宇治平等院です。58歳で、初めて訪れました。まこと、「京都(宇治市)しらず」です。
京都の私大で学生時代を始めたとき、まず、学籍番号が近い友人たちが最初に顔見知りとなりましたが、彼らの多くは、大阪・神戸からの電車通学者であり、山口県出身の私は「毎日大変だろうに」と思っていました。彼らは、見ていて、無理をせず、なかなか、つましい生活でした。中には、付属高校出身で自家用車通学のお金持ちもおりましたが、「類は友を呼ぶ」のか、私は、極端なお金持ちには出会いませんでした。例の、私と同年の大阪出身の百田尚樹も同じ学生であった筈ですが、彼が当時、どのように通学していたのかは知りません。
この本の著者の強い感情をみていると、どうも、私は、京都の、表層だけを生きてきたようです。
著者は、京都のいわゆる洛中ではない、宇治市の在住者ですが、優秀であり京都帝大(今の京大)出身であるにもかかわらず、生まれた場所だけで、生誕以来、事あるごとに、洛中の在住者から差別されてきた(折に触れ「いけず」(言葉などによる意地悪、侮辱)をされたり、言われた。)ということです。言い方を変えれば、京都は洛中(その線引きは彼の言葉で類推するしかないが)以外は皆、被差別地区ということです。
著者に言わせれば、オヤジに対する、ハゲ、デブという言説は、ハゲは個々に責任がないので(悪いのは先祖ですか?)不当でしょうが、デブは個々の自己意識が介在し、自己責任かどうか微妙なところですが、まあ、嫌がらせ、婉曲な差別ということとなります。しかし、地域を限定し、父祖・出自にまで及ぶという、これらは、根の深い実体的な、立派な(?) 差別ですね。
当然、不当な差別であるので、「憾み骨髄」というか、彼の言葉で言えば、その洛中に住む人間たちの思い上がりは、「瘴気(しょうき:を感じるような」とか、実名を挙げ、彼が受忍した幼少時からの「ルサンチマン(弱者の怨念)」に形を与えることとして、実名を挙げて、今も続く彼らの増上慢ぶりを、個別に告発していきます。これは勇気が要ることでしょう。この本の出版後、彼が出入り差し止めになった団体や組織、袂を分かった社会的関係は数多いものかもしれません。
そういえば、それは、差別者、旧京都町衆によって挙行される、時代祭りや、葵祭りなども、私の在学中は、アルバイトの学生の日当は、旧帝大京大と、私大(私大のランクがあるかどうかは知らない。)で、差がありました(現在は知らない。)。それは、京大生はこの仕事、それ以外はこれ、というように恣意的に振り分け、職能給ということとなれば、事実関係は隠蔽され一応の理屈はついたかも知れないが(京大生に確認したことはないが)、これも立派な差別ですね。納得できない人は当時もいたでしょう。
一般大衆は、運・不運には関係なく、冷酷(合理的)に、社会的な能力・達成差を平然と差別(区別)しますが、私も怒ってよかったのかも知れない。いずれにせよ、当該お祭りは、お金を積めば、華々しい役はもらえる(出自は前提条件かも知れないが)らしく、「なんかなあ」と思い、本気で見物に行ったことはいっぺんもないところです。
著者に添って考えれば、現在の町衆であろうと、いかに専門分野で業績を上げた高名な文化人であろうと、洛中に住むネイティブ(原住民)のその実態は、本当は、多くが、傲慢な俗物であるということです。私にいわせれば、心底、陳腐な「いなか者」ということになります。
それは、私のように、古代から存したという都鄙(とひ:まちといなか)の区分けで、地域的に明らかにいなか者(首都からの距離という基準で)に属する差別でありむしろ遠すぎて誰も知らないから、教えてもらわなければ何も感じないところです。
しかし、そういえば神戸から学校にやってくる男が、「うちの親が、神戸から西はろくな人間が住んでない、(血迷って)結婚なんてやめといてや。」といわれると、述懐していました。どこが起点になるかはか知りませんが、知区割りというか、それぞれ、一方的な序列というものはあるものですね。こんなあきれたような話は、むしろ、著者のような、とてつもなく歴史が古い京都近くに住まう、京都市に行き来し、都に奉仕するような立場の、周辺の居住者の方が、はるかに屈辱的な経験をするようです。
