今年は、3月末から家事でいろいろ忙しくしており、いつの間にか春に乗り遅れてしまい、桜も知らないうちに、先日の大雨でつつじが朽ちていくのを漫然とみているような、今日この頃です。
また、本日、発色は、いまいちながら、アジサイの花が道そばに咲いているのを見つけました。
さる4月から、標記の「こころ旅」春期編が今年も始まりました。
俳優の火野正平が、視聴者が応募した手紙などにより、それぞれの思い出の場所をたどることとし、サイクリングで日本全国を旅する番組ですが、今年は沖縄から始まったようです。
現在は、九州地方が終わり、中国地方に入っていく見込みです(現時点ではもっと進んでいるのかもしれない。)。
この番組で放映される景色は、なかなか興味深いものもありますが、時に、閉ざされたシャッター商店街や、田園の中や小さな空き地に唐突に設置された小規模太陽光発電の施設など、見慣れたような似通ったような景色が映ります。
そこはそれで、嫌な景色も、心地よいような景色も映りますが、荒れ果てた休耕田や、先の、間に合わせの太陽光発電(なんと政府の無策よ!)施設など、厳しい現実もあります。
その一方で、まだまだ元気な農業者(?) たちが畑や、田のあぜなどで作業しており、手入れの行き届いた田園風景を見ていると、ほっとするような気持ちになります。
どうも、観ている私たちにすれば、それぞれ、すでに深く進行している、悪しきグローバリズムに迎合し、規制緩和の美名のもとでの零細な商工業者の没落させたこと、このたびの日本国の農協を解体し、農業者たち、地方住民を窮乏に追い込もうとする政府・中央政党の無能で悪質な政策の影響を視てしまいます。
その渦中にある地方の生活者たちはどうしているのか、決して豊かではない筈では、と思い、また、皆、どのように生活をつなげているのかと、私たちの想像力は、その光景を、ひとごとながら、身につまされるように、無意識に追っていくのですね。
その応募の手記も短くそっけないものから、周到で長いものもありますが、どうしても書きたかった、と、観るものの心を動かすものや、私にとって強く印象深いものもあります(よろしければ、このシリーズ、その1、その2を参照してください。)。
それは、行間を読み解いていくしかないのですが、思いのほか、神社や、仏閣などにまつわる記憶や思い出が多く、それが郷土(ふるさと)との一体感や、思い入れと重なるなど、当時の自然や家族・友人たちとのいきさつを含め、それぞれの投稿者を強く拘束していることが分かります。
それならば、そんな光景を見ていない、都市生活者や、こどもたちはどうなるのか、ということとなりますが、そこはそれ、うまくできているもので、旅先や、何かの滞在時に、それぞれに、思い入れのある風景を、それこそ、自己に強いられて、選択しています。
その記憶は、改ざんされたり、美化されたりするかも知れませんが、記憶の中でろ過され、それぞれ、切実な風景になるのでしょう。
いずれにせよ、投稿者は、その記憶を、他者と共有し、共感されたいと望むわけです。
ときに、高齢者(仮に80歳以上とします。)の投稿で、決して愉しくない記憶と景色の投稿もありましたが、厳しく、悲しい記憶もあります。
見ているほうには、感動的で、記憶に残る光景になるのですが、なまなましくてつらい記憶も、歳月を重ねれば、それなりに、その人の人性の中で落ち着いたようで、改めて人間の可塑性というか、つよさを感じ入るところもあります。
このあたりは、画面の景色の明るさとともに、自然光の中でのサイクリングによる追体験を経れば、その感情の澱のようなものも、徐々に消えていくような印象も受けます。
最近において、印象に残ったものについて、言及します。
先の、佐賀県の白石町(有明海干拓地)の風景です。
その手紙は、ていねいな字で書かれており、15年前、長く勤めた事業所を早期退職(文面から読めば50台半ば) して、地元のたまねぎ生産農家に、転職した(現在は69歳の女性)ということです。行間で、仕事のみならず、どうも人性での大きな転機であったらしいことが、語られずとも、想像されます。
