天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

新日本風土記「渡し舟」(NHK)を見終わって、併せ「川」及び「橋」について考えます。

2017-01-20 12:38:25 | 映画・テレビドラマなど

 正月にとりだめした録画を見ようと思っていましたが、前に一度見て再度見返した番組に、たまたま、表記の番組がありました。
 日本各地の大きな河に、何らかの理由で架橋されていない場所におかれた、舟守りというか、渡し守りというか、その歴史(?) と現在を扱ったいくつかの渡船場所にまつわる住民たちの「記憶」と、それぞれに連綿と続くその営みを扱ったものです。いくつかのエピソードに分けられますが、それぞれ重みのある、興味深い物語でした。
 さて、「橋」といえば、何の「象徴」にあるいは「暗喩」になるのか、他界あるいは異界へ、またはそれにまつわる観念への文字どおり階梯(かいてい:入り口)になるのか、それこそ「共同幻想」として国家・民族を超えて一般的であるようです(「共同幻想論」(吉本隆明著)やその他にもたくさんでてきましたね。)。「現実」の橋も、「非現実」(観念的な)の橋も同様に存在するようです。しかし、交通量が多く、経済・現実的にも要請があるのになぜか架橋できない橋もあります。そういえば、三途の川も、ギリシャ神話のカローンの河(ステュクス河)も、河を渡船でわたらなくてはならないのでした。
 私も、大きくはないながらも川のそばで生まれ、また育ちましたので、私の年代の一人として欄干もないような簡易な木橋も、子ども心に新技術の到達と見えたコンクリート橋の双方とも、その移り変わりと再建築に至るまで記憶にあります。毎日のように(道路の一部として)通行しており、河の記憶とそれにまつわる幼児期に根ざした思い出はいくらもあるところです。しかしながら、橋のない河、渡船にかかわる記憶はとりたててなく、このたびその分だけ興味深いものでした。
 実際のところ、日本各地でも、経済的・技術的にも架橋できない渡し場もいくらもあったようで、河守り、舟守りといえば、もっぱら彼岸と此岸(ひがんとしがん:向こう岸とこちら側の岸)に立ち、時刻表がなければ、対岸からお呼びがかかれば、舟をこぎだし、迎えに行かなくてはなりません。したがって、もっぱら田畑の耕作の専従とはいかず、賃労働になるのか、河漁師のようになるのか、農村集落とは一線を画したような存在になるようです。渡し守については、もっぱらその従事する人の一生の職業(?) とすれば、本来は聖性も俗生もその背後にあるものとして、長く、また、他の生業と同様に、酸いも辛いもある人性であったのでしょう。
この番組に扱われている方々は、賃仕事で請負になったような方々か、当時アルバイトで仮の船頭を務めた人(こども)ですが、親から伝えられた使命というか、技能を備え地域社会的に(大きな)役割を果たすことに、一族としての誇りがあり、見ていると、身につまされるような、あるいは自分は、自己の社会的な役割を果たしてきたのかという、内省と、自負心と、彼らのその生活及び家族史(?) に共感を感じるようになっていきます。
また、同様に、離農や離村により、あるいは橋りょう(道路)の設置により廃れていく職業であり、それこそ、敗者の歴史のようなものがあります。
 さまざまな「自己・家族史」があるわけですが、兄弟で、廃村になった対岸の生家に帰っていく挿話など印象的です。彼らは、ずっと下手の渡し場を渡船で渡り、NHKの取材に渡り合ったようですが、丈の高い草に囲まれ入り口も出入りがままならないような無住の家にたどりつきます。あまり似ていない兄弟ですが、それぞれ身なりも様子も違い、弟のほうは独り者のようにも見受けられます。昔は小集落のため、対岸の渡し場まで彼ら自身が手漕ぎで駄賃をもらいながら渡船を動かしていた経緯があるようです。今は、田畑も、集落も押しなべて、離農で荒れ果て、廃村のようになり見る影もないのですが、当時の兄弟の部屋には、昭和30年(?) くらいなのか当時の最新スーパーカーのポスターや、家財道具か、まだ朽ちずに残っています。彼らもおそらく早い時代に小集落を出て行ったのでしょう。親がそのままにしたのか、その後、どのような時間が経過したのか、膨大な時間が、そのままの居宅の中で凍りついているようです。彼らは、やむにやまれず、年に一度、示し合わせて、この家にたどり着き、営繕なり補修なりするわけでしょうが、まるで失われた時間を、当時の集落の生活とそれにまつわる思い出を取り戻そうとするような彼らの気持ちが、見るものの心を打ちます。
 険しい山と河にはさまれたような場所は、離島か隠れ里のようなものなのですね。
次の逸話は、河船でしか行き着けないような農地に一軒だけ入植して営農していた農家の跡取りの話です。
そこは、昔は対岸に尼寺が一軒だけあったような、寂れた場所ですが、入植した一軒だけの農家で、農業ではやっぱり生計を営めず、息子は町に出て大工になり、最後まで一人で農地を離れなかった、なき父親のすんでいた居宅に集う家族の話です。たぶん、「農家をついでくれ」という父親の希望に添えなかったのでしょう、一人で生活できなくなった父親を背負い、渡し船ならぬ船外機つきの河船で父を渡した記憶など、問わず語りのうちに、押さえ切れなくなって思わず目頭を押さえます。