そういえば、この本の中で、洛中の老舗の嫁かずの娘が、嫁き遅れ(?) となり、「東山を西に見る(地区の)男しか(縁談の)話がない、(私もしまいやわ)」と泣きごとをいうという逸話があり、笑えます。笑えるというか、京都人の偏狭ぶりと、中華思想と、その通俗ぶりにあきれます。いわゆる「京都人ジョーク」というやつですね。
今思えば、私は、地方からでてきて、左京区の叡山電鉄沿いの上高野というところに住んでいましたが、どうもここは極限で、当時、彼らの世界とは、何の脈絡も、関係もなかったわけですね。個人的には、社会的関係を取り結ぶことなくて、幸せなことでした。そういえば、わが下宿は、「八瀬遊園」のすぐ近くで、何せ、天皇家の棺は、八瀬童子という、異界の鬼の子孫ような(?) 方々に担がれるということでもあり、大原地区に通じる、それこそ辺境の地でした。私の下宿は、夜になると、縁接する高野川(下流で鴨川になる。)から、かじか蛙の鳴き声が聞こえてきたほどです。
わが、家主は、広い農家の余剰の部屋、住屋の二階(しっかり本間の4畳半が4部屋あり、別棟の離れに、2部屋と、計5人間借りで住んでおりました。昔風の、漆喰まで塗った、立派な農家でしたが、家の構造は、農家のことで、風呂は外風呂、トイレは簡易トイレのことで、大きな小便つぼと、大便のほうは、板が四角にきってあり、なんせ、10ワットくらいの暗い電灯一本だけで、トイレを汚すヤツはいくらもいます。木のきんかくしもついており、さすがにショックで、まだ、「戦後は終わっていない」と感じたところです(これらは別に書いたことがあります。)必要に迫られて使いますが、時に小便でぬれた四角い穴をまたぐのは、悲しいことでした。
また、家主は、お百姓さんで、当該下宿生の糞便は、肥やしとして熟成し、皆の好きな京野菜を育てる元となっていくわけです。家主は、百姓のみならず夜警の仕事をしており、火の元に厳しく、夜中に騒がなければ優しい、田舎の人でしたが、ごみも出してもらえたし、時に優しい言葉もかけられ、「いけず」を言われたことはありません。どうも、そこの娘は、下宿していた京大生に見初められ、筑紫の国に嫁入り(昔であれば配流(はいる)かもしれない。)したそうです。実は、彼らも、被差別区域に住んでいたわけです。
私、学生時代に、町医者で、かつ評論家の故松田道雄氏の、「京の街角から」という、一連のエッセイ集を読みましたが、京都の洛中の中の、いわゆる、表通りから入り目立たぬ路地(「ろうじ」と読みます。)の奥で営まれる京都の市井の人々の四季とそのつましく懐かしいような暮らし向きが趣深く描かれていました。この本を読んで、「京都に住みたいなー」と思ったのは、私だけではないはずです。
彼は、評論家としても瑕疵のある人でなく、むしろ知の殺し方を心得、いわゆる洛中地区外の人々について、粗雑な書き方もなかったので、会ったことはないが(会って誘導すればポロリともらしたかどうか分からないが)、教養ある周到な方でした。したがって、京都人とは、これでもかとばかり、著者が指摘する方々や、また、私が現地で見た、世俗的な権威だけを、あるいは歴史の古さを全肯定する、俗な方々ばかりではないわけです。
このたび、必要があり、再度、大ベストセラーになった、この本を読み返しましたが、確かに興味深いものでした。このたび、続編も出ましたので、あわせ考えてみたいと思います。
この本の初版が、2014年であり、それからますます有名になったのか、もともと建築学者である著者が、桂離宮(皇室の別荘:日本建築の典型、究極の日本建築として有名)について、言及し、「もともと嫌いだったが(これは、どうも京都の料亭と同じようなつくりであると、言明していました。料亭がまねたのですね。)、しかし、年をとって許せるようになった」、などとコメントしていました。また、歴史番組(「英雄たちの選択」)などにも登場し、京都の街角で、史跡の表示を目にしながら、達者な(?) 京都弁で、洒脱に、京都の文化人として、地元の人らしく、われわれの思いもよらぬ興味深い意見を述べていきます。
