天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

「子どものための精神医学」(滝川一廣著)(「ショートピースの会」の活動に触発されて)について

2018-07-27 21:01:48 | 読書ノート(天道公平)
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上記が、「発達の分布図」となります。

 このたび、勧められて、また、必要があり(「ショートピースの会」の定例会に参加させていただきました。その際、晴れて滝川先生が出席をされたわけです。)、上記の本を読みました。
 医学書院という専門的な出版社の本であり、典型的な文系である私とすれば、少しちゅうちょしたわけですが、決して「専門白痴(これは差別語か?)」ではない、滝川先生の他の著書も知っていたので、このたび、読ませていただきました。
 昨年(2月)出版以来、すでに、専門書として異例の8刷まで推移しているとのことであり、また、出席した方に、優れた著作物に与えられる高名な賞を受賞されているとも聞きました。

 この本について、詳しそうな友人にもいろいろ聞いてみましたが、結果から言えば、大当たりであり、久しぶりに興味深い本を読ませていただいたという気持ちです。

 お定まりに、世代論から始めてしまいますが、滝川先生は、団塊世代の方で、われわれポスト団塊世代からすれば、いささかけむったい世代でもあり、友人と語り合っても、結構、それに対する批判は厳しいところがあります。
しかし、私たちが、親・教師以外に、教示、訓致を受けたのは、この世代の方々であり、人にもよりますが、敬愛の情がないわけではないのです。

 私が想定する「どうしようもない」団塊世代といえば、どうしても70年安保(政治の時代)の影響下にあるわけであり、その混乱期を巧妙にすり抜け、いつの間にか「一流企業」の朝日、毎日、東京新聞、TBSなどの新聞・放送局の幹部職員にまでのし上がり、他国に対する追従のため、右肩上がりの時代に散々、駄文、駄報道を繰り返しました。無思考のためか、ファッションとしての反権力ポーズで、世情の動き(現実)から浮き上がり、その後も、一貫して、大多数国民の利害に対する反動行為に終始し、日本国政府が果たすべき国民の為になすべき仕事をおとしめ、妨害してきた、一連の恥知らずたちを指します。
 例の「従軍慰安婦虚偽報道」で、朝日新聞社長がお詫び会見をした際、私が見ていた限り、彼が謝罪した内容は、私が予測した「明らかな虚偽報道で歴史的にも現在をもその名誉と信用を傷つけたわが日本国の全国民大衆にお詫びした」のではなく、彼の言い回しを聞いていると、駄新聞、朝日新聞の読者のみに、「表向きに恥をかいたことを」と謝罪したのですね。
 それが証拠に、性懲りもなく、英訳で、虚偽の「性奴隷」報道を外国に垂れ流し(売国・利敵行為)、二重の意味で日本国民大衆を侮辱し、植民地サヨクの本領を発揮してくれます。
 つくづく、人間存在というのは、教育(どうもそれは全く役に立たない。)や教養を越えても、どこまでも卑しく、下衆になれるものですね。これは、私たちが注意を払うべき、人間存在についての、重要な認識です。

 例外として、誰にでもある「若気の至り」(「青春の蹉跌」でもいいです。)による、個人的に訪れた手痛い社会的な体験(?) によって、挫折感や、敗北感、無力感、他者及び自己に係る疑義と失望の思い、その「直接体験」や「思想的契機」を、その後の自分の人性の教訓として、就業後の職責に繰り込み、研究職になったり、不可避に展開して行った人たちは、当然存在するにせよ、私に言わせれば、希なところです(そして、残念ながら私たちの世代(1955年生まれ前後)には特筆するような人物はほとんどいない。)。

 先の、悪い代表は、私が想像するだけでも、前述した朝日新聞記者とか、厳しく指弾された先の安保法制反対デモ参加の似非知識人(敵ながらはかないものだった。彼らは晩節になって、バカさ加減をまたさらした。)とか、たくさんおり、他にも「全共闘」礼賛派(さすがに今は居ないか?)とか、数多く、「早く死ねばいいのに」と友人とはなすと、「俺もそう思う」、と同意します。

 閑話休題、このたびは、敬愛できる全共闘世代の一人について言及します。
 この本は、著者のあとがきで触れられているとおり、その執筆の動機付けとして、まず「看護のための精神医学」(中井久夫著)の著者の恩師の中井先生に、子どものための精神医学の原理論がない、君に書いて欲しいという意向があった、という話から始まっています。
もうひとつは、私の憶測ですが、著者のひそかな(?) 決意として、この本は精神疾患その周囲にかかるラジカル(根本的な)な理論書でありながら、平易に、しかし、周到な原理論を築きあげたい、それが同時に、専門家のみならず、普通一般の人々にも読め理解できる契機を与えたい、という、これは優れた、また、開かれた著作に必ず付帯する著者の覚悟です。
 その成果として、この本は、著者の、現在までの専門家としての経験や研鑽の累積とそれ以外の思想的な遍歴・営為を傾注した誇るべき達成であります。私は、つい、「普遍的に語れ」という、吉本隆明のあの言葉を思い出してしまいました。

