天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

宮藤勘九郎の出自を言祝ぐ(ことほぐ)ことについて

2019-08-18 20:11:25 | 映画・テレビドラマなど
妻によれば、本年のNHKの大河ドラマの視聴率が低く、宮藤勘九郎ドラマが苦戦しているという話を聞きました。
実は、私、この番組を、最初は見ていましたが、ビートたけしを見るのが嫌で、いつの間にか見なくなっていました。
かつての、NHKの朝ドラ「あまちゃん」は、ほぼ欠かさず見ていたので、心情的に、「悪かったな」とか、「義理を欠いた」ようなところです。
このドラマは、彼が属する劇団「大人計画」の怪優(?) たちが大挙出演しており、最初は、実際のところ、誰が、誰の役をするんだろうと、興味深く見ていました。
 NHKは、どうも、この劇団と相性が良いらしく、先に、NHKは、「朝まで大人計画」という、深夜から早朝までの6時間を超える番組があり、劇団の主催者の松尾スズキの俳優・劇作家としての出発からの顛末を、宮藤の入団から、劇作家としての独立、看板スターの安陪サダヲなどの入団の経緯を扱い、劇団の年代記ならず、何段階かにわたる、俳優たちの入団の経緯とその相互関係付けが、腹入りしたところです。
観ていると、問わず語りのうちに、「役者なんて変人ばかりだ」という先入観がさらに強化されます。
 実際、定期公演の番組で、劇中の彼らを見ていると、何を考えているのかなあ、俳優というのは変わった人たちだなあ、と思っていましたが、楽屋落ちでの実態を見ていると、得心が行くところがあり、とても変わった人(わりと好きです。)たちや、どうも、通常の市民社会では生きにくい、やっていけないような人も、ある程度いるようです。
 ワンマン劇団らしく、当該、芸名も、松尾スズキが独断で決めるらしく、それは、動物シリーズとか、昆虫シリーズとか、非常に恣意的で、場当たり式のその場の雰囲気的なものでもあったらしく、どういう理由なのか、中には、芸名を、何度も変えられた俳優もおります。
ずっと前に、NHKの太宰治の連作短時間ドラマの中で、名短編「カチカチ山」を扱ったドラマが、ふたり芝居で行われ、満島ひかりのウサギ役と、「大人計画」の怪優、皆川猿時(さるとき:これは、動物シリーズの命名らしい。)のたぬき役で演じられました。
 この劇は、意欲ある実験的な作品で、素顔の猿時氏が、台本を読みながら、役作りをし始めてから、メーキャップをしながらの、本番までの様子を多角的に流しており、素人すれば、とても興味深いものでした。
作品の出来も、子悪魔が本質の満島ひかりのうさぎが、本領発揮で、愚鈍で、お人よしで、ひとりよがりで、ついでにすけべーな、男代表として、大人計画の怪優、皆川猿時が熱演したところの、たぬきの、その無神経、気の利かなさ、他者の気持ちが読めない鈍さを、十二分にいたぶりました。
 当時の、満島ひかりは初々しく新鮮で、殊に皆川猿時は好演で、しまいには哀れにも思えるところであり、その芸名と共に、強く印象に残りました。
 悲劇なのか、喜劇なのかわからない。誰も、悪くはない、「性格の悲喜劇といふものです。」と、太宰治が、うそぶく作品であり、どうも、それは、男と女の本質性に迫っているところです。

 この俳優が、大人計画の俳優を見た最初の経験になりますが、先のNHKの特別番組を見ていると、「大人計画」は、リーダーの劇作家松尾スズキが、自分で脚本を書く場合や、座付き作家として、宮藤が書く場合もある、しかし、おおむね、そのドラマの中で、座付き役者として、松尾も、宮藤もほぼ出演(それは劇団営業上の理由であるからなのか。)するようです。
 松尾スズキも、斜に構えた人で、「子供時代がいいなんて少しも思わなかった、早く大人になりたかった」と劇団の由来を語り、群立する小劇場の劇作家たちのように、幼児・子供体験などに過剰な意味合いをつけずに(強いて言えば幻滅を覚え)、それに拠らない出発をした人です。
 ただ、劇団も、様々な人たちの集まりであり、中には、劇作家や、他劇団の主催者なども含まれており、人間の集まりはそれ自体で別の大きな動きを持つこともあり、それはそれで、大変興味深いところです。

 宮藤ドラマを最初に見たのは、民放の「タイガーアンドドラゴン」(2005年)からで、アイドルグループの二大男優を使い、人気テレビドラマの枠をはみ出す、やくざと落語家の絡みと、やくざで落語の新弟子として長瀬智也が毎回、きちんと語る落語が放映されており、宮藤得意の人間関係の大錯綜とともに、とても面白いドラマになっていました。
 借金に追われる落語家と、落語家に弟子入りしたやくざにより、取立て屋と弟子が瞬時に入れ替わるやり取りが面白く、今までにない民放ドラマでした。久しぶりに、落語家役で、西田敏行が好演していました。また、いつもながら、層が厚く、個性あふれる、魅力的な脇役は、宮藤ドラマの定番です。
 それ以降、私が見る範囲で、NHKでは、「あまちゃん」と、民放では、「ごめんね青春」(先にブログアップしました。)と、優良なドラマが続いています。

