました。その違和感と、災害の実態のわからなさについて、以前から、色々考えてみたいと思っていました。当時、強い焦燥感に駆られ、3.11後の状況に対する、敬意を払うような学者や文化人(?) の発言を懸命に探したよう思います。
多くの方々も同様な経験をお持ちではないでしょうか。
また、私は、2011年8月に福島県のいわき市に市の災害ボランティアとして派遣されました。
私のみた被災地は、沿岸部の甚大な被害と、一部地域の家屋被害であり、一番深刻なのは放射線汚染(?) による農作物の風評被害でした(代わりに私は福島産ももをたくさん買い込みましたが)。
激震地の被害の大きさなど、手記を読んだ彼女たちの被災地とはまた違っており、それぞれの、被災地域での〈落差〉についても考えてみたかったところです。
彼女たちが、このたび(2014年2月1日)自己体験を語ることができるようになるまで時間がかかったことは、手記の中でそれぞれ触れられています。今でいうと、ほぼ3年半くらい、彼女たちにも、私たちにも均等に時間が流れています。(ただし、政治レベルで、国・県の復旧支援が十分に行われていないこと、東北の一部で、非日常がいまだに日常になっているような(被災住宅等)は大変お気の毒ですが)彼女たちは皆、それぞれの進路や人性を、生きのこった家族や周囲と折り合いをつけながら、厳しい〈日常〉に帰っていったようです。運よく、私たちの相応の日常が、幸も不幸も含め淡々と続いていたように。
彼女たちは、宮城県石巻市に在住し、被災しています。地形的には津波で大きな被害を受けたところです。彼女たちを含め、広い東北のそれぞれで、様々な人が被災し、様々な被害と、それぞれ異なった体験で、家族の死に遭遇し、家や財産、生活の根底を失っています。その、悲しみと、喪失感を、文章として確認(客観視)するには、相応の時間が必要だったのだと感じられます。
3.11当時、私が、テレビで被災後の現地のルポを見ていると、生き延びた人たちがまず最初に必死に行ったのは家族の安否の確認であり、時間がたち、それが叶わなかった場合は、被災地での瓦礫の中での懸命な遺体の捜索でした。それは、とてもよくわかる行動で、全国でも被災地以外の多くの家族が、身につまされて、その映像を見守った筈です。
一般的に人間は、身内の死を、死として認識し納得できなければ、先に進めない存在であり、また、人間は、他人の悲惨を、自らの苦しみ、悲しみとして受感し、共有することができる存在でもあるのです。
私には、彼女たちの「記憶」の記録が、以前に紹介した、「火葬場の少年」(オドネルさんの写真)と重なってしまいます。若くして、理不尽な肉親の死に立会う、厳しい運命です。
彼らにとって、一番大きなことは、いかにして、それぞれで肉親の死を受け入れたかということです。一人の子は、崩壊した家から、足を挟まれ「行かないで」という母を振り切り、重油で真っ黒い海を泳いで必死に逃れた体験をしています。そしてその自らの痛みと悔恨と、母の死を受け入れ、鎮魂のために手記を書いているのがよくわかります。
「火葬場の少年」は、死にわかれた両親、家族の代わりに、死んだ妹を背中に負い、火葬場につれてきました。大地震と、敗戦と、理不尽な暴力の中で、彼らは被災したのです。
再度、「家族の〈役割〉」を蒸し返しますが、家族とは、「死者を正しく葬ることによって、死者に「人間としての尊厳」を付与しなおすという使命と役割を最初からもっている」筈なのです。
慣れ親しんだ家族は、互いに思いやり、気持ちの交流を持ちます。不意の死があり、理不尽にまた不条理に別れた残された家族は、個々に自分で家族の死と別れの意味を考え、受け入れ、祖霊のもとに、彼らを送らなくてはならないのです。
東北には、「津波てんでんこ」ということわざがあるそうです。