 まず、扉に、著者オリジナルの、例の座標軸図表、X軸、Y軸にわたる交点Z軸の線グラフ(発達のベクトル)が描かれ、たてX軸が「認識の発達水準」、よこY軸が「関係の発達水準」と決められています。その中央に、0から始まるZ軸の点が著わすのが、個々の人間の現在、出生時から始まり、外部とせめぎあい、考え認識していく作業と、周囲に働きかけ関係を構築するその交点Zに、それぞれの現在(個々の実存・達成)があるという構図になっています。
 これは実に興味深い図式であり、うちの零歳児(3月の孫)から、現在の私まで、あらゆる人の内部時間と発達のその移り変わりが、明確に図式化されています。それこそ、今回の紹介者がいうところの、目うろこ体験との指摘が、よく理解できます。
したがって、Z点という集合点は、ゼロから始まり、その後われわれが周囲(外部)に働きかけ、自分の意識に繰り込みながら、「自己」というものを作り上げ、著者に言わせれば、その「(自己を含めた外部に係る)自己認識の発達水準」(以下「自己認識」という。)と「自己以外の外部との関係づけの意識の発達水準」(以下「関係意識」という。)は、相互を支えあうことなります(よく理解できます。)。
 いわば、その私たち個々の人間の思考の運動は、普遍的に言うならば、(個人の思惟を越えて)同時に人間存在の思惟の運動という誇るべき歴史と達成であると、考えられ、そして私たちが、唐突に、死んだ時点でそれが中断する、と、一枚の図表で、個々の全生涯が俯瞰できる仕組みになっています。「自己認識」と「関係存在」の交点として、われわれ個々の人間は存在しているという、実にまっとうな認識です。

 その、座標軸といえば、われわれの世代でいえば、「言語にとって美とは何か」(吉本隆明著)の、X軸、Y軸の図表を連想します。X軸は指示表出性(一般的な規範(意味)を指し示すもの)、Y軸は自己表出性(自己の情感・気持ちの強弱などを表すもの)を指し示すこととなり、その交点に、言語の表現というものがある、ということになります。たとえば、意味としての「海」と、個々の言語体験と情感をこめた「海」というものの統合として、ひとつの「ウ・ミ」という言葉が発語されるというように。

 誘惑に勝てず、私は、著者に、「言語美(略称)」との、その類比について質問してしまいましたが、「触発されています」という、回答を得ました。むしろ、あの本には、その展開上、さまざまな、上質な文学表現の例示が示され、大変興味深かった思い出があると述懐されます(私もご同様です。)。

 著者の凄いのは、その図表の交点が、ひたすら成熟し伸びていく右肩上がりの線グラフ(発達のベクトル)を標準(正統・自然)発達的なモデルとして考えて、それから多かれ少なかれ外れていくものとして障害を考える、また、ひとたび取り込まれた「自己認識」と「関係意識」の交点の位置は、個々の観念に折り込まれてその自然性に転化し、その後の自己の思惟の運動に取り込まれていく、という、人間の思惟(?) の運動というか、個々が不可避に負う観念世界のとめどもない進展・深化が想定されています(よく納得できます。)。
 また、具体的に言えば、そのバランスの良いモデルとして、中央に標準(正常発達のベクトル)が想定され、それからはずれる「関係意識」の発達が緩やか(遅滞する)なもの、あるいは「自己認識」の発達が緩やかなもの、あるいは双方が緩やかなもの、など、さまざまなケースがあり、その無数の点が面的存在として、アスペルガー症候群、自閉症などの症状が想定されているところです。その相互関連性と、発達全般にわたる著者の認識と、判断は、とても興味深いものです。
 これは、いわば、発見・発明に属するようなものではないのでしょうか。

 また、試みに、著者に教えていただいた、チャートで、ADHD(多動性障害)の判定テスト(WHOのICDテスト)を、チェックしてみると、私もかつて多動性障害ということになり、納得しました。そういえば、小学校の、一学年、二学年当たりは、先生の要監視のためか、最前列の学友より前の、突出した席に座っていた。学級経営に明らかに支障になる子どもであったろうと思われます。
 当時、手を打っていれば、もう少しまともになっていたかもしれないが(笑い)、時代の差異というか、予測できない恩恵というか、当時から、私たちもそれぞれそれなりの問題を抱えて、そして、私たちの現在があるのですね(いろいろ思いあたることがあります。)。

 会場から、自分の扱う全てのケースが、全部が全部、(時間の推移に連動していくかのように)深化・発達してはいかない、遅滞・退歩が、出はしないか、という質問がありましたが、個々の局面ではそう見えるかもしれないが、そうではない、と回答がありました(よく理解できます。)。

