NHKのEテレ、「06:55」について
毎朝、事情が許す限り、NHKのEテレで、6時55分からの「06:55」を見ています。
5分間のみの放送ですが、着想とユーモアが秀逸で、飽きません。
必ず毎朝あるのが、日めくりカレンダーです。続いて、へたうまキャラクターのパレード、シカ、ペンギン、カピバラ、カブトムシ、かめのとぼけた味のやりとり、コント(?)に、とても気持ちがなごみます。
そして、常設は「俺(わたし)、ねこ」、「わたし(俺)、犬」という、投稿された、猫、犬の写真を使って、家族とペットの生活を、つぎはぎに連ねていく視聴者参加の催しです。
「○○家の○○さんです」、から始まり、「俺(わたし)猫(いぬ)」、「これ、俺(私)の寝床」、「これ、俺(私)のおもちゃ」、「これ、普通のごはん」、「これ、特別ごはん」、「これ、うちのやつ」、と展開していって、最後に「でも、おれ、こいつの気持ちよくわかるー」、と飼い主との一緒のスナップが出てきます。
最初は、猫が俺(男役)、犬がわたし(女役)かな、と思って、観察がすごいなーと思っていましたが(いかにも猫は「俺」で、犬は「わたし」じゃーないですか)、実際のところは、彼らの性別で分けているようです。とはいっても、そのうち犬、猫といえども性差があるのがよくわかりました。人間同様、性差が生じない犬猫というのも貧しい文化ですよね。
毎朝見ていると、私ですら「かわいー」という感じになってしまって、楽しみになってしまいました。ただし、遠景とはいえ、家族のなかに子供はほぼ出て来ません。「独り者かなー」、と思われる人も多く、たくさん登場する中高年の男女を含め、おしなべて、「彼らは本当に動物と人間を超えた家族なんだー」という、うら寂しいような雰囲気もします。また、一生懸命、肩寄せあっていきているんだといういじらしさも感じられます。猫や犬、犬は特に人間化している雰囲気もあり、飼い主を含めた彼らは古い夫や妻を見るような落ち着き方と、はまり方です。
もしこれが、子供と家族のスナップなら、この番組はだれも見ない、かもしれません。個々の家族と自分のこどもに対するかわいさの感覚は、他者にそれほどの拡散化を許さないからです。
この番組がなぜ人気があるかと、考えてみると、投稿者にも、見る側にも、核家族の増加と、拠り所のない孤独が背後にあると受感されます。束の間でも、犬も猫も、大切な代替の家族なのです。また、その切実さは、ユーモアとともに視る側に測々と伝わってきます。
亡くなった吉本隆明(よしもとばななの父さんです。)は、猫を好み、殊に野良を、一家でたくさん飼っていましたが、晩年は、フランシス子という雌猫を溺愛し、彼女は吉本にのみ、なつき、吉本隆明からしか餌をもらわなかった、双方の晩年では、口移しで餌を与えていたといいます。愛猫フランシス子が、死んで行った後、吉本はバタバタッと衰えていったという話です(ハルノ宵子「フランシス子と父」より)。
私にとっては、あの人でさえ(?)という気持ちですが、たとえ高齢になったとしても、自分以外の外部とのエロス的な交流が、人間にとっていかに大事か、ということが、よーく理解できます(願わくば異性とのエロス的交流が欲しいものですが、なかなかむつかしい)。
あと、「ミカンを剥くのはどっちから」、というような、その時々で、ビデオと歌と、ダンスと統計を組み合わせた試み(私は有田剥きというミカンを最初に皮ごと4分割する剥き方を初めて見ました。)や、夏バージョンのカブトムシのパレード、かわいいのキャラクターのカブトムシの唄(天敵は烏だそうです。なるほど、悪食だからね、ブーンと飛ぶ間に食われちゃうよね。)などを聞いているうちに、7時になってしまいます。
その後の私の気持ちとすれば、
And when I knew I had to face another day.