それはなかなか厳しい労働であったらしく、一面の、干拓地農地は十分に利用され、とても美しい景色です。聞いたところによれば、薄い緑は麦畑、濃い緑はたまねぎ畑、と火野正平が補足します。
たまたま、番組作成が、投稿者の見た景色と同時期であり、見渡す限り、畑と緑のグラデーション、それらしか見えません。麦畑に居つくのでしょう、ひばりのさえずりがずっと続きます。
その麦畑(及びたまねぎ畑)のはるかかなたに、地平線のように、大規模水門の構造物が、空と農地を分かつかのように設置されています。ただ一面に遠くまで広がる田園風景ですが、その構造物に、唯一、小さな矩形の切れ間が見えてきます。
「あれは何だろう」と、カメラと同時に、こちらも気づきます。
まさしく、投稿者も、作業をしながら、それをいつも疑問に思っており、ある日、昼食のまかないを断り、弁当を持って車を走らせます。
ちょうど、その境界を越えたとき、一直線のコンクリート構造物のすぐ目前に、一面の干潟が広がり、有明干潟・例の泥の大平原が視界一面に広がります。はるか遠景に、雲仙普賢岳がかすみにたなびくようです。
一面の、緑の平原から、門扉の切れ目を越えれば、一面の泥の平原となります。
この風景に、なんともいえない開放感があり、どうも、あれは、自己の転機にあたって、奇跡に遭遇したかの様な光景(体験)であり、その景色は、自己の人性への内省を強いるような心持ちになるのではないか、と思われます。
現在は、たまねぎ収穫パートからは引退されたようですが、その鮮烈な印象は、大きな過渡期に、光を与える(?) ような体験だったのでしょう、よく理解できます。
たくまずして、出来上がった、(人間が手を加えた)自然の景観が、私たちの「精神」にも影響を与えるという例なのですね。
もうひとつは、少し前に投稿されたものですが、北海道の士幌町というところの居住者(女性)の投稿です。
25年前に北海道にやってきた、という家族です。
父に少し痴呆が出た、という人であり、介護する娘と孫と三人のスナップが同封されています。父と娘の顔つきがよく似ており、血族の同一性がよく感じられるようです。
毎朝、父親は、「永いことお世話になりました。今日はこれで帰ります。」といい、かばんを持って出発しようとします。娘の方は、「もっと長く居ればいいのに」と引きとめますが、無理にはとめません。
ころあいを見て、迎えに行きます。
その頃には、歩きつかれたのか、お迎えの車椅子におとなしくすわり、登園する園児や、あたりの景色を見ながら一日を過ごしたといいます。
「大好きだった父と一緒に」という説明が流れ、父の介護をしながらその晩年を一緒に平穏に過ごせたことの幸福の確認と、現在の投稿者(娘(59歳)の)喪失感が述べられます。
私には、冒頭の、「永いことお世話になりました。今日はこれで帰ります。」という父親の独白が深く心に残ります。まるで、日々日々において、別れを告げ、今世を去っていく覚悟のように思われます。かばんを持って出て行くというのは、長年にわたった、厳しく、たゆまぬ勤め人人性が、体に染み付いているのでしょう。
私は、「男は、一生、ひとりの過客(旅人) なり」といいたいのかもしれません、が、彼の人は、日々の覚悟をして、誰にでも、過度にお世話にならぬよう、毎朝、家を、出て行くのでしょう。
実際のところ、それは、老人性の妄想のひとつのタイプというべきかも知れませんが、無意識にでも、安逸には限りがある、それに安住してはいけない、厳しい生活に入っていかなければならない、と、年老いても自己に強いているようでもあります。
謙虚で、温和であり、家族にも愛された人かも知れませんが、その様な晩年に、頭が下がる思いです。
投稿者の実年齢を考えれば、その父親はちょうど大正二桁台の生まれくらいで、それこそ全ての男のうち、三人に一人が戦死し、その後敗戦の動乱期に直面したという、あの厳しい世代の人かもしれません。
自分ではそうはなれないのはよく理解していますが、さまざまな人性があるものです。
あじわい深いものですね。
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