昨年、BS放送で、映画劇場として、国是としての国土測量のため、初めて劔岳に三角点を設置した当時の技術職の役人の実録のような映画(2009年封切り)(原題は「劔岳点の記」(点の記とは、測量の際の各測量点に関する測量者の観測日誌の意であるらしい。)を観ました。
配役は、スター級で、主人公の測量技士に浅野忠信、その妻に宮﨑あおい、現地案内人に香川照之が配されています。技術もなく、高所登山経験の累積もないような時代に、未踏峰の峻険な山を測量するという困難な仕事に挑む人々を描いた重厚で骨太な興味深いドラマでした。
それはそれで見ごたえがあったのですが、このたび、NHKBS放送のプレミアムカフェシリーズで、再放送の、当時(2009年)の国土地理院の測量士たちの、剣岳の三角点再度測量のドキュメンタリーがあり、あわせて興味深く見させていただきました。
確か、この映画の原作は新田次郎ですが、彼は好んで、個が社会生活を送るうえで(殊にその仕事で)困難な状況に偶然に直面した人の運命やその苦闘、その職務の遂行にかかる人間やその組織のドラマを好んで扱います。
私が若いころ見た(大学時代)「八甲田山死の彷徨」(原作は未読です。)など、制作費や、配役を見ても大作であったにもかかわらず、「「十分に準備もせずに冬山に入ったら、そりゃ死ぬだろ、(勝手に)天は見放した」などというのはむしろごう慢だろう」、というように思えたドラマであり、映画表現とすればいまいちで、あれは、原作者には、お気の毒ではありました。実際のところ、一部権力者の不見識や心情倫理で、暴走のあげく割りを食うのは国民大衆である、という意味では笑えない映画ではありましたが。
このたびの映画は、主役の浅野忠信の役作りでは、いかにも明治人らしく、実務者として控えめで押えた振る舞いと、その淡々とした演技がとてもよいものでした。また、案内人役の、香川照之が、霊山(神の山)だからなのか、国是のため、禁足地に、タブーを押して測量に入ろうとする測量隊と、信仰の山に対する思い入れが大きい地元の住民たち、またまったく経験のない山にどのようにとりかかっていくのか、板ばさみになり苦悩する姿も、同様に感動的でした。
このたびの、テレビのドキュメンタリー(当初2009年放映)も、この原作や映画を意識しつつ(どちらが先なのかよくわかりません。)、国土地理院を退職した測量士が、現在の自分たちの測量技術者の現状と水準を踏まえつつ、現在の老練な登山ガイドに依頼し、再度登攀のルートを再検討し、再度明治期の達成を検証してみる試みであり、当時の達成を、忠実に再現し、再評価するものでした。
まず、未踏の山では、安全な登攀ルートを探すだけでも大仕事なんですね。当時(明治40年)、霊山であり、立ち入るものさえいない時期に、何の情報もなしに、みのや、ロープなどの簡易な装備で、経験と洞察を頼りに、3000メートル級の山々を目指すのは実際のところ命をかけるような大事業だったのでしょう。
全責任を負う技師と、現場責任を負う測夫という担当と共同・連帯でこの事業は進むらしく、何より案内人という現場を知るそれら現場の全員との連携と、地元の精通者抜きには何も進まないところです(このあたりは現在の仕事とよく似ています)。当時の技師が、測量の完遂を「身命をとして」と公文書に書き上げていますが、明治の時代にこの言葉は重いものです。
また、測量点の設置時の公文書、設置日時、位置、標識の性質、特異事項など、いわゆる「点の記」という事務文書が、今も国土地理院に永年保存されているということで、そのそっけなさがまことに味わい深い文書となっています。測量の結果として、当時のどれほどの努力も苦闘も簡単な文書にしか残らないのか、という驚きが、それを淡々として成し遂げた、当時の日本人たちへの敬意と、賞賛に置き換わります。
映画では、当時日本に入ってきたスポーツ登山の登攀隊と、頂上登攀を競う設定もされています。いわゆる、登山先進地の優れた装備で、芸術のように無償性で支えられたスポーツ登山、そして不十分な装備で、実現して当然という目立たぬ日常の仕事として行われる、危険かつなんら名誉もないような測量登山との類比が、周到に扱われています。
