先に、「富国と強兵」という大著の出版があり、それに比べると、この本は、著者にとって余技に当たるものかもしれない、と思われます。
しかしながら、能力ある「経済ナショナリズム」の専門家として、あるいは象牙の塔に住まない(浮世離れした学者でなくまた曲学阿世の使徒でない。)無原則に時流に迎合しない(御用経済学者でない)、またいわゆる俗流(役にたたない)経済学者ではない、著者においての、大変興味深い、面白い読み物となっています。
まず、われわれが気をつけなくてはならないのは、われわれがいかに数多くの「誤った共同幻想」のとりこになっていはしないか、ということです。
彼の執筆の動機は、最初に、自己の部局の若い同僚が、「ベンチャー企業を立ち上げるために辞職したい」と相談したことから始まります。優秀な部下であるので、慰留したいところですが、決意が固く、引き止められなかった、という話です。ここから、著者の疑問が沸き立ちます。
「米国の若き頭脳が、あるいは国境を越えた他国の優秀な若者たちが、自己の優れた能力を、米国の制度・国家の支援の基に、産学協同のシリコンバレーで、たとえばスティーブジョブ様のように実現していく」、というような神話が、あるいは、誰にも都合のよい「共同幻想」が、果たして信ずるに足る「幻想」であるのか、ということです。
彼は大変頭のよい学者ですあり、また周到な理論家でもあるので、(私も) 読み通しはしましたが、著者自身のあとがきの列記を読めば、もうそれで、この本の意義は十分に尽くせると思いますので、それを記します。それ以上付け加えるところはないですね。これは、社会科学の著作家としてとても大事な論じ方だと思われます。また、これらの教訓の反目を経営に生かせば、企業経営に役立つ(文中でイノベーションはどのようにしておきるか、気鋭の日本人学者によって行われたという実証的な周到な研究についても触れられています。)と読めるようになっています。以下、列記します。
1 アメリカはベンチャー企業の天国ではない。
・アメリカの開業率は下落し続けており、この30年間で半減している。
・1990年代は、IT革命にもかかわらず、30歳以下の起業家の比率は低下ないしは、停滞しており、特に2010年以降は激減している。
・一般的に、先進国よりも開発途上国の方が起業家の比率が高い傾向にある。例えば、生産年齢人口に占める起業家の比率は、ペルー、ウガンダ、エクアドル、ヴェネズエラはアメリカの2倍以上である。日本の開業率も、高度成長期には現在よりもはるかに高かった。
・アメリカの典型的なベンチャー企業は、イノベーティブなハイテク企業ではなく、パフォーマンスも良くない。起業家に多いのは若者よりは中年男性である。
・ベンチャー企業の平均寿命は5年以下である。うまく軌道にのるベンチャー企業は全体の3分の1程度である。
2 アメリカのハイテク・ベンチャー企業を育てたのは、もっぱら政府の強力な軍事産業育成策である。
・シリコンバレーは軍事産業の集積地である。
・アメリカ政府は、軍事産業の育成の一環として、ハイテク・ベンチャー企業に対して公的な資金の供給を行ってきた。
・ITはハイテク・ベンチャー企業の隆盛をもたらしたが、そのITは、インターネットをはじめとして、軍事産業から生まれたものである。
・ベンチャー・キャピタルというビジネスモデルは、軍に由来する。
3 イノベーションは、共同体的な組織や長期的に持続する人間関係から生まれる。
・イノベーションを起こすには、そのための資源動員を正当化する理由が必要になるが、そうした理由を共有できるのは、共同体的な組織や長期的に持続する人間関係である。
・個人を活かすのは、共同体的な組織や長期的に持続する人間関係である。
・イノベーションの推進力となるのは、営利目的を超えた組織固有の価値観である。
・イノベーションを推進する最大・最強の組織は、国家である。
4 アメリカは1980年以降の新自由主義的な改革により金融化やグローバル化が進んだ結果、この40年間、生産性は鈍化し、画期的なイノベーションが起きなくなる「大停滞」に陥っている。
・金融化は、企業の短期主義を助長し、長期的な研究開発投資を忌避する傾向を強めた。