 その父も、生計を営むだけでなく、その土地にまつわる無住の尼寺を修繕したりと、現世とはかけ離れたような世界でただ生き延びて自給自足を重ねるだけではないような人性らしいですが、それを現実とつなぐ、無残に朽ちた自家用渡船の重さが、やはり、見るものに実感されます。
もうひとつ、あげると、男手が足りず、女によって動かされていた、渡船の話があり、たぶん構造的に場所を選ぶのでしょう、現在は、船着場の跡地に作られた立派な橋りょうの下で、当時の女船頭さんが、当時を振り返ります。婿も川向こうから、渡船でやってきた、とのことで、当時は男手がなく、生活と社会的な役割のため、なれない操船で必死の思いだったのでしょうが、痛ましいような、頼もしいような話です。
離島や、河の洲や飛び地のような場所をつないだ橋りょうがどれほど貴重でありがたいものであったか、論を待ちませんが、あらゆる人には、振り返って、決して楽な体験ではないですが、切実な記憶があるのです。
 怨嗟(えんさ:恨み嘆くこと)の対象となった渡し船もあります。川の対岸に畑地を持ち、厳しい舅に指導を受けながら、出づくりに、渡船で毎日通った女性の話です。それはなかなか忘れられないでしょう。工夫して、リヤカーまで、渡船で運んだんですね、渡し賃一回5円といっていましたが、思えば10円であんぱんが買えた、昭和30年代のことなんですかね。彼女は、渡船などなくなればいい、と思ったこともあるやもしれません。その渡船も今でも残り、今では、舅とも夫とも死別し、その後再会した昔の旧友とその渡船を使って、近隣の縁日に通うのが楽しみということであり、見る景色も変わってくるかも知れません。渡船をめぐり、悲喜こもごもで、結果、渡船だけは残ったということなのでしょうか。
 いずれにせよ、当時は血が流れるようにつらい体験だったかも知れませんが、今、思い返せば、時間が加担したある余裕を持って振り返れる時代であり、時間の流れと、それこそ忘却が救いになっているかもしれず、それこそ、人性の味わいを受感する一つのできごとかも知れません。
河舟というのは、平底船というか、瀬に乗り上げるため、底が浅く対岸につけやすいものらしいのですが、櫂を扱うのはなかなか難しく(私は結局できなかった。)、あれをいともたやすく扱う腕が、男らしい、とか頼りになるわ、とかいったものかも知れません。それについては同意します。
最後の逸話は、「鶴江の渡し」という、Y県の萩市の三角州にかかる、漁師町の、渡船の話でした。その河、松本川は、川幅は、100メートル程度はあり、水量も豊かで、海からの入り江のようになっており、春先には、四つ手網による、しろうお漁が盛んです。漁のためでしょうか、河口の川岸近くに規則的に打たれた棒くいの上で、かもめなどが休んでいます。
 昔、漁師さんたちは、市場までには自前の漁船で海上移動をしていたのでしょう。
 今では、三角州にある自宅から、勤務先の商業港がある対岸の水産加工工場まで、決まって通う人がいます。上流にその三角州に架かる橋を設置した経緯があるのか、無料の渡船です。今は、さる船を定年退職した元機関長が、櫓櫂を操ります。萩の地元の出身ではないようですが、「わしの仕事は、近所のおばあさんの愚痴を聞くのが大仕事じゃ」、と山口弁で話す、気さくでひょうきんな人です。本人は船のエンジンばかり見てきたせいか(?) 人とのやり取りが、本人もとても楽しいようです。巧みに櫓を扱い、対岸に上手に着け、さお竹で、パートの女性をおろします。この路線は、夫が漁に出ているときの、おかみさんたちの水産物会社に通う生活道路だったんですね。さびれていながらも、今も続いており、毎日乗る人が、1名います。昼休みに渡船で、食事に帰るという利用もでき、実際便利なものです(観光客も無料だそうです。)。
 私、実はこの渡しに行ってみましたが、そこへつながる道路は、ほぼ車両離合ができないような細い生活道路に、民家が密集してへばりつき、家の裏の堤塘から川や港の漁船の系留池につながっており、それこそ昔ながらの漁師町のようで、対岸の商業地(旧武家町)とは明らかにたたずまいが違います。おそらく、漁師たちは対岸には住めなかったし、住まなかったのでしょう。
 この松本川は、阿武川というY県の二級河川の河口の支流にあたり、当該三角州は、橋本川というもうひとつの大きな河で分断されています(山陰部は、本当に水豊かな地形ですね。)。かつて訪れた上流の阿武川歴史民族資料館で、遡上した大きな鮭の標本を見たことがあります。
お約束の脱線ですが、当該資料館には、民具の陳列と並び養家に養子縁組した男が、実家からどてら(綿入れの夜着)を持参する習わしというのがあり、「どてら披露」というのもあり、そのどてらが貧しいものであれば、肩身の狭い思いをした、というエピソードが表示されてあり、山中の農村も決して甘くはない、貧困と、弱者差別も当然あった、という、現代の養子、あるいは二男、三男にはほっと胸をなでおろす歴史です。
 そういえば、作家の井伏鱒二も、生家は地主さんですが、父は養子であり、孫の井伏は祖父に盲愛されながら、実父は使用人のように扱われた、と書かれたエッセイがあり、そのときの子どもの心を思いやれば心痛む記憶ですね(「米ぬか三升あれば養子に行くな」という俚諺(りげん:ことわざも中国地方にはあります。かくゆう私の母方の祖父も養子でしたが)。