天災のときは、それぞれなりふり構わず一人で逃げて、生きのこったやつがまたやりなおせよ、といったような意味だそうです。〈一般的に〉東北地方は、自然も支配も過酷な地域でしたから、飢饉や中央政府の制圧など、悲惨な歴史はいくらもあるでしょう。(「なぜまた東北なのか」という声もありました。)しかし、生き延びた人間とすれば、どんなに厳しい現実が残ったとしても、希望をもち、自己を肯定しなければ生きていけないのです。
彼女たちの取り組みは、まだ、政治的な利用はされていないように思われます。(政治責任を問うとか、脱原発とかいうあれですけど)
中には、この体験を世界に発信しなければならない、というような文章もありました。
しかし、現在の世界を考えれば、悲しいことに、天災のみならず、戦争や政治や宗教や理不尽な人為的な暴力によって招き寄せられる、死や、悲惨な現実はいくらもあることです。あえて年上の人間としていわせてもらえば、それよりは、自分で、自分の体験を深く想い、今後の〈自分の〉未来を見すえ、生きていく希望や勇気を持って欲しいところです。 それが、亡くなった人たちの死を悼み、死者を〈正しく〉葬る方法であるように思えます。
彼らの、真摯で、切実な取り組みが、聴衆の皆に、感動と、勇気を与えるように祈っています。
*うちの英会話の先生に聞きましたが、ハンドダウンのコノテーション(言外の意味)というのは、手を挙げる気力もない、呆然とする、手をつかねるというような意味だそうです。実際に、意味を聞いてみたいですね。
******************************************
「記憶 3月11日 HAND DOWN 東北」という文集を読んだことについて その1
2014.9.23
来る、平成26年11月5日(水)市内のT中で、Tブロック人権推進協議会行事が行われます。今回は、3.11で被災した、子どもたちの文集(2014年2月1日刊行)を契機に、その文集運動を組織した、代表の女学生(?) たちを呼ぶことになっています。どの手記も、自分自身の「直接体験」とその後の〈日常〉を率直に素直につづっています。山口在住の私たちにとって、彼女たちに会えるような、このような機会はあまりないと思いますので、皆様方に、是非参加をお勧めします。
あの2011年3.11以降、当時の私の個人的な感覚として、東京以北と、東海道以南と日本列島が大きく分断されたように感じました。その違和感と、災害の実態のわからなさについて、以前から、色々考えてみたいと思っていました。当時、強い焦燥感に駆られ、3.11後の状況に対する、敬意を払うような学者や文化人(?) の発言を懸命に探したよう思います。
多くの方々も同様な経験をお持ちではないでしょうか。
また、私は、2011年8月に福島県のいわき市に市の災害ボランティアとして派遣されました。
私のみた被災地は、沿岸部の甚大な被害と、一部地域の家屋被害であり、一番深刻なのは放射線汚染(?) による農作物の風評被害でした(代わりに私は福島産ももをたくさん買い込みましたが)。
激震地の被害の大きさなど、手記を読んだ彼女たちの被災地とはまた違っており、それぞれの、被災地域での〈落差〉についても考えてみたかったところです。
彼女たちが、このたび(2014年2月1日)自己体験を語ることができるようになるまで時間がかかったことは、手記の中でそれぞれ触れられています。今でいうと、ほぼ3年半くらい、彼女たちにも、私たちにも均等に時間が流れています。(ただし、政治レベルで、国・県の復旧支援が十分に行われていないこと、東北の一部で、非日常がいまだに日常になっているような(被災住宅等)は大変お気の毒ですが)彼女たちは皆、それぞれの進路や人性を、生きのこった家族や周囲と折り合いをつけながら、厳しい〈日常〉に帰っていったようです。運よく、私たちの相応の日常が、幸も不幸も含め淡々と続いていたように。