・金融化により、ベンチャー・キャピタルは投機により短期的な利益を追うようになり、もはやリスク・マネーを供給する主体ではなくなった。
・グローバリゼーションは、人材や技術のアウトソーシング(オフショアリング)(註、生産や技術開発まで海外に移転させるもの)に拍車をかけ、アメリカのイノベーションを生み出す力は空洞化した。
・オープン・イノベーション(註、外から異質なものを取り組み、内部資源と組み合わせる試み、とされているが、現実は決してそのようには動いていない。共同作業が前提のイノベーションは外から人材を入れたなどとの安易なものでは動かない。)は、企業の短期主義の結果であり、イノベーションを阻害するように働く。
・短期的な利益追求はイノベーションを阻害する。にもかかわらず、アメリカのビジネス・スクールは、短期的な利益率の向上ばかり教えている。
5 日本は、1990年代以降、アメリカを模範とした「コーポレート・ガバナンス改革」(註、企業経営をめぐる一連の構造改革、具体的には商法改正によるストック。・オプション制度の導入、自社株の目的を限定しない取得・保有の合法化など)を続けた結果、アメリカと同様に、長期の停滞に陥っている。
・日本の「コーポレート・ガバナンス改革」は、アメリカのビジネス・スクールで洗脳された官僚たちが主導している。
・日本の「コーポレート・ガバナンス改革」は金融化やグローバル化を推進し、日本企業を短期主義的にする結果を招いている。
・「コーポレート・ガバナンス改革」によって、日本はイノベーションが起きない国へと転落する。
・一般に流布しているベンチャー企業論は、戦後復興期に丸山真男、大塚久雄、川島武宣、桑原武夫といった知識人たちが広めた「近代化論」の焼き直しである。
以上が、ベンチャー企業とイノベーションについての「恐るべき実態」なのです。
(註 は、天道の付記です。)
以上のように記されておりますが、「貧すれば鈍する」というか、「弱り目に祟り目」というか、かの「失われた30年目」において日本国の採用している苦し紛れの経済政策はため息が出るような実態ですが、視野のない、愚かな日本国は、ビジネス・スクールにしなくてもよい人材派遣をし、誤ったアメリカに倣ったばっかりに、1970年代までの、世界に誇る自前の「日本的経営」の成果を、着々と、放棄しつつあるのですね。
以下、この本で扱われた「迷妄の共同幻想」について、キーワードを基に、感想を述べさせていただきます。著者にも、今までも十分に言い尽くされた、用語であるかもしれませんが、それは素人の強みで、中央突破するばかりですが。
「第二の敗戦」、私が、この言葉を最初に聞いたのは、吉本隆明の著書からですが、「平成大不況」の代名詞となったこの言葉は、流行語としては、いいような悪いような、ぬゑ的な、玄妙な言葉ですね。しかし、どうも過剰な意味合いを付するとすれば間違うようです。
私は、卑俗化してしまいますが、いわゆる、「第一の敗戦」が、占領軍により、戦前の社会組織や価値観がことごとく覆され、戦前の経済体制が完膚なきまで破壊されたこととすれば、戦後、懸命に、押し付けられたアメリカ流の経済体制・慣習に抗いつつ、日本国独自の、経済秩序及び労働慣習(分配の公平、終身雇用、企業内教育の完備等)を引き続き継承し、高度な技術力と開発力で、その後世界規模で成功し西欧ビジネスのロールモデルになった誇るべき「日本式経営」であった筈が、バブルの崩壊以降、なぜか世界一の地位を返上したわけです。なぜ、バブル不況になったのかについて、十分な分析が行われず、そうなれば、苦し紛れに、犯人探しとして、今までの日本的経営、よい労働環境、労働慣行(終身雇用、個々の雇用企業に係る帰属意識の強さ)や労働力の質(独創性のなさ(私はそれを認めない。)、集団主義とか西欧人などに比べての個々の能力の相対的低さ(私はそんなものも信用しないが)など)が槍玉にあげられ、その価値観の強烈な否定が、ついには国民経済、大多数の国民の気持ちに混乱を与えると同時に自信を喪失せしめ、その後「第二の敗戦」という言葉に、定着してしまったというところでしょうか。