このたびの測量で、試みに、石造りの基準点を担ぎ上げる試行が行われていましたが、当時は、基準点が60kg、直い3mくらいの丸太などの測量器具がぜひとも必要で、総重量は100kgくらいあるそうです。アイゼン(鉄のスパイク)も、ピッケルもないような装備では、登山ルートの選択自体を狭めるようであり、今以上に、当時の苦心と苦衷が思い浮かばれます。
老練な、登山ガイドが、基準点重量を担ぎ挙げ、ようよう立ち上がった時点で、「無理だ」といい、あらためて、このたびの測量隊一同は、先人たちの、達成に、絶句してしまいました。
いずれにせよ、映画のイメージを付加しても、当時の彼らが、厳しい条件の中で、黙って、最大限の努力をする姿は見上げたものです。彼らは、仕事と、自分の私的な考えをきちんと分けています。それが、明治人の典型なのかどうかわかりませんが、与えられた仕事をまず果たし、それから私がある、という潔さがまずあります。それを平然とこなした、案内人の長次郎(日に焼けた、まさしく当時の田舎の日本人らしい味のある顔をしています。)さんなど、自分の信仰と折り合いがつけられず、大功労者でありながら頂上登頂はついに果たさなかったということです。思えば、「尊い」ジレンマですね。
その彼の、謙虚さと栄誉に応えるためなのか、登山道には「長次郎谷(たん)」という、夏も雪渓のある谷が残っているそうですが。
このたび、測量班が、再度、登頂に立ち、一時間足らずで、再度衛星を使った測量を行い、当時との誤差は0.5メートルであったというのは、時代的に類比して、驚くべき正確さであったということですが・・・・。
私たちは、社会生活を送るうえで、一方的に与えられた仕事をこなさなければなりません。それが、理不尽で、困難な仕事が偶然に振られることはいくらもあることです。また、」同時に、やりがいや、結果も出ない仕事もいくらもあることです。失敗も数知れず、例のNHKプロジェクトXに取り上げられるようなことが、ある筈はないのです。例えば私ごときが果たした仕事など、特筆すべきものなどないのは自明なことです。しかし、腐らず、目立たず、自分と、周囲と折り合いをつけ、その仕事(社会生活)を、まじめに取り組むのは、個人(社会的存在としての)にとってきわめて重要なことです。
私は、大阪市長にも、東京都知事にもならなかった(なれなかった)が、私にとっての「公」とは、それを果たすことによって私と家族の生活を支えた、仕事を通じた人性に思えてなりません。私の「腐らず、目立たず、自分と、周囲と折り合いをつけ、その仕事(社会生活)を、まじめに取り組んだ」ことは、今でも、かそけき自負くらいはありはしないか、と自分に問うてみるところです。
また、公選職であるかたがたは、本来、一般<「生活者」大衆>の現実に意識的であり、その願うところも、生活者全体の国防的・経済的利害、そしてわれわれ大衆が見えない危機においても、われわれの安心・安全のために働くことが、まず、公選職になる余裕のある、優れ勝った人の責務(ノブレス・オブリージュ)というものではないでしょうか(そのために叙勲制度があります。)。
理念なく、識見も、ましては人間性すら疑わしいような言動を繰り返し、その所管する執行機関の職員を道具のようにみなし(Hさん、Kさんよくあることですね。)、自己利害と愚かな野望に終始する姿をみていると、暗澹(あんたん:見通しがたたず、希望がないさま)たる思いに襲われるところです。
最近は、「選んだのは(愚かな)お前たちだろう」と居直るやつまでいることですから。
「昔の日本人」(それが概念としてなりたつのであれば)、まず自分の仕事(社会的使命)はこなし、その後に「自分」を考えたはずであり、当面自己の生業を考えず、高い(自己利害を超えた)立場で、将来のために、地域のために自腹で活動する人は、自分たち一般人にできないこととして、衆目に尊敬されたところです。それが、われわれの人性の「恥と誉れ」の意識のように私には思われます。