しかしながら、著者自身、嵯峨野生まれ、宇治市居住ということで、自意識の内に、朱線が、明確に引かれているかのようであり、屈辱の記憶とともに、それは存在意識を、思考、社会的意識を厳しく峻拒するようです。彼の親しい友人でさえ、地域差のくびきから逃れえず、「いけず」な言動をし、いわゆる「地縁」(歴史を踏まえたものであろうが)に過剰に執着するようです。
仮に、在日外国人や、被差別の出身者からそれ(差別の実態)を指摘されたら、実際のところ、後ろめたいものだから、恐れ入るのでしょう(「差別の証拠があるのかいな」とまでは言うのだろうか。)。
たとえば、洛中に住んだ被差別者が地区外の人々を差別するなら、どうなるのでしょう。前に、「パッチギ」(200年井筒和幸監督)(つまらない映画だった。井筒監督は北鮮の代
弁者という記述もあったが、映画監督としては、前作の「岸和田少年愚連隊」(主役ナインティナイン)が、いい時代のナインティナインの好演と、脇役も厚く、テンポの速い笑える活劇でありとてもよい出来だったのに、この映画は「なんやこれは」という駄作でした。)という映画で、在日朝鮮人の学生たちと、偏狭な排他主義を採る、右翼学生たちが、(私にとって懐かしい)鴨川の河川敷で乱闘するシーンがありましたが、彼らも「俺らは、宇治のいなか者とは違う」と思っているかも知れず、現実的にそれがないことはない、訳でしょう。著者の記述で、京都でのプロレス興行で、京都出身のプロレスラーがあいさつをしたら、会場から「お前は宇治市の出身やろ、京都と違う」というヤジが飛んだそうです。
また、洛中に何代前から住んだら、「差別する側」に廻れるかわかりません(京都ではたぶん、無理だろう)が、例の、関東圏の「江戸っ子」、「山手線内っ子」と類比しても、異動が少なく歴史が古く、また執着が強い京都では、その線引きが容易なのかも知れません。実際のところ、それは、階級が固定化した西欧などにはいくらもあることかも知れませんが。
ひるがえって思えば、なぜ京都では、出自や、序列が固定化されているのか、と思えば、たぶん土地の所有の異動や住民の移動が少ないからなのですね、東京など人間や生産物(?) の移動が多いところでは、さすがに、ここまで意識の固定はないのでしょう。「存在は意識を規定する」訳でもあり、最初、「京都はええなあ」と思っていても、三日経って実態が分かれば、嫌になるかも知れず、伝統や地縁とかには負性もあることをよく考えるべきです。ちなみに私は、京都の、夏の盆地特有の、高湿度高温の気候と、冬の曇り空ばかりの陰鬱な気候は到底なじめず、今は、瀬戸内海の晴れの多い温暖な冬の気候が好きです。
著者は逆に、「洛中幻想」に対抗し、「宇治市」に、自分の根拠を置き、後醍醐天皇の鎮魂の寺と目される、天竜寺を拠点に、「南朝加担共同幻想」に入り込むように思われます。しかしながら、後醍醐天皇は、武士政権に対する貴族朝廷の反動革命(本郷和人氏にそんな記述がある。)を引き起こしたようなものであり、武士に冷たく、忠臣、楠一族や、北畠顕家などを便利に使いまわした人でもあります。全く関係のない、鄙のわれわれとしては、その著者に思いいれのある、地縁の幻想には、加担しかねるところなのです。
あまりも、地縁を媒介にした、「おらがえらい高い意識」というのは、不健康であり、前にあった「県民ショー」と同様で、笑い話のうちならいいが、度を過ぎれば、愚かしく有害なものですね。そういえば、旧長州人(山口県民)は、旧会津(福島県の一部)にいけば、あらゆる場合で敵視される、という逸話(どうも本当らしい)があったところです。
一時はやった、「アメリカ人ジョーク」とか、「イギリス人ジョーク」、「日本人ジョーク」に至るまで、ときに笑ってやる努力も必要かもしれません(当たっている場合は、お互い、腹は立つが)。
嗤ってやれば、理不尽、不合理に対処する術はあるかも知れない。
しかし、現実的な脅威である、南鮮、北鮮、中共の、露骨で、醜悪な、政治的他国民族蔑視政策は、私たち日本国民は、決して許すわけにはいかないが。
いずれにせよ、国民は、おごり高ぶった貴種は嫌い、他国の腐った独裁者も、思い上がった民族主義者も嫌い、間違いなく、謙虚で、人格者であり続ける貴種のほうを好むでしょうから、今上陛下の下で、「われわれは皆平等」と言っていたほうが、ずいぶんましだし、争いも少ないのかもしれません。