ところで、当時(1990年代から後のころ)、素人観測としても、昨日まで、労働者を切り捨てない温情主義、協調主義、優秀な労働者もそうでない労働者にも機会を与え、それなりに仕事場を与え、分配も比較的公平で、職域間の軋轢も生みにくい「日本的経営」として、世界的にほめそやされた、日本式経営が、一夜を明けると、なぜ、これほど、「悪平等」、「個人の能力が評価・発揮されない」、したがって、「世界市場で実績が上がらない」などと、そしられ、おとしめられたのは、率直、きつねにつままれたような感覚でした。
実際のところ、バカな話でしたね。中共などの後進国では、「昨日の価値が今日は否定され、国民が生命の危険さえ脅かされる」事件は頻繁にあった現象かもしれませんが、少なくとも、近代国家を経由した日本では、そんなバカげたことはあってはならないことですね。
当時から、「規制緩和」とか、「構造改革」とか、政・官・民連合の、有害な誤った政策で、無意味に踊らされた国民が、結果として、財産ひいては将来の安全にも多大な被害を受けましたが、政府・為政者が、「常に国民をだます」ものであるとはいいませんが、先が読めず、「愚か」であったのは確かであり、「郵政改革」から始まり、農協・日本国の農業解体等にいたるまでの「負の道行き」を、きちんと批判できなかった、あるいは認識できなかった、自分をも、省みて、今後は、より老獪で智恵の働く大衆になることと、します。
著者は、1990年代当時からの景気後退は、何も日本企業の実績が上がらなくなったのではなく、当該不況の招来は、世界の景気動向を読み違え、アメリカに迎合し、超低金利政策を固定化した金融政策の失敗と切り捨てていますが、現在における、何をなすべきか迷っているような無策の日銀当局、リーダーシップを発揮できず財政政策による景気浮揚を断じて行わない政府、財務省をよく見ていれば、それもよく得心がゆきます。
いずれにせよ、先の「第二の敗戦」ではないですが、流行語のように語られ、「規制緩和」とか「グローバリズム」とか誰もが自分で100遍唱えればひとり歩きの「真理」や「信仰」となる「雰囲気」とは愚かしくも怖いものです。
引き続き、「ではの守」について言及します。
他の方々の著書でも、おなじみの言葉ですが、「アメリカ(USA)では・・・」、「ヨーロッパでは・・・・」、と他国を引き合いにする、あの語調ですが、かの名作「おそ松くん」の中でも、イヤミ氏は、「おフランスでは・・・ザンス」と貧困大家族のおそ松家に常時教えを垂れており(実際は詐欺師だったが)、それは無考えな人間の、宿あといえば宿あですね。しかしながら、この場合では、他国の状況を詳しく分析せずに、わかりやすい部分部分を拡大し、自分の都合のよいように牽強付会するさまは、今も昔も、迷惑な話です。このたびの、「シリコンバレー幻想」なども、国家・国民に被害が大きいだけに、その走狗となった方々を含め、詐欺に近い、罪作りな話です。
実際のところ、日本国の歴史をひもとくまでもなく(われながら偉そうですが)、私の知るかぎりであれば、わが若き日、日本の知識人の一部というのは、「知的密輸入業者」と、蔑称されていました。80年代のポストモダンの旗手(?) 達の現在を見ていれば、それが実証されますが、軽佻浮薄な私にしても「何かあるのかも知れない」と、当時、当該代表的な著書を購入はしたはずですが、その経緯自体、恥ずかしく、アホな話でした。今思えば、それぞれの国民思想家の思想は、その国情や、わが国との差異、相互の膨大な歴史的な累積の分析を抜きにしては(ひとたび始めたら膨大で厳しい作業でしょうが、それに耐え切ることが本来の知識人でしょうが)、何の意味もないことが、われわれのようなものにも、よく理解できました。
自国の現象を、他国の思想家から勝手に借りてきて皮相な手法・イデオロギーだけで裁断し、いかにもわかったように振舞うのは、語学自慢の特権ですが、重ねて、アホな話ですね。
