天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

吉本隆明の言葉と「のぞみなきとき」のわたしたち(瀬尾育生)に係る読書ノート その2

2015-07-12 21:08:42 | 読書ノート(天道公平)
吉本隆明の言葉と「のぞみなきとき」のわたしたち(瀬尾育生)に係るレジュメ(P45からP70まで)    
                                         その2
  

一 吉本発言の一貫性と原理性
 吉本発言は、小林秀雄の発言の延長線上にあるのではないか。
 3.11後の発言で、結局ぶれがなく正確なのは吉本発言ではなかったか。
  「これから人類は危ない橋、とぼとぼとわたっていくことになる」(大日向公男インタビュー、2011.
  4..22)
  人間は、人体の皮膚を透過する素粒子の運動を解放し、それをエネルギーや放射線として使用すること
 となったのだから、いったん解放した以上、もう最後まで付き合っていくしかない。人類が破滅する可能
 性はあるが、付き合っていく方法以外の選択はない。
  発電についてはオプションがあるかもしれない(私見:私の読んだ限り、産業界が求める、従って国民生
 活を 継続する安価で効率的なエネルギーは、今のところ原発経由しかないように思われました。)。
  しかし、いったん解放してしまった素粒子エネルギーは、爆発的な超効率的なエネルギーであるので、
 それに対するコントロールとか監視という問題は、必ず残り、戦争利用とか、平和利用とかの区別はない、
 それをしなければ、すぐにブラックマーケットが出来てしまい、イレギュラーな権力が手に入れると危険
 要因になるので、対的に理性的な権力が、複数でそれを管理した方が良い。(核拡散防止、IAEA)
 原発を減らすにせよ、核エネルギー全体の先進諸国家の取り分(プレゼンス)を縮小するわけにはいかな
 い。(貯蔵したプルトニウムなど)いったん素粒子エネルギーを解放したので、付き合っていく以外の選
 択肢はない(吉本の認識は)ことは正しかった。

  80年代初め、核兵器の「廃絶」という理念は成り立たない、ということが共通了解だった。同様に原発
 の「廃絶」という理念も成り立たない。縮小、多様化はあるが、廃絶というのは理念的に間違っている。
 「廃絶」しないで付き合っていく、という言い方以外にない。だから、専門家の責任も政治家の責任も問
 える。(私見:これは、80年代の反核運動の本来の考え方でした。そこに、このたび一部から、反核=脱
 原発運動が上がって来たので、その馬鹿さ加減が視えてきたわけです。いつの時代にも無考えのお人好し
 (?)とそれにつけ込む政治的ごろつきはいる、という現象として、また最近、国会審議を踏まえ、反核
 =反戦という新規スローガンが出て、「バカは死ななきゃ治らねー」(本当に真理かもしれませんね。)
 と、お定まりに上っ面だけ言葉を置き換え、本当に馬鹿な話です。)

ニ 中沢新一発言をめぐって
 「太陽系のエネルギーを生態系のなかに持ち込むのは、全く異質な外部を生態系の中に持ち込むものだ」、
(2011.4)(原発の存在の不気味さを言い当てる試みではないのか。)
 読めば、太陽系のエネルギーは生態系にとっての内在性である、としか読めない。
 (吉本のように)宇宙で起きているエネルギー現象は全て核分裂エネルギーである。
  太陽系も生態系もそのエネルギーの循環の一部である、という言い方が自然だし、正しい。
  政治的アクティビスト(政治的な活動家)になりつつある、レトリックを駆使することは危険である。

三 村上春樹発言について(聞き手の佐藤幹夫の意見)
 村上春樹は、世界標準を意識して発言しているように思える。(「1Q84」、「海辺のカフカ」のネーミ
ングなど)
 「作家は反省などしない」というのは、村上龍の役割かもしれない。
  (「歌うクジラ」などの達成)

四 加藤典洋発言について(聞き手の佐藤幹夫の意見)
  加藤典洋の達成 「敗戦後論」(2005年)
   文学の危機(文学はもう社会の重要な問題と格闘することはできないとのような)と自負を背負うよ
  うに仕事をしてきた経緯とその達成(他に「アメリカの影」など)
  3.11に関連して、「文系の知識だけではもうだめだ、シロウトであっても理系の勉強をして、原発問題
  に発言していく」という発言、があった。(直截すぎる。)
   (「死に神に突き飛ばされる」より)

五 「技術化」した世界の趨勢
  理系的な知性とは、国際スタンダードが、「ひとつ」になる知性
  文系の知性とは、国際スタンダードが、「複数性」になる知性(民族言語が介在するため)
  