そしてまた一日の始まりに立ち向かわなくてはならないことがわかる、と。
(キャロル・キング「ナチュラル・ウーマン」より、訳は天道です。)
* あと、「23:55」というのもあるそうです。宵っ張りの方はどうぞ。
毎朝、事情が許す限り、NHKのEテレで、6時55分からの「06:55」を見ています。
5分間のみの放送ですが、着想とユーモアが秀逸で、飽きません。
必ず毎朝あるのが、日めくりカレンダーです。続いて、へたうまキャラクターのパレード、シカ、ペンギン、カピバラ、カブトムシ、かめのとぼけた味のやりとり、コント(?)に、とても気持ちがなごみます。
そして、常設は「俺(わたし)、ねこ」、「わたし(俺)、犬」という、投稿された、猫、犬の写真を使って、家族とペットの生活を、つぎはぎに連ねていく視聴者参加の催しです。
「○○家の○○さんです」、から始まり、「俺(わたし)猫(いぬ)」、「これ、俺(私)の寝床」、「これ、俺(私)のおもちゃ」、「これ、普通のごはん」、「これ、特別ごはん」、「これ、うちのやつ」、と展開していって、最後に「でも、おれ、こいつの気持ちよくわかるー」、と飼い主との一緒のスナップが出てきます。
最初は、猫が俺(男役)、犬がわたし(女役)かな、と思って、観察がすごいなーと思っていましたが(いかにも猫は「俺」で、犬は「わたし」じゃーないですか)、実際のところは、彼らの性別で分けているようです。とはいっても、そのうち犬、猫といえども性差があるのがよくわかりました。人間同様、性差が生じない犬猫というのも貧しい文化ですよね。
毎朝見ていると、私ですら「かわいー」という感じになってしまって、楽しみになってしまいました。ただし、遠景とはいえ、家族のなかに子供はほぼ出て来ません。「独り者かなー」、と思われる人も多く、たくさん登場する中高年の男女を含め、おしなべて、「彼らは本当に動物と人間を超えた家族なんだー」という、うら寂しいような雰囲気もします。また、一生懸命、肩寄せあっていきているんだといういじらしさも感じられます。猫や犬、犬は特に人間化している雰囲気もあり、飼い主を含めた彼らは古い夫や妻を見るような落ち着き方と、はまり方です。
もしこれが、子供と家族のスナップなら、この番組はだれも見ない、かもしれません。個々の家族と自分のこどもに対するかわいさの感覚は、他者にそれほどの拡散化を許さないからです。
この番組がなぜ人気があるかと、考えてみると、投稿者にも、見る側にも、核家族の増加と、拠り所のない孤独が背後にあると受感されます。束の間でも、犬も猫も、大切な代替の家族なのです。また、その切実さは、ユーモアとともに視る側に測々と伝わってきます。
亡くなった吉本隆明(よしもとばななの父さんです。)は、猫を好み、殊に野良を、一家でたくさん飼っていましたが、晩年は、フランシス子という雌猫を溺愛し、彼女は吉本にのみ、なつき、吉本隆明からしか餌をもらわなかった、双方の晩年では、口移しで餌を与えていたといいます。愛猫フランシス子が、死んで行った後、吉本はバタバタッと衰えていったという話です(ハルノ宵子「フランシス子と父」より)。
私にとっては、あの人でさえ(?)という気持ちですが、たとえ高齢になったとしても、自分以外の外部とのエロス的な交流が、人間にとっていかに大事か、ということが、よーく理解できます(願わくば異性とのエロス的交流が欲しいものですが、なかなかむつかしい)。
あと、「ミカンを剥くのはどっちから」、というような、その時々で、ビデオと歌と、ダンスと統計を組み合わせた試み(私は有田剥きというミカンを最初に皮ごと4分割する剥き方を初めて見ました。)や、夏バージョンのカブトムシのパレード、かわいいのキャラクターのカブトムシの唄(天敵は烏だそうです。なるほど、悪食だからね、ブーンと飛ぶ間に食われちゃうよね。)などを聞いているうちに、7時になってしまいます。
その後の私の気持ちとすれば、
And when I knew I had to face another day.
そしてまた一日の始まりに立ち向かわなくてはならないことがわかる、と。
(キャロル・キング「ナチュラル・ウーマン」より、訳は天道です。)
* あと、「23:55」というのもあるそうです。宵っ張りの方はどうぞ。
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