天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

永遠の0(ぜろ)について その2

2015-06-01 23:58:20 | 哲学・文学・歴史
この文章は、とてもラッキーなことに百田尚樹氏の講演会に参加できたときの印象記をアップしたいと思います。
ところどころ、昔習ったおかしな関西弁で決めてみました。
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「永遠の“0(ぜろ)”」について    その2
                                25.12.02
 百田尚樹さんの、講演会(11/29、於、周南市文化会館)に行ってみました。
会場は大盛況で、現在のベストセラー「海賊と呼ばれた男」(出光佐三翁の出光創成期の事件を扱ったものと思われます。未読)のせいで、出光興産の関係者がいっぱいなのか、会場に一時間前に到着しましたが、すでに熱気がむんむんといったところでした。
定刻になり、ハットをかぶった、百田さんが、登場し、「ベストドレッサーの百田です」、と軽くいなします。禿頭の、精力的な風貌に見えましたが、私と同年輩のおやじです。さすがに大阪人で、「えらい立派な文化会館で、出光はんも相当協力されたでしょう」と、突っ込みとサービスも忘れません。
枕は、演者が放送作家を務める「探偵ナイトスクープ」の話です。この番組を、私はケーブルテレビを契約してないので、こちらで視ることができません。が、東京へ行っていたとき、たまたまホテルでみて、大変感動した覚えがあります。それは、昔、道に迷った時に、家に連れて帰ってもらった恩人を探す、という番組でしたが、相手方と小学生のやり取りが絶妙で、「大阪のテレビはやっぱすごいなー」、「誰が作っとんのやろ」と感心した覚えがあります。
最初は「23年間妻と話さなかった男」という番組の話になり、これは大ヒットで、「ユーチューブ」でみられるそうです。
「うちのお父さんは、うちの母と話したのを見たことがありません。何でそうなんか、調べてください」という、19歳の男の子からの通報で、番組は動きだします。芋づる式に、上のおねーさん、その上のおねーさんとたどっても、「本当にそうや、何でかわからん」というばかりです。「よそのうちで「夫婦がよう話す」やなんて、嘘や思てた」とまで言います。
実際、父親は、家に帰っても何もしゃべらない、妻が「お父さん、冷蔵庫に○○入ってるから食べてや」と言っても何も言わん。黙って取り出し、黙々と食べる。しかし、息子が帰ってくると、豹変します。「○○、早かったな、冷蔵庫に○○あるで、美味しいで、はよ食べり」と、愛想よくしゃべりだします。しかし、妻には何も言わない。この状態が、23年間(長女が生まれた時から)ずっと続いている。会社でも、妻以外の家族にも普通にしゃべる、何でやろか、と番組スタッフは着眼します。23年前に、何かあったんやないやろか、と。
 優秀な大阪のテレビは工夫します。
 お母さんのビデオレターです。(協力するお母さんの本質は、本当に大阪のおばちゃんです。)
 「お父さん、私の名前は何ですか」、次々続く、妻のシンプルな波状質問に対して、お父さんは、スタジオで、じっと、脂汗を流しながら、画面を見据えます。
 そんな妻の、優しい、語りと問いかけが何度も続きます。
さすが、大阪のテレビです。重いお父さんの口を、とうとうこじ開けます。(番組の要請に応じる、お父さんもすごいけどね。やっぱり大阪人です。)
どーも、去る、23年前、長女が生まれたとき、かいがいしく子の世話をする、妻にほっておかれて、拗ねたのです。
それ以降、年月がたってどうしてもしゃべることが出来なくなった。いわば、病です。
スタッフから、その話しを聞いた、お母さんはいうのです。「そんなことやろと思てました。」。
(ここで私の突っ込みです。「ほなら、どないしてこども作ったんやろ」)

 色々やって、色々言っても、どうしても、しゃべれないお父さんに、最後の試練です。公園に二人を呼び出して、隠しマイクを装備し、スタッフと、子ども三人は遠くで見守ります。時間が経ってもお父さんは、何も言えません。その姿がおかしくて、遠くで、こどもたちは腹を抱えて笑います。しかし、そのうち、全員が泣きだしました。
 お父さんが、とうとう話し出したのです。「長いこと、話さなんですまんかった。こどもたちをよう育ててくれて本当にありがとう」と。
 スタッフも、スタジオ全体も全員大泣きで、番組秘書が、化粧を直すのに10分くらい中座し、大変だったということです。
 (できるだけ、私が、当日の話を忠実に再現したつもりですが、You Tube で見てみてください。うちは、パソコンがめげて見れません。)

絶妙な語り口で百田さんが放送作家としても、また語り手としても大変優秀な人であるのがよーくわかりました。 
いい年をした私も思わず泣いてしまい、会場のあちこちで、涙を拭いたり、鼻をすする音が聞こえました。