 ちょうど、うちの孫が、現在三月過ぎであり、ぼちぼち首がすわり、いわゆる、喃語(なんご:「あー」とか「うー」とかいう反応)が始まっています。
 実は三月以前も、話しかけると、にやっと笑い、意味のないような言葉(?) をしゃべることがあり、こちらを認識しているかと、思ったこともあり、つい、何度も構い、話しかけました。それこそ、発達段階での親の思い込み理解による一方的な優しい働きかけを、お定まりに、繰り返してきたわけです。
 現在では、妻がいう、いわゆる「立て抱っこ」(首が強くなったことを前提にした抱き方)でないと承知しなくなり、あちこちを歩かされます。止まると、彼は明らかに不満をあらわします。
 また、傍らのソファの上に放置しても、少し離れたこちらから話したり、身振りを交え交信すれば、先の三月以降始まるという哺語による受け答えや、手足をばたばた動かしつつ、機嫌よく反応します(こちらにそれがよく受感できます。)。
 上の、二歳半歳児についてもその、Z軸(現存在)地点がよく理解できるように思われます(そうすれば戦略が立てられますね。)。
 それは、器質的(肉体発達的)な発達と、精神的な発達、いわゆるX軸とY軸双方にわたる発達というのか、それが実感され、著者の指摘を傍証するようで、大変興味深いものです(こういうのをやはり目うろこ体験というのか。)。

 引き続き読み進むにつれ、この著者の理論も、ピアジュや、フロイトなど、西欧の理論や研究・達成を踏まえ、和洋のさまざまな理論を猟集し研究してきた結果であることが明らかにされていきます。同時に、その方法的な限界も、盛り込まれ、「米欧世界」を相手に、日本語の思考で、孤軍奮闘してきた成果がよく理解できます。

 当日は、参加者が大変多く、50人超であり、小児(?) 精神科医の方や、殊に、発達障害や、思春期のトラブルを抱えたケースワーキングや、カウンセリングをしている方が多く、当該、質疑応答も、具体的で、切実なやり取りが多かったところです。
 さすがに、滝川先生は、心療内科医をされているだけあって、その受け答えが優しく、直截な回答というよりは、迂遠なところから回答されることが多いように思われました。言葉のやり取りを大事にして、結論を急がないのですね。
 従前からも、著者の洋泉社の新書などで、すでに、例の図表などは、公開されていましたが、このたび、この本を通して読んで、改めて腑に落ちたところは多いところです。
 
 著者は、他にも、裁判などで争われた、知的障害者の引き起こした刑事事件や、精神遅滞・異常と思われる犯罪の加害者などにかかずらった中で、多くの事件に対し、精神科医として、精神鑑定なども行われ、また個々のケースについてその医学的・理論的(?) な検討など、その本分で活躍されています。
 それは別の著書の主題として扱うこととして、まずは、現在も、なお、思想・理論的にも変節のない、研鑽を怠らない、私たちの先輩・先駆者として、その営為にお礼を申し上げたいと思います。

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2 コメント

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ありがとうございます (由紀草一)
2018-07-28 21:22:34
 15日には遠いところお出でいただき、まことにありがとうございました。天道さんと個人的に、もっとお話しできればよかったのですが、それはまた別の機会がありましょう。
 滝川理論の驚嘆すべきところは、おっしゃる通りであろうと思います。それにつけても、鈍才である私としては、次のようにぼんやり考えてしまいます。ヒトは、精神的な発達の中で、モノを(どちらか言うと、単独の)モノとして認識する他に、「世界」の網の目の中にモノを位置づけ、それから(むしろ同時に)自分自身もそのように位置づけていく、という発想は、非常に魅力的かつ説得的ではありますが、どの程度に「科学的」であるのか、と。
 ま、科学的である必要なんて、ないんでしょうな。それ以上は進みませんし。

 ところで、しょ~と・ぴ~すの会には現在「記録」のページがあります。(「思想塾・日曜会」で検索してみてください。なぜか不正なURL入りコメントはダメ、とこのすぐ上に表示されました)
 ここで、今回の御記事を紹介してもかまいませんか? ご検討ください。
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了解です。 (天道公平)
2018-07-29 17:41:19
呼んでいただいてありがとうございました。
おかげさまで、目を開かせていただく体験をさせていただきました。次は、このたび教えていただいた師匠筋の中井久夫さんの著書に是非触れたいと思っています。
「科学的」にはピンときませんが、ひとまず、社会的役割は終えた(?)と思われる、私の「おまけ」の人性としては、「共生存在」としての人間存在の在り方というものに、小浜さん以上に惹かれ(失礼しました。)、気になって、その先が視たい、と思うのは確かです。
また、誘ってください。
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