ところで、中野氏は、ただの経済学者だけでなく、経済史、経済思想史のみならず、近代思想史もその思惟の射程にある人ですが、彼が指摘するには、太平洋戦争の敗戦後、敗戦国日本の知識人たちが口をそろえて何を行ったのか、「日本の近代批判」ですね、政治思想史丸山真男、法社会学川島武信、経済史家大塚久雄、文芸評論家桑原武夫、口をそろえて、先進国西欧の進んだ達成に比べ、日本国は封建的で、合理性がなく、遅れていた、いまだに前近代であると、「それで負けた」と強く主張し、近代以降、戦時体制に至るまでを批判しました。これは非常に既視感のある光景であり、それが現在の、「今までの日本的システムではだめだ」という、規制緩和、グローバリズム推進勢力と重なってくるといいます。これは、本当にそのとおりで、不死鳥のように、あるいは姿・形を変えたぬゑのようによみがえり、軽薄に浅薄に、我が正しいと主張するのですね。今も、今後も、その衣鉢を継ぐものもよく監視していたほうがいいですね。いまだに、無自覚に丸山真男などのを支持する人達もいることですから。
あとがきにある、100年続く老舗に、過去に学ぶ謙虚な姿勢や、技術革新(イノベーション)もないはずはない(なければつぶれている)、というのは至言ですね。若者よ、むしろ、「老舗の初代を目指せ」というのは、実に良いアドバイスですね、合点がいきました。
ところで、わが歴哲研(私たちの任意研究会)では、皆で、ユーチューブで観覧(「日本の未来を考える勉強会」、衆議院議員、あんどう裕氏たちのグループです。氏のHPで見れます。)しましたが、著者も講師を務められた(これは自民党の国会議員の有志の勉強会であり、他にも、藤井聡氏、青木泰樹氏、島倉原氏、会田卓司氏、三橋貴明氏という気鋭の優秀な(御用経済学者、御用エコノミストでない「良心的な」という限定詞がつきますが)講師たちばかりですが、とても見ごたえがあり、二重の意味で、国民の一人として幸せでした。)(中野氏については、美津島明氏のブログ「貨幣と租税」で視聴可能です。きわめて興味深い。)。
その後、この研究会の達成を踏まえて、適正な経済政策(財政政策)を採るよう、政府・党に、要望書を提出したとのニュースを見て、自民党の一部にも、心ある政治家・議員(大多数の国民の利害を察し働くことができる具眼の士)もおられる、ということを認識しました。大多数の立場につく、国民一人として、とてもうれしいことです。これが、流れとなって、デフレを排し、国民経済に活気を取り戻し、われわれの孫子に希望を与えらえる状況になることを希みます。
しかしながら、能力ある「経済ナショナリズム」の専門家として、あるいは象牙の塔に住まない(浮世離れした学者でなくまた曲学阿世の使徒でない。)無原則に時流に迎合しない(御用経済学者でない)、またいわゆる俗流(役にたたない)経済学者ではない、著者においての、大変興味深い、面白い読み物となっています。
まず、われわれが気をつけなくてはならないのは、われわれがいかに数多くの「誤った共同幻想」のとりこになっていはしないか、ということです。
彼の執筆の動機は、最初に、自己の部局の若い同僚が、「ベンチャー企業を立ち上げるために辞職したい」と相談したことから始まります。優秀な部下であるので、慰留したいところですが、決意が固く、引き止められなかった、という話です。ここから、著者の疑問が沸き立ちます。
「米国の若き頭脳が、あるいは国境を越えた他国の優秀な若者たちが、自己の優れた能力を、米国の制度・国家の支援の基に、産学協同のシリコンバレーで、たとえばスティーブジョブ様のように実現していく」、というような神話が、あるいは、誰にも都合のよい「共同幻想」が、果たして信ずるに足る「幻想」であるのか、ということです。
彼は大変頭のよい学者ですあり、また周到な理論家でもあるので、(私も) 読み通しはしましたが、著者自身のあとがきの列記を読めば、もうそれで、この本の意義は十分に尽くせると思いますので、それを記します。それ以上付け加えるところはないですね。これは、社会科学の著作家としてとても大事な論じ方だと思われます。また、これらの教訓の反目を経営に生かせば、企業経営に役立つ(文中でイノベーションはどのようにしておきるか、気鋭の日本人学者によって行われたという実証的な周到な研究についても触れられています。)と読めるようになっています。以下、列記します。
1 アメリカはベンチャー企業の天国ではない。
・アメリカの開業率は下落し続けており、この30年間で半減している。
・1990年代は、IT革命にもかかわらず、30歳以下の起業家の比率は低下ないしは、停滞しており、特に2010年以降は激減している。