 また、この松本川は、私、実は、夏の間にでも、もぐってみたいと思った川でもあります。
 いまさら人目はどうでもいいのですが、水面下に伏流の水流がありはしないかというか、満々とたたえられた流水の量とその川幅の広さを見れば少し怖いので、躊躇しておりましたが・・・。
世間を騒がすのも、私の本意ではありませんので。
冷静なうちの妻は、「私のいないときにしてよ」というだけですが。

 河が大きくても、小さくても、川、河にまつわり、上流域、下流域でもいずれも、われわれの先祖が、貴重な直接的な自然として、灌漑施設、運搬施設、動力施設として、河とそれにまつわる施設や自然、治水が第一義かも知れませんが、いやおうなくかかわってきて、同時にそれにまつわる「観念の」歴史があるのですね。「わが生はナイルの水の一滴」といった高名な作家がいましたが、彼はまあそんなものでしょう。

 私の生家は、川水を引き水車で製粉し、うどん・そば類を作って販売していたそうです。
子どものころは、大雨になった日に、簗に入った秋の落ち鮎に喜んだり、うなぎを捕らえた祖父が、うなぎをさばく様をじっと見守っておりました。不器用な人でしたが、さすがに子どものころからなじんだ、うなぎは上手にさばき、孫たちを喜ばせました。我が家に沿接していた河は、そばの小規模水路と含め、渡船があるような大きな川ではなかったけれども、やはり父祖と、いつから住み着いたのか、その営みと先祖に思いをはせるための大きな記憶につながっていきます。
 我が家の子どもたちに、私の直接体験の多くを継承することはできなかったところですが、Y県内の、清流や海岸には(散々不平を言われながら)極端なときには毎週くらい、子どもをつれていったことであり、今後彼らが、いつ、どのように、自分自身の人性との係わり合いを思い浮かべるかどうかですが。

 自分の生まれ育ったその場所場所への思い入れと愛着は、郷土愛というのかも知れませんが、これらの同胞たちの父祖を含めた個々の苦闘の生活史とやるせない思い出とを絡めて、「健全なナショナリズム」(=国民国家における大多数国民利害・価値尊重主義:私の造語)の推力につながるような気がしませんか。

もう一度、「橋」について言及したいと思っています。

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