 このたびは、後半に入る、その大河ドラマのてこ入れのためなのか、宮城県出身の宮藤勘九郎の、出自と、その一族にかかわる番組が放映されました。
 宮藤という姓は、その出身が神官の家柄らしく、室町時代にまで、家系がたどれる家ということです。宮藤家は、跡継ぎがおらず、そのままだと絶家する傾向があり、何代にもわたり、他家から養子を迎えているようです。
 宮藤の母というのが、ものごころもつかないうち(1歳未満のうち)に、他家から養女にもらわれ、母親の問わず語りでは、とても大切にされたようです。
 宮藤家は、家業として文具店を営んでおり、今も、母親と姉が店番をしながらインタビューに答えますが、すぐそばに、勘九郎の姿がプリントされた長い旗がおかれてあり、息子に「大概にしろ」といわれたと、笑って話します。
 母は柔和な人で、明るく語りますが、そばの姉も含め、どうも女兄弟ばかりということで、末息子として、さぞかしかわいがられたのでしょう。
 父親は、小学校の教師で、やはり、養子に来ていますが(いわゆる「とり子、とり婿」ということです。)なかなかの傑物です。
 小学校の教師として、郊外活動まで指導し、中には、「先生がむつかしい婚家に交渉に行ってくれた」という教え子もおり、最初の担任のクラスは、卒業以来連続して、50数年引き続き、毎年クラス会をしている、という極端な話です。
 お見合いで知り合った、父母ですが、独身時代、父親は将来の妻にあて、10数通の手紙を書き、母が、それを、大事に保管していました。とても、びっくりしました。当然、写真とか、思い出の品も数多く、保管されているわけでしょう。
 父母とも、陽性の人で、また、女系に男の子が生まれたということで、祖父が大変に喜んだということであり、可愛がられ、大変、良好な家族関係で生育したように思われます。
 よく考えれば、宮藤の父も母も養子から始まったわけで、まず養家と関係を作り上げていかなくてはならないわけです。ものごころつかないこどもにおいても、実家は秘されているにせよ、察知し、実母・実家が恋しく、それは変わらないと思われます。やはり、それなり傷つき、悲しい思いはあるはずです。
 その後養子としてやってきた夫は、その境遇を、妻のために改善したいと思ったのか、独断で、妻の実家と、交流を始めて、また深めて、その親睦宴会サービスのためなのか、裸姿で腰のまわりに座布団を巻いた相撲劇の、写真が写されます。陽性で、象牙の塔(?)をいつでも降りられ、周囲を思いやる、すばらしい人だったのですね。過剰なサービス精神も子に対する遺伝でしょうか。
 それが、父が唱え実践したという、「人と人の関係を大切にしなさい(周囲と相和し人は育つ。)」、という、宮藤家の家訓ということになりますが、飽くまで陽性で、周囲に人間関係を作り続けた、勘九郎の父の生き様は、家族にも大きな影響を与えたように思われます。私には、日本版「拡大家族」ということばを連想します。大家族も良し悪しかも知れませんが、どこかに、落ち着く、親和的な居場所があることは、ありがたいことでしょう。

 勘九郎が進学のため、上京し、「大人計画」に入ることを決め、大学中退の報告を手紙で書き送ったとき(それもきちんと母親がしまいこんでいます。)、その不退転の決意を、理屈をつけていろいろと述べつつ、「・・・どうか、見捨てないでください。」という結びに思わず、笑ってしまいました(自分を思いやっても、なかなかこうは書けない。)。
 つくづく、家族に愛された人であろう、と思われます。

 どうも、宮藤作品を見ていると、どうやって、自分のドラマの端々に、「大人計画」の団員たちに役を振るのか、腐心しているところがあります。
 「あまちゃん」の劇中でも、「わかる人にはわかる」と、イギリスのロックグループ、クイーンのボ-カル、フレディ・マーキュリーの仮装をして出演した、「伊勢志摩」というふざけた芸名の女優など参入しましたが、このあたりは小劇場出身の強みなのか、ドラマの筋書きには、まったく関係なく、異質な出演者も出てきます。
 NHKに偏在する、一部のしごくまじめな人には、彼の奇想天外なドラマは、気に入らないかも知れません。それが、同時代や、過去のみならず、国境を越え展開する、宮藤ドラマのめまぐるしいしい動きについていけずに、また、阿部サダヲなどの攻撃的でエキセントリックな演技が、不評であれば、私は「しょうがねえなあ」と思うばかりですが。

 奇しくも、宮藤の姉が、宮藤劇には、どんな人にも居場所を与える、人間関係の中に取り込んでしまう、という述懐をしていましたが、彼の描くテレビドラマにもそれが当てはまります。
 大学中退をしてどんな仕事をしているんだろう、と、夫婦で劇団の公演劇を観にいき、父親が、「(息子の言うとおり)本当に面白い」と喜んで、しかしやっぱり迷惑だから、と楽屋にも寄らず、帰ったという、逸話もあり、その後、物故されたようです。
 しかし、今でも、脈々と続く父親を囲む同窓会には、毎年、母親が、「副担任」として出席し、踊りを披露している、との話で、あり、これも、天晴れというしかない、話です。
 世の中には、いろいろな、家族があるものです。
 宮藤劇で、なぜ、あれほど、変わった人に執着するのか(好奇心を及ぼすのか)という点で、想像力を養い、目を外部に開かせた、という点で、彼の家族と生育環境に大きな恩恵をこうむっていると思えるのです。
 このドラマが、今後さらに、面白く展開していくことを願います。出来れば、成功例になって欲しい、ところです。

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