京都の私大で学生時代を始めたとき、まず、学籍番号が近い友人たちが最初に顔見知りとなりましたが、彼らの多くは、大阪・神戸からの電車通学者であり、山口県出身の私は「毎日大変だろうに」と思っていました。彼らは、見ていて、無理をせず、なかなか、つましい生活でした。中には、付属高校出身で自家用車通学のお金持ちもおりましたが、「類は友を呼ぶ」のか、私は、極端なお金持ちには出会いませんでした。例の、私と同年の大阪出身の百田尚樹も同じ学生であった筈ですが、彼が当時、どのように通学していたのかは知りません。
この本の著者の強い感情をみていると、どうも、私は、京都の、表層だけを生きてきたようです。
著者は、京都のいわゆる洛中ではない、宇治市の在住者ですが、優秀であり京都帝大(今の京大)出身であるにもかかわらず、生まれた場所だけで、生誕以来、事あるごとに、洛中の在住者から差別されてきた(折に触れ「いけず」(言葉などによる意地悪、侮辱)をされたり、言われた。)ということです。言い方を変えれば、京都は洛中(その線引きは彼の言葉で類推するしかないが)以外は皆、被差別地区ということです。
著者に言わせれば、オヤジに対する、ハゲ、デブという言説は、ハゲは個々に責任がないので(悪いのは先祖ですか?)不当でしょうが、デブは個々の自己意識が介在し、自己責任かどうか微妙なところですが、まあ、嫌がらせ、婉曲な差別ということとなります。しかし、地域を限定し、父祖・出自にまで及ぶという、これらは、根の深い実体的な、立派な(?) 差別ですね。
当然、不当な差別であるので、「憾み骨髄」というか、彼の言葉で言えば、その洛中に住む人間たちの思い上がりは、「瘴気(しょうき:を感じるような」とか、実名を挙げ、彼が受忍した幼少時からの「ルサンチマン(弱者の怨念)」に形を与えることとして、実名を挙げて、今も続く彼らの増上慢ぶりを、個別に告発していきます。これは勇気が要ることでしょう。この本の出版後、彼が出入り差し止めになった団体や組織、袂を分かった社会的関係は数多いものかもしれません。
そういえば、それは、差別者、旧京都町衆によって挙行される、時代祭りや、葵祭りなども、私の在学中は、アルバイトの学生の日当は、旧帝大京大と、私大(私大のランクがあるかどうかは知らない。)で、差がありました(現在は知らない。)。それは、京大生はこの仕事、それ以外はこれ、というように恣意的に振り分け、職能給ということとなれば、事実関係は隠蔽され一応の理屈はついたかも知れないが(京大生に確認したことはないが)、これも立派な差別ですね。納得できない人は当時もいたでしょう。
一般大衆は、運・不運には関係なく、冷酷(合理的)に、社会的な能力・達成差を平然と差別(区別)しますが、私も怒ってよかったのかも知れない。いずれにせよ、当該お祭りは、お金を積めば、華々しい役はもらえる(出自は前提条件かも知れないが)らしく、「なんかなあ」と思い、本気で見物に行ったことはいっぺんもないところです。
著者に添って考えれば、現在の町衆であろうと、いかに専門分野で業績を上げた高名な文化人であろうと、洛中に住むネイティブ(原住民)のその実態は、本当は、多くが、傲慢な俗物であるということです。私にいわせれば、心底、陳腐な「いなか者」ということになります。
それは、私のように、古代から存したという都鄙(とひ:まちといなか)の区分けで、地域的に明らかにいなか者(首都からの距離という基準で)に属する差別でありむしろ遠すぎて誰も知らないから、教えてもらわなければ何も感じないところです。
しかし、そういえば神戸から学校にやってくる男が、「うちの親が、神戸から西はろくな人間が住んでない、(血迷って)結婚なんてやめといてや。」といわれると、述懐していました。どこが起点になるかはか知りませんが、知区割りというか、それぞれ、一方的な序列というものはあるものですね。こんなあきれたような話は、むしろ、著者のような、とてつもなく歴史が古い京都近くに住まう、京都市に行き来し、都に奉仕するような立場の、周辺の居住者の方が、はるかに屈辱的な経験をするようです。