それに比して、現在の「政治家たち」が、畜群に見える、というのは、あながちうそではないのです。(ああ)
配役は、スター級で、主人公の測量技士に浅野忠信、その妻に宮﨑あおい、現地案内人に香川照之が配されています。技術もなく、高所登山経験の累積もないような時代に、未踏峰の峻険な山を測量するという困難な仕事に挑む人々を描いた重厚で骨太な興味深いドラマでした。
それはそれで見ごたえがあったのですが、このたび、NHKBS放送のプレミアムカフェシリーズで、再放送の、当時(2009年)の国土地理院の測量士たちの、剣岳の三角点再度測量のドキュメンタリーがあり、あわせて興味深く見させていただきました。
確か、この映画の原作は新田次郎ですが、彼は好んで、個が社会生活を送るうえで(殊にその仕事で)困難な状況に偶然に直面した人の運命やその苦闘、その職務の遂行にかかる人間やその組織のドラマを好んで扱います。
私が若いころ見た(大学時代)「八甲田山死の彷徨」(原作は未読です。)など、制作費や、配役を見ても大作であったにもかかわらず、「「十分に準備もせずに冬山に入ったら、そりゃ死ぬだろ、(勝手に)天は見放した」などというのはむしろごう慢だろう」、というように思えたドラマであり、映画表現とすればいまいちで、あれは、原作者には、お気の毒ではありました。実際のところ、一部権力者の不見識や心情倫理で、暴走のあげく割りを食うのは国民大衆である、という意味では笑えない映画ではありましたが。
このたびの映画は、主役の浅野忠信の役作りでは、いかにも明治人らしく、実務者として控えめで押えた振る舞いと、その淡々とした演技がとてもよいものでした。また、案内人役の、香川照之が、霊山(神の山)だからなのか、国是のため、禁足地に、タブーを押して測量に入ろうとする測量隊と、信仰の山に対する思い入れが大きい地元の住民たち、またまったく経験のない山にどのようにとりかかっていくのか、板ばさみになり苦悩する姿も、同様に感動的でした。
このたびの、テレビのドキュメンタリー(当初2009年放映)も、この原作や映画を意識しつつ(どちらが先なのかよくわかりません。)、国土地理院を退職した測量士が、現在の自分たちの測量技術者の現状と水準を踏まえつつ、現在の老練な登山ガイドに依頼し、再度登攀のルートを再検討し、再度明治期の達成を検証してみる試みであり、当時の達成を、忠実に再現し、再評価するものでした。
まず、未踏の山では、安全な登攀ルートを探すだけでも大仕事なんですね。当時(明治40年)、霊山であり、立ち入るものさえいない時期に、何の情報もなしに、みのや、ロープなどの簡易な装備で、経験と洞察を頼りに、3000メートル級の山々を目指すのは実際のところ命をかけるような大事業だったのでしょう。
全責任を負う技師と、現場責任を負う測夫という担当と共同・連帯でこの事業は進むらしく、何より案内人という現場を知るそれら現場の全員との連携と、地元の精通者抜きには何も進まないところです(このあたりは現在の仕事とよく似ています)。当時の技師が、測量の完遂を「身命をとして」と公文書に書き上げていますが、明治の時代にこの言葉は重いものです。
また、測量点の設置時の公文書、設置日時、位置、標識の性質、特異事項など、いわゆる「点の記」という事務文書が、今も国土地理院に永年保存されているということで、そのそっけなさがまことに味わい深い文書となっています。測量の結果として、当時のどれほどの努力も苦闘も簡単な文書にしか残らないのか、という驚きが、それを淡々として成し遂げた、当時の日本人たちへの敬意と、賞賛に置き換わります。
映画では、当時日本に入ってきたスポーツ登山の登攀隊と、頂上登攀を競う設定もされています。いわゆる、登山先進地の優れた装備で、芸術のように無償性で支えられたスポーツ登山、そして不十分な装備で、実現して当然という目立たぬ日常の仕事として行われる、危険かつなんら名誉もないような測量登山との類比が、周到に扱われています。