  理系の知識の優位は、世界が「技術」に追い詰められている。すなわち、世界スタンダードとしての英語
 の優位、となる。
  日本語で思考してきた文学者は「反省」しなければ、となる。
  英語優位は、グロバリーゼションというよりは、世界が「技術」化している結果である。
   ハンナ・アーレントが、言論の公共性の構造について述べ、「各民族語に閉じこもると、誰もがディス
  コミュニケーションを抱え込んで、独善的になる。
   共通性が圧倒的に優位になると、今度は「伝えるべきことがなくなる。」異質であることが「伝えられ
  るべきこと」であるから。
  村上春樹が、自己の仕事を世界スタンダードに近づけようとすると、彼にとっての危機は、「言いたいこ
 とが伝わらない」危機よりは、「伝えるべきことがなくなる」
 危機である。原発の問題に言及するとき、彼の危機は「言いたいことが伝わらない」という危機ではなく、「
 伝えるべきことがなくなる」危機である。
  彼は、英語のできる人の危うさ、世界英語スタンダードによって語られることの危機、を受感して、日本
 語スピーチをした。
  文系の知性は、いくら世界貫通性に近づくとしても、複数性を決して抜けることはできない。
 世界英語というのは幻想の言語で、我々は結局、ベンヤミンの言うとおり「翻訳の連続体」以上のものに行き
 着くことはない。

 (聞き手の佐藤幹夫の意見)
  「伝えるべきことがなくなる危機」は「1Q84」から始まったのではないか。この作品は、私にとって新しい
  ものではなかった。
  「歌うクジラ」(村上龍)については、
 「出てくる人間が、今まで一度も描かれることのなかった「人間」の手触りをはっきり感じさせてくれるもので、
 人間が「こころ」を失っていく、別のものに変質させていくとはこういうことかというリアリティに充ちていて、
 それは私には全く新しいものでした。」とコメントしている。

六 死あるいは死者について
  吉本は、銀河系の終わりが死だ、後は個々人の死が様々な偶然の中であるだけだ、そうとしかいえない、と言
 っていた。開放的なコメントだった。

  (3.11以降?)死に対する閾値が低くなったと感じている。
  戦争期は、強制的に死のことを考えさせるシステムがあった。
  社会的には、超越性を戦争時の天皇制に集約していくシステムがあった。
  宗教もおしなべて統合され、天皇の擬似一神教的な構造への集約がされた。
  戦後、人間宣言と、超越性の否定が残った。人々の精神性を集約していた超越性が空白となった。それは観念
 の必然としてあり得ないわけであり、禁圧が働いている。
  三島由紀夫がこだわり続けたテーマである。
  人間以上の審級はどこにもない、それ以上の超越性を決して考えるな、そういうものが現われたらつぶしてし
 まえ、そういう禁圧を戦後が支配してきた。
  (私見:先の、3.11の消防士たちではないですが、彼らを決して英雄にしないのは同じ原則に基づくものでは
    ないでしょうか。戦後の日本では閲して「英雄を作らない」ことは瀬尾も指摘しています。)
  「戦後日本無神論」という、これはスターリン主義唯物論が宗教であると同様の意味で、一種の宗教であると   
   そのため、末期医療、自殺者などの問題で現れている。
  存在が不可避的にはらむはずの超越性のありかたを受容するキャパシティ(超越性許容限界)が、戦後の社会
  の中で極端に圧縮されている。
   宗教性をいかに廃絶するかが、戦時天皇制に絡め取られた吉本のモチーフであったが、同時に超越的なもの
  についての思想の運動領域は吉本の中に確保されている。
    (オームについて、親鸞について、臨死体験について)
  「死ねば死にきり、自然は水際だっている」(高村光太郎)晩年の吉本の引用
  唯物論や、戦後無神論が考えているのは私が不在になっていっても世界は続いていくということであるが、こ
 れは別の意味で「世界」というものを宗教にしている。
 「死ねば死にきり、自然は水際だっている」は少し違う。
 私の超越性と世界の超越性が同じレベルで並ぶ、ということをさしている。
 私が死んだら浄土や天国に行く、ということと、私が死んだら、私が不在になった世界が続いていく、というの
 が等価に並ぶ、どちらの主張も同じ権利である、ということではないのか。