・一般的に、先進国よりも開発途上国の方が起業家の比率が高い傾向にある。例えば、生産年齢人口に占める起業家の比率は、ペルー、ウガンダ、エクアドル、ヴェネズエラはアメリカの2倍以上である。日本の開業率も、高度成長期には現在よりもはるかに高かった。
・アメリカの典型的なベンチャー企業は、イノベーティブなハイテク企業ではなく、パフォーマンスも良くない。起業家に多いのは若者よりは中年男性である。
・ベンチャー企業の平均寿命は5年以下である。うまく軌道にのるベンチャー企業は全体の3分の1程度である。
2 アメリカのハイテク・ベンチャー企業を育てたのは、もっぱら政府の強力な軍事産業育成策である。
・シリコンバレーは軍事産業の集積地である。
・アメリカ政府は、軍事産業の育成の一環として、ハイテク・ベンチャー企業に対して公的な資金の供給を行ってきた。
・ITはハイテク・ベンチャー企業の隆盛をもたらしたが、そのITは、インターネットをはじめとして、軍事産業から生まれたものである。
・ベンチャー・キャピタルというビジネスモデルは、軍に由来する。
3 イノベーションは、共同体的な組織や長期的に持続する人間関係から生まれる。
・イノベーションを起こすには、そのための資源動員を正当化する理由が必要になるが、そうした理由を共有できるのは、共同体的な組織や長期的に持続する人間関係である。
・個人を活かすのは、共同体的な組織や長期的に持続する人間関係である。
・イノベーションの推進力となるのは、営利目的を超えた組織固有の価値観である。
・イノベーションを推進する最大・最強の組織は、国家である。
4 アメリカは1980年以降の新自由主義的な改革により金融化やグローバル化が進んだ結果、この40年間、生産性は鈍化し、画期的なイノベーションが起きなくなる「大停滞」に陥っている。
・金融化は、企業の短期主義を助長し、長期的な研究開発投資を忌避する傾向を強めた。
・金融化により、ベンチャー・キャピタルは投機により短期的な利益を追うようになり、もはやリスク・マネーを供給する主体ではなくなった。
・グローバリゼーションは、人材や技術のアウトソーシング(オフショアリング)(註、生産や技術開発まで海外に移転させるもの)に拍車をかけ、アメリカのイノベーションを生み出す力は空洞化した。
・オープン・イノベーション(註、外から異質なものを取り組み、内部資源と組み合わせる試み、とされているが、現実は決してそのようには動いていない。共同作業が前提のイノベーションは外から人材を入れたなどとの安易なものでは動かない。)は、企業の短期主義の結果であり、イノベーションを阻害するように働く。
・短期的な利益追求はイノベーションを阻害する。にもかかわらず、アメリカのビジネス・スクールは、短期的な利益率の向上ばかり教えている。
5 日本は、1990年代以降、アメリカを模範とした「コーポレート・ガバナンス改革」(註、企業経営をめぐる一連の構造改革、具体的には商法改正によるストック。・オプション制度の導入、自社株の目的を限定しない取得・保有の合法化など)を続けた結果、アメリカと同様に、長期の停滞に陥っている。
・日本の「コーポレート・ガバナンス改革」は、アメリカのビジネス・スクールで洗脳された官僚たちが主導している。
・日本の「コーポレート・ガバナンス改革」は金融化やグローバル化を推進し、日本企業を短期主義的にする結果を招いている。
・「コーポレート・ガバナンス改革」によって、日本はイノベーションが起きない国へと転落する。
・一般に流布しているベンチャー企業論は、戦後復興期に丸山真男、大塚久雄、川島武宣、桑原武夫といった知識人たちが広めた「近代化論」の焼き直しである。
以上が、ベンチャー企業とイノベーションについての「恐るべき実態」なのです。
(註 は、天道の付記です。)
以上のように記されておりますが、「貧すれば鈍する」というか、「弱り目に祟り目」というか、かの「失われた30年目」において日本国の採用している苦し紛れの経済政策はため息が出るような実態ですが、視野のない、愚かな日本国は、ビジネス・スクールにしなくてもよい人材派遣をし、誤ったアメリカに倣ったばっかりに、1970年代までの、世界に誇る自前の「日本的経営」の成果を、着々と、放棄しつつあるのですね。