そういえば、この本の中で、洛中の老舗の嫁かずの娘が、嫁き遅れ(?) となり、「東山を西に見る(地区の)男しか(縁談の)話がない、(私もしまいやわ)」と泣きごとをいうという逸話があり、笑えます。笑えるというか、京都人の偏狭ぶりと、中華思想と、その通俗ぶりにあきれます。いわゆる「京都人ジョーク」というやつですね。
今思えば、私は、地方からでてきて、左京区の叡山電鉄沿いの上高野というところに住んでいましたが、どうもここは極限で、当時、彼らの世界とは、何の脈絡も、関係もなかったわけですね。個人的には、社会的関係を取り結ぶことなくて、幸せなことでした。そういえば、わが下宿は、「八瀬遊園」のすぐ近くで、何せ、天皇家の棺は、八瀬童子という、異界の鬼の子孫ような(?) 方々に担がれるということでもあり、大原地区に通じる、それこそ辺境の地でした。私の下宿は、夜になると、縁接する高野川(下流で鴨川になる。)から、かじか蛙の鳴き声が聞こえてきたほどです。
わが、家主は、広い農家の余剰の部屋、住屋の二階(しっかり本間の4畳半が4部屋あり、別棟の離れに、2部屋と、計5人間借りで住んでおりました。昔風の、漆喰まで塗った、立派な農家でしたが、家の構造は、農家のことで、風呂は外風呂、トイレは簡易トイレのことで、大きな小便つぼと、大便のほうは、板が四角にきってあり、なんせ、10ワットくらいの暗い電灯一本だけで、トイレを汚すヤツはいくらもいます。木のきんかくしもついており、さすがにショックで、まだ、「戦後は終わっていない」と感じたところです(これらは別に書いたことがあります。)必要に迫られて使いますが、時に小便でぬれた四角い穴をまたぐのは、悲しいことでした。
また、家主は、お百姓さんで、当該下宿生の糞便は、肥やしとして熟成し、皆の好きな京野菜を育てる元となっていくわけです。家主は、百姓のみならず夜警の仕事をしており、火の元に厳しく、夜中に騒がなければ優しい、田舎の人でしたが、ごみも出してもらえたし、時に優しい言葉もかけられ、「いけず」を言われたことはありません。どうも、そこの娘は、下宿していた京大生に見初められ、筑紫の国に嫁入り(昔であれば配流(はいる)かもしれない。)したそうです。実は、彼らも、被差別区域に住んでいたわけです。
私、学生時代に、町医者で、かつ評論家の故松田道雄氏の、「京の街角から」という、一連のエッセイ集を読みましたが、京都の洛中の中の、いわゆる、表通りから入り目立たぬ路地(「ろうじ」と読みます。)の奥で営まれる京都の市井の人々の四季とそのつましく懐かしいような暮らし向きが趣深く描かれていました。この本を読んで、「京都に住みたいなー」と思ったのは、私だけではないはずです。
彼は、評論家としても瑕疵のある人でなく、むしろ知の殺し方を心得、いわゆる洛中地区外の人々について、粗雑な書き方もなかったので、会ったことはないが(会って誘導すればポロリともらしたかどうか分からないが)、教養ある周到な方でした。したがって、京都人とは、これでもかとばかり、著者が指摘する方々や、また、私が現地で見た、世俗的な権威だけを、あるいは歴史の古さを全肯定する、俗な方々ばかりではないわけです。
このたび、必要があり、再度、大ベストセラーになった、この本を読み返しましたが、確かに興味深いものでした。このたび、続編も出ましたので、あわせ考えてみたいと思います。
この本の初版が、2014年であり、それからますます有名になったのか、もともと建築学者である著者が、桂離宮(皇室の別荘:日本建築の典型、究極の日本建築として有名)について、言及し、「もともと嫌いだったが(これは、どうも京都の料亭と同じようなつくりであると、言明していました。料亭がまねたのですね。)、しかし、年をとって許せるようになった」、などとコメントしていました。また、歴史番組(「英雄たちの選択」)などにも登場し、京都の街角で、史跡の表示を目にしながら、達者な(?) 京都弁で、洒脱に、京都の文化人として、地元の人らしく、われわれの思いもよらぬ興味深い意見を述べていきます。
しかしながら、著者自身、嵯峨野生まれ、宇治市居住ということで、自意識の内に、朱線が、明確に引かれているかのようであり、屈辱の記憶とともに、それは存在意識を、思考、社会的意識を厳しく峻拒するようです。彼の親しい友人でさえ、地域差のくびきから逃れえず、「いけず」な言動をし、いわゆる「地縁」(歴史を踏まえたものであろうが)に過剰に執着するようです。