敢えて、私の感想を述べさせていただければ、「夫婦というのは奇妙で偉大なものですねー」ということです。殊に、ちょっと拗ねた子供のような馬鹿な幼いお父さんを、無言で23年間支えて、ふつーに耐えてきた大阪のお母さんの姿です。不平も愚痴も言わず、黙ってふつーに明るく笑って生きてきたその凄さです。「そんなことやろと思てましたわ」、男として、負けた!、太宰治の良質な短編小説(ネットで「黄金風景」を読んでみてください。)を読んだような、思いです。
 続いて、94歳のマジシャンの話です。
 なぜ、50歳になって小説を書き始めたかとの、百田さんのモチベーションに関連しての話です。
 マジシャンは、舞台で、震える手でマジックを始めます。シルクハットにたまごを割り入れ、そのままかぶってしまう話や(かねて持参のハットで百田さんがマネします。)、箱串刺しの刀のマジックで会場と観客をマジにビビらせ怖がらせた話(後で見ると、箱に入ったおばちゃんの「首筋に赤い筋ついてましたわ」)で、聴衆を沸かせます。最後に、マジシャンに本業は何ですか、と聞いたら、整体師です、との回答で、よく聞くと、88歳で、資格を取って、今も営業していると、そして、趣味で老人(?)施設の慰問などをやっているのです。
 そこで、百田さんは思ったそうです。
 「わしは、まだ50やないかい」と。「やるべきことは、やる時間は、ナンボでもある」、それから、ほぼ年2作のペースで小説を書いていると。なかなか、今の、同年齢の私を奮い立たせる言葉です。

 最後に、「永遠の0」の話です。
 書き上げた「永遠の0(ぜろ)」は、出版先がなく、ようやくお願いして、太田出版というところから、出たそうです。「全く売れなかった」、ところが、一般的に、売れ行きには必ず波があり、大きい波、小さい波、しかし永遠の0(ぜろ)には波がなかった、最初は極めて低く上がっていって、いまだに落ちていない。現在、講談社で文庫になって、すでに350万部を超えています。12月下旬の映画封切りで、優に400万部は超えるでしょう、と、さすがに大阪人やから、自分で言うてはりました。
その過程で、講談社の名物出版局長加藤さんの紹介があります。(出てきましたねー、舞台に。終了後に、外で、スタッフと一緒に、百田さんの講談社版の本を売ってはりました。)例の、週刊現代、袋とじグラビアの発明者だそうです。(この辺、ほとんど、吉本です。)

 「永遠の0」の感想は、前回書いたから書きません。(よかったら、是非、もう一度、読んでくださいね。)

 「ちょっとぐらいのびてもええやないか」、主催者に一喝して、佳境に入ります。何で、「永遠の0」、「海賊と呼ばれた男」を書いたのか、の話です。
 戦争で、一番被害を受け、犠牲を払った世代はどの世代でしょうか?
我々(昭和30年生まれ前後世代)は、爺さんから、おやじから、親戚から戦争の話を聞いた(私も少しは聞いた)。ただし、昭和40年生まれ以降からは、全くそんな話を聞いていない。ひたすら、敗北史観、日本人悪人史観を、学校でたたきこまれ、うちの娘が、子どものときに言ってましたが、日本の歴史の話といえば、「また、日本人が悪いことをした話じゃろう」としか反応しない。
 百田がいうように、太平洋戦争は、いわゆる2000年を超える日本の歴史の中で、日本と日本人が、直面した初めての大敗北なのですが、当時の人たちが、どのように苦しみ、戦い、そして困難で悲惨な状況の中で敗北し死んで行ったか、その正しい部分も、間違ってた点も、誰も教えてくれないのです。
 私の親の世代、大正9年ごろから大正14年生まれ頃(1920年から1925年ごろまで)の男の、四人に一人くらいは戦争で死んでいる。本当に気の毒な世代です(日本人の、太平洋戦争での死亡者は全体で400万人弱です。)。また、同時に、もう少し広い範囲で女性は寡婦になっている。

 百田さんは言います。
 今、私たちが、子どもたちに、聞いた、あるいは自分で学んだ、歴史を語っておかなければ、あの世で、貧困で、低学歴で、それでも、必死で奮闘し、子どもを大学にまで入れてくれた、父親たちに、顔向けができない、と。
 そして、生きのこった親の世代が、戦後、戦犯などと蔑まれながら(「永遠の0」にもその話があります。)、戦後の厳しい時代を一身に背負い、敢然として闘ってきた出光佐三であり、市井の百田さんの父であり、私自身の父であり、その必死の努力のおかげで、今の繁栄があるのだと。
 きっちりと、強引に、10分伸ばして、講演会は終わりました。万雷の拍手の中で。
 笑って、泣いて、また強く共感して。
百田さんは熱い男でした。私は、私自身の、今後やるべきことも大いに啓発されました。
 ただ一つ残念なことは、若者の聴衆、参加者がまだ少ないように思えたことです。
  
 私たちは、自国の歴史に誇りが持てない、そのような教育を、私も受けました。逆に、日本の植民地文化人(大手マスコミが)が、グローバリゼーションなどの名のもとに、誇るべきナショナリティ(国民性)を否定し、日本人の誇りや過去の犠牲を価値のないかのように論断し、あたかもそれが正義であるかのように煽っている。
 しかしながら、実際のところ、自国の正しいまた誇るべき歴史を学ばず、また自分たちに自恃の気持ちを持たない国民は軽蔑される。
中国が愚劣な覇権国家に成り下がり、日本海・東シナ海の制空権を主張している今、日本はアメリカのお情けとその下卒として、安保条約にすがるのか、と私には思えます。
 対等な関係で、中国、ソ連、アメリカなどと渡り合う、平和を愛する、文化の高い伝統ある独立国家、国民国家日本を私は支援したいと思います。また、子どもたちに継承したいと思います。 

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