以下、この本で扱われた「迷妄の共同幻想」について、キーワードを基に、感想を述べさせていただきます。著者にも、今までも十分に言い尽くされた、用語であるかもしれませんが、それは素人の強みで、中央突破するばかりですが。
「第二の敗戦」、私が、この言葉を最初に聞いたのは、吉本隆明の著書からですが、「平成大不況」の代名詞となったこの言葉は、流行語としては、いいような悪いような、ぬゑ的な、玄妙な言葉ですね。しかし、どうも過剰な意味合いを付するとすれば間違うようです。
私は、卑俗化してしまいますが、いわゆる、「第一の敗戦」が、占領軍により、戦前の社会組織や価値観がことごとく覆され、戦前の経済体制が完膚なきまで破壊されたこととすれば、戦後、懸命に、押し付けられたアメリカ流の経済体制・慣習に抗いつつ、日本国独自の、経済秩序及び労働慣習(分配の公平、終身雇用、企業内教育の完備等)を引き続き継承し、高度な技術力と開発力で、その後世界規模で成功し西欧ビジネスのロールモデルになった誇るべき「日本式経営」であった筈が、バブルの崩壊以降、なぜか世界一の地位を返上したわけです。なぜ、バブル不況になったのかについて、十分な分析が行われず、そうなれば、苦し紛れに、犯人探しとして、今までの日本的経営、よい労働環境、労働慣行(終身雇用、個々の雇用企業に係る帰属意識の強さ)や労働力の質(独創性のなさ(私はそれを認めない。)、集団主義とか西欧人などに比べての個々の能力の相対的低さ(私はそんなものも信用しないが)など)が槍玉にあげられ、その価値観の強烈な否定が、ついには国民経済、大多数の国民の気持ちに混乱を与えると同時に自信を喪失せしめ、その後「第二の敗戦」という言葉に、定着してしまったというところでしょうか。
ところで、当時(1990年代から後のころ)、素人観測としても、昨日まで、労働者を切り捨てない温情主義、協調主義、優秀な労働者もそうでない労働者にも機会を与え、それなりに仕事場を与え、分配も比較的公平で、職域間の軋轢も生みにくい「日本的経営」として、世界的にほめそやされた、日本式経営が、一夜を明けると、なぜ、これほど、「悪平等」、「個人の能力が評価・発揮されない」、したがって、「世界市場で実績が上がらない」などと、そしられ、おとしめられたのは、率直、きつねにつままれたような感覚でした。
実際のところ、バカな話でしたね。中共などの後進国では、「昨日の価値が今日は否定され、国民が生命の危険さえ脅かされる」事件は頻繁にあった現象かもしれませんが、少なくとも、近代国家を経由した日本では、そんなバカげたことはあってはならないことですね。
当時から、「規制緩和」とか、「構造改革」とか、政・官・民連合の、有害な誤った政策で、無意味に踊らされた国民が、結果として、財産ひいては将来の安全にも多大な被害を受けましたが、政府・為政者が、「常に国民をだます」ものであるとはいいませんが、先が読めず、「愚か」であったのは確かであり、「郵政改革」から始まり、農協・日本国の農業解体等にいたるまでの「負の道行き」を、きちんと批判できなかった、あるいは認識できなかった、自分をも、省みて、今後は、より老獪で智恵の働く大衆になることと、します。
著者は、1990年代当時からの景気後退は、何も日本企業の実績が上がらなくなったのではなく、当該不況の招来は、世界の景気動向を読み違え、アメリカに迎合し、超低金利政策を固定化した金融政策の失敗と切り捨てていますが、現在における、何をなすべきか迷っているような無策の日銀当局、リーダーシップを発揮できず財政政策による景気浮揚を断じて行わない政府、財務省をよく見ていれば、それもよく得心がゆきます。
いずれにせよ、先の「第二の敗戦」ではないですが、流行語のように語られ、「規制緩和」とか「グローバリズム」とか誰もが自分で100遍唱えればひとり歩きの「真理」や「信仰」となる「雰囲気」とは愚かしくも怖いものです。
引き続き、「ではの守」について言及します。