彼女たちは、宮城県石巻市に在住し、被災しています。地形的には津波で大きな被害を受けたところです。彼女たちを含め、広い東北のそれぞれで、様々な人が被災し、様々な被害と、それぞれ異なった体験で、家族の死に遭遇し、家や財産、生活の根底を失っています。その、悲しみと、喪失感を、文章として確認(客観視)するには、相応の時間が必要だったのだと感じられます。
3.11当時、私が、テレビで被災後の現地のルポを見ていると、生き延びた人たちがまず最初に必死に行ったのは家族の安否の確認であり、時間がたち、それが叶わなかった場合は、被災地での瓦礫の中での懸命な遺体の捜索でした。それは、とてもよくわかる行動で、全国でも被災地以外の多くの家族が、身につまされて、その映像を見守った筈です。
一般的に人間は、身内の死を、死として認識し納得できなければ、先に進めない存在であり、また、人間は、他人の悲惨を、自らの苦しみ、悲しみとして受感し、共有することができる存在でもあるのです。
私には、彼女たちの「記憶」の記録が、以前に紹介した、「火葬場の少年」(オドネルさんの写真)と重なってしまいます。若くして、理不尽な肉親の死に立会う、厳しい運命です。
彼らにとって、一番大きなことは、いかにして、それぞれで肉親の死を受け入れたかということです。一人の子は、崩壊した家から、足を挟まれ「行かないで」という母を振り切り、重油で真っ黒い海を泳いで必死に逃れた体験をしています。そしてその自らの痛みと悔恨と、母の死を受け入れ、鎮魂のために手記を書いているのがよくわかります。
「火葬場の少年」は、死にわかれた両親、家族の代わりに、死んだ妹を背中に負い、火葬場につれてきました。大地震と、敗戦と、理不尽な暴力の中で、彼らは被災したのです。
再度、「家族の〈役割〉」を蒸し返しますが、家族とは、「死者を正しく葬ることによって、死者に「人間としての尊厳」を付与しなおすという使命と役割を最初からもっている」筈なのです。
慣れ親しんだ家族は、互いに思いやり、気持ちの交流を持ちます。不意の死があり、理不尽にまた不条理に別れた残された家族は、個々に自分で家族の死と別れの意味を考え、受け入れ、祖霊のもとに、彼らを送らなくてはならないのです。
東北には、「津波てんでんこ」ということわざがあるそうです。
天災のときは、それぞれなりふり構わず一人で逃げて、生きのこったやつがまたやりなおせよ、といったような意味だそうです。〈一般的に〉東北地方は、自然も支配も過酷な地域でしたから、飢饉や中央政府の制圧など、悲惨な歴史はいくらもあるでしょう。(「なぜまた東北なのか」という声もありました。)しかし、生き延びた人間とすれば、どんなに厳しい現実が残ったとしても、希望をもち、自己を肯定しなければ生きていけないのです。
彼女たちの取り組みは、まだ、政治的な利用はされていないように思われます。(政治責任を問うとか、脱原発とかいうあれですけど)
中には、この体験を世界に発信しなければならない、というような文章もありました。
しかし、現在の世界を考えれば、悲しいことに、天災のみならず、戦争や政治や宗教や理不尽な人為的な暴力によって招き寄せられる、死や、悲惨な現実はいくらもあることです。あえて年上の人間としていわせてもらえば、それよりは、自分で、自分の体験を深く想い、今後の〈自分の〉未来を見すえ、生きていく希望や勇気を持って欲しいところです。 それが、亡くなった人たちの死を悼み、死者を〈正しく〉葬る方法であるように思えます。
彼らの、真摯で、切実な取り組みが、聴衆の皆に、感動と、勇気を与えるように祈っています。
*うちの英会話の先生に聞きましたが、ハンドダウンのコノテーション(言外の意味)というのは、手を挙げる気力もない、呆然とする、手をつかねるというような意味だそうです。実際に、意味を聞いてみたいですね。