仮に、在日外国人や、被差別の出身者からそれ(差別の実態)を指摘されたら、実際のところ、後ろめたいものだから、恐れ入るのでしょう(「差別の証拠があるのかいな」とまでは言うのだろうか。)。
たとえば、洛中に住んだ被差別者が地区外の人々を差別するなら、どうなるのでしょう。前に、「パッチギ」(200年井筒和幸監督)(つまらない映画だった。井筒監督は北鮮の代
弁者という記述もあったが、映画監督としては、前作の「岸和田少年愚連隊」(主役ナインティナイン)が、いい時代のナインティナインの好演と、脇役も厚く、テンポの速い笑える活劇でありとてもよい出来だったのに、この映画は「なんやこれは」という駄作でした。)という映画で、在日朝鮮人の学生たちと、偏狭な排他主義を採る、右翼学生たちが、(私にとって懐かしい)鴨川の河川敷で乱闘するシーンがありましたが、彼らも「俺らは、宇治のいなか者とは違う」と思っているかも知れず、現実的にそれがないことはない、訳でしょう。著者の記述で、京都でのプロレス興行で、京都出身のプロレスラーがあいさつをしたら、会場から「お前は宇治市の出身やろ、京都と違う」というヤジが飛んだそうです。
また、洛中に何代前から住んだら、「差別する側」に廻れるかわかりません(京都ではたぶん、無理だろう)が、例の、関東圏の「江戸っ子」、「山手線内っ子」と類比しても、異動が少なく歴史が古く、また執着が強い京都では、その線引きが容易なのかも知れません。実際のところ、それは、階級が固定化した西欧などにはいくらもあることかも知れませんが。
ひるがえって思えば、なぜ京都では、出自や、序列が固定化されているのか、と思えば、たぶん土地の所有の異動や住民の移動が少ないからなのですね、東京など人間や生産物(?) の移動が多いところでは、さすがに、ここまで意識の固定はないのでしょう。「存在は意識を規定する」訳でもあり、最初、「京都はええなあ」と思っていても、三日経って実態が分かれば、嫌になるかも知れず、伝統や地縁とかには負性もあることをよく考えるべきです。ちなみに私は、京都の、夏の盆地特有の、高湿度高温の気候と、冬の曇り空ばかりの陰鬱な気候は到底なじめず、今は、瀬戸内海の晴れの多い温暖な冬の気候が好きです。
著者は逆に、「洛中幻想」に対抗し、「宇治市」に、自分の根拠を置き、後醍醐天皇の鎮魂の寺と目される、天竜寺を拠点に、「南朝加担共同幻想」に入り込むように思われます。しかしながら、後醍醐天皇は、武士政権に対する貴族朝廷の反動革命(本郷和人氏にそんな記述がある。)を引き起こしたようなものであり、武士に冷たく、忠臣、楠一族や、北畠顕家などを便利に使いまわした人でもあります。全く関係のない、鄙のわれわれとしては、その著者に思いいれのある、地縁の幻想には、加担しかねるところなのです。
あまりも、地縁を媒介にした、「おらがえらい高い意識」というのは、不健康であり、前にあった「県民ショー」と同様で、笑い話のうちならいいが、度を過ぎれば、愚かしく有害なものですね。そういえば、旧長州人(山口県民)は、旧会津(福島県の一部)にいけば、あらゆる場合で敵視される、という逸話(どうも本当らしい)があったところです。
一時はやった、「アメリカ人ジョーク」とか、「イギリス人ジョーク」、「日本人ジョーク」に至るまで、ときに笑ってやる努力も必要かもしれません(当たっている場合は、お互い、腹は立つが)。
嗤ってやれば、理不尽、不合理に対処する術はあるかも知れない。
しかし、現実的な脅威である、南鮮、北鮮、中共の、露骨で、醜悪な、政治的他国民族蔑視政策は、私たち日本国民は、決して許すわけにはいかないが。
いずれにせよ、国民は、おごり高ぶった貴種は嫌い、他国の腐った独裁者も、思い上がった民族主義者も嫌い、間違いなく、謙虚で、人格者であり続ける貴種のほうを好むでしょうから、今上陛下の下で、「われわれは皆平等」と言っていたほうが、ずいぶんましだし、争いも少ないのかもしれません。
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