他の方々の著書でも、おなじみの言葉ですが、「アメリカ(USA)では・・・」、「ヨーロッパでは・・・・」、と他国を引き合いにする、あの語調ですが、かの名作「おそ松くん」の中でも、イヤミ氏は、「おフランスでは・・・ザンス」と貧困大家族のおそ松家に常時教えを垂れており(実際は詐欺師だったが)、それは無考えな人間の、宿あといえば宿あですね。しかしながら、この場合では、他国の状況を詳しく分析せずに、わかりやすい部分部分を拡大し、自分の都合のよいように牽強付会するさまは、今も昔も、迷惑な話です。このたびの、「シリコンバレー幻想」なども、国家・国民に被害が大きいだけに、その走狗となった方々を含め、詐欺に近い、罪作りな話です。
実際のところ、日本国の歴史をひもとくまでもなく(われながら偉そうですが)、私の知るかぎりであれば、わが若き日、日本の知識人の一部というのは、「知的密輸入業者」と、蔑称されていました。80年代のポストモダンの旗手(?) 達の現在を見ていれば、それが実証されますが、軽佻浮薄な私にしても「何かあるのかも知れない」と、当時、当該代表的な著書を購入はしたはずですが、その経緯自体、恥ずかしく、アホな話でした。今思えば、それぞれの国民思想家の思想は、その国情や、わが国との差異、相互の膨大な歴史的な累積の分析を抜きにしては(ひとたび始めたら膨大で厳しい作業でしょうが、それに耐え切ることが本来の知識人でしょうが)、何の意味もないことが、われわれのようなものにも、よく理解できました。
自国の現象を、他国の思想家から勝手に借りてきて皮相な手法・イデオロギーだけで裁断し、いかにもわかったように振舞うのは、語学自慢の特権ですが、重ねて、アホな話ですね。
ところで、中野氏は、ただの経済学者だけでなく、経済史、経済思想史のみならず、近代思想史もその思惟の射程にある人ですが、彼が指摘するには、太平洋戦争の敗戦後、敗戦国日本の知識人たちが口をそろえて何を行ったのか、「日本の近代批判」ですね、政治思想史丸山真男、法社会学川島武信、経済史家大塚久雄、文芸評論家桑原武夫、口をそろえて、先進国西欧の進んだ達成に比べ、日本国は封建的で、合理性がなく、遅れていた、いまだに前近代であると、「それで負けた」と強く主張し、近代以降、戦時体制に至るまでを批判しました。これは非常に既視感のある光景であり、それが現在の、「今までの日本的システムではだめだ」という、規制緩和、グローバリズム推進勢力と重なってくるといいます。これは、本当にそのとおりで、不死鳥のように、あるいは姿・形を変えたぬゑのようによみがえり、軽薄に浅薄に、我が正しいと主張するのですね。今も、今後も、その衣鉢を継ぐものもよく監視していたほうがいいですね。いまだに、無自覚に丸山真男などのを支持する人達もいることですから。
あとがきにある、100年続く老舗に、過去に学ぶ謙虚な姿勢や、技術革新(イノベーション)もないはずはない(なければつぶれている)、というのは至言ですね。若者よ、むしろ、「老舗の初代を目指せ」というのは、実に良いアドバイスですね、合点がいきました。
ところで、わが歴哲研(私たちの任意研究会)では、皆で、ユーチューブで観覧(「日本の未来を考える勉強会」、衆議院議員、あんどう裕氏たちのグループです。氏のHPで見れます。)しましたが、著者も講師を務められた(これは自民党の国会議員の有志の勉強会であり、他にも、藤井聡氏、青木泰樹氏、島倉原氏、会田卓司氏、三橋貴明氏という気鋭の優秀な(御用経済学者、御用エコノミストでない「良心的な」という限定詞がつきますが)講師たちばかりですが、とても見ごたえがあり、二重の意味で、国民の一人として幸せでした。)(中野氏については、美津島明氏のブログ「貨幣と租税」で視聴可能です。きわめて興味深い。)。
その後、この研究会の達成を踏まえて、適正な経済政策(財政政策)を採るよう、政府・党に、要望書を提出したとのニュースを見て、自民党の一部にも、心ある政治家・議員(大多数の国民の利害を察し働くことができる具眼の士)もおられる、ということを認識しました。大多数の立場につく、国民一人として、とてもうれしいことです。これが、流れとなって、デフレを排し、国民経済に活気を取り戻し、われわれの孫子に希望を与えらえる状況になることを希みます。
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