七 関係の絶対性から「親鸞論---絶対他力」と「母型論」へ
 主調音は、①「信憑剥奪」への激しい情熱(聖書の聖性、イエスの実在そのもの)
 が、吉本自身の身体的な自己憎悪(嫌悪)とより合わさっている。
   「福音書」 神と人との関係の絶対性
   「吉本」  旧約書の焼き直し、であることの論註(宗教性、天皇制、国家の脱構築の作業への準備)
          マタイ伝作者への批判で、「現人神の創作」を傍証
          現人神に対する絶対感情で生命力を吸い取られた戦中期の自分への憎悪
          戦争期に至るまでの「日本近代」は西洋近代の表層的引用と剽窃と断片合成によってつくられ
         たでっち上げである。
          その信憑剥奪の構造は、「神と人との関係の絶対性」から「神と人との」が取り去られてしま
         った。
          その後、「関係の絶対性」だけがひとり歩きを始めた。

(私見:「関係の絶対性」に対する小浜逸郎の説明と比べてみてください。
個人が、理念、理想、信念を語るとき、その観念を排したところで現れる、人間の社会的被拘束性である。(ここか
吉本は出発した、と言っています。)

(吉本にとって)一つの流れが、親鸞論の「絶対他力」という概念にたどりつく。
「何との関係」を名指さないままで、他力の絶対性をいうことである。
 もう一つは「関係の」というとき、その関係が「人間と人間との」という形をとって現われてくる場面、相手との
 対面性の構造をもち、原初的な一体性から分離されて、「人間と人間との関係」として現れてくるその場面を考察す
 ること。それが「母型論」に向かっていく。対面の構造の出発点を「母」の存在の中によみとる。
 「関係の絶対性」は後になって、この二つの道筋をたどっておくこととなった。
 吉本は、西欧やユダヤ・キリスト教の流れ(父性的)を強く意識して、これに自らの「母型」的な原理を意識的に対
 抗させようとした。母型的な原理は言語論の基礎にもなっている。西欧的な流れでいかに異質かを語っている。

  (母型ということを言うならば)、日本の文芸批評の背骨を作っている小林秀雄、吉本、江藤淳という批評家たち
 が、図らずも、それぞれ「母と子」のドラマを内在させていた。(佐藤幹夫の見解)
  
八 日本の文芸批評は母型的  
 「成熟と喪失」、「小林秀雄」(江藤淳)・・・「母と子」のドラマを内在化
   日本の批評は、おしなべて、自己と対象の関係が非分離となっている。
   文学作品や文学者に寄り添いながら、それへの共感や反感を通して語る。
    「・・・・(非分離を)ひきはがしつつ語る。・・・・」手法
  
   西洋の文芸学は、作家や詩人を対象物として扱い、客観的な研究史を積み重ねていくという方法をとる。
    母系型のような方式は、客観性を欠いた偏寄な仕事、と西洋ではみなされる。
     EX)ハイデカーのヘルダーリン論など
    戦前の日本近代は、国学的な日本語をプロシア的なドイツ語の立憲君主制に翻訳されたローカルな空間だった。
    敗戦によって、世界英語スタンダードに屈服した。日本戦後の「ねじれ」が生じた。
   英語は与格(間接目的語)と対格(直接目的語)の区別がない言語である。
  (私見:間接・直接目的語で、「〇○が○○であること」という区分けを頓着しない、認めようとしない、という
    ことでしょうか。)
    つまり、自分に半分くっついてくる、半分剥離しているような他者を指し示す審級を持たない、全てが目的格
   の「対象物」になる。

  ヘブライ的思考は父権的なものだが、顕在的な父権的思考は対極に母権的なものを確保する、(ヨーロッパではブ
 ーバーが出たが)日本では、吉本が、「共同幻想」と「個人幻想」の間に「対幻想」という審級を断固として存在主
 張してみせた。
  アメリカ的世界英語スタンダードは本質的にアメリカ・キリスト教であって、父権的な構造(ヘブライ的思考が持
 っていた。)を隠ぺいされた形で全面化している。
  それは「全て対象物」とされるあっけらかんとした合理主義の世界を作る。
  戦後、マッカーサーは、大量の宣教師を連れてきて、日本をアメリカ・キリスト教とロシア・マルクス主義の戦場
 にしてしまう。
  しかし、少ない人々が、ローカルな、一定の歴史的・空間的な限定の中で生きてい る人間の実存に接近できるよ
 うな独特な散文の形式を守っていた。それが日本の文芸批評である。(小林秀雄、江藤淳、吉本隆明など)ただ、現
 在は、西洋の文芸学やアメリカ的な実証文学研究が、大学の文学研究者として、それにとって変わろうとしている。
                            (2011.11聞き取り)



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