このたびの測量で、試みに、石造りの基準点を担ぎ上げる試行が行われていましたが、当時は、基準点が60kg、直い3mくらいの丸太などの測量器具がぜひとも必要で、総重量は100kgくらいあるそうです。アイゼン(鉄のスパイク)も、ピッケルもないような装備では、登山ルートの選択自体を狭めるようであり、今以上に、当時の苦心と苦衷が思い浮かばれます。
老練な、登山ガイドが、基準点重量を担ぎ挙げ、ようよう立ち上がった時点で、「無理だ」といい、あらためて、このたびの測量隊一同は、先人たちの、達成に、絶句してしまいました。
いずれにせよ、映画のイメージを付加しても、当時の彼らが、厳しい条件の中で、黙って、最大限の努力をする姿は見上げたものです。彼らは、仕事と、自分の私的な考えをきちんと分けています。それが、明治人の典型なのかどうかわかりませんが、与えられた仕事をまず果たし、それから私がある、という潔さがまずあります。それを平然とこなした、案内人の長次郎(日に焼けた、まさしく当時の田舎の日本人らしい味のある顔をしています。)さんなど、自分の信仰と折り合いがつけられず、大功労者でありながら頂上登頂はついに果たさなかったということです。思えば、「尊い」ジレンマですね。
その彼の、謙虚さと栄誉に応えるためなのか、登山道には「長次郎谷(たん)」という、夏も雪渓のある谷が残っているそうですが。
このたび、測量班が、再度、登頂に立ち、一時間足らずで、再度衛星を使った測量を行い、当時との誤差は0.5メートルであったというのは、時代的に類比して、驚くべき正確さであったということですが・・・・。
私たちは、社会生活を送るうえで、一方的に与えられた仕事をこなさなければなりません。それが、理不尽で、困難な仕事が偶然に振られることはいくらもあることです。また、」同時に、やりがいや、結果も出ない仕事もいくらもあることです。失敗も数知れず、例のNHKプロジェクトXに取り上げられるようなことが、ある筈はないのです。例えば私ごときが果たした仕事など、特筆すべきものなどないのは自明なことです。しかし、腐らず、目立たず、自分と、周囲と折り合いをつけ、その仕事(社会生活)を、まじめに取り組むのは、個人(社会的存在としての)にとってきわめて重要なことです。
私は、大阪市長にも、東京都知事にもならなかった(なれなかった)が、私にとっての「公」とは、それを果たすことによって私と家族の生活を支えた、仕事を通じた人性に思えてなりません。私の「腐らず、目立たず、自分と、周囲と折り合いをつけ、その仕事(社会生活)を、まじめに取り組んだ」ことは、今でも、かそけき自負くらいはありはしないか、と自分に問うてみるところです。
また、公選職であるかたがたは、本来、一般<「生活者」大衆>の現実に意識的であり、その願うところも、生活者全体の国防的・経済的利害、そしてわれわれ大衆が見えない危機においても、われわれの安心・安全のために働くことが、まず、公選職になる余裕のある、優れ勝った人の責務(ノブレス・オブリージュ)というものではないでしょうか(そのために叙勲制度があります。)。
理念なく、識見も、ましては人間性すら疑わしいような言動を繰り返し、その所管する執行機関の職員を道具のようにみなし(Hさん、Kさんよくあることですね。)、自己利害と愚かな野望に終始する姿をみていると、暗澹(あんたん:見通しがたたず、希望がないさま)たる思いに襲われるところです。
最近は、「選んだのは(愚かな)お前たちだろう」と居直るやつまでいることですから。
「昔の日本人」(それが概念としてなりたつのであれば)、まず自分の仕事(社会的使命)はこなし、その後に「自分」を考えたはずであり、当面自己の生業を考えず、高い(自己利害を超えた)立場で、将来のために、地域のために自腹で活動する人は、自分たち一般人にできないこととして、衆目に尊敬されたところです。それが、われわれの人性の「恥と誉れ」の意識のように私には思われます。
それに比して、現在の「政治家たち」が、畜群に見える、というのは、あながちうそではないのです。(ああ)
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