京都市、錦小路商店街です。
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このたび(2018年)、好評であった「京都ぎらい」に続いて、「京都ぎらい官能篇」(井上章一著・朝日新書)が刊行されました。
当初の「京都ぎらい」刊行以来、著者はテレビなどで売れっ子になり、私も、ついあの顔と声を思い浮かべて、この本を読んでしまいました。
その中で、まずベストセラーになった自作を扱う書店のポップ広告で、「本当は好きなくせに・・・・」というキャッチコピーが心外だ、という言明があり、前作の著作で、それなりの覚悟(社会的孤立と仕事がなくなる恐怖など)と、決意性で臨んだ著者としては、周囲の反応の鈍さと心無さに憮然とするようで、私も、その気持ちはよく理解できます。
しかし、「京都・それにまつわる全て」それが嫌いかといわれると、それは、私も同様で、京都の自然、夏のむし暑い酷暑、冬の陰鬱な寒くて暗い自然はとても嫌いですが、その他の京都の自然・文物、すべておしなべて嫌いというわけではないのです。
また、大阪の知人の感想ということで、「京都も宇治市もおんなじやろ」という感想があった、という感想もあり、これには、ある程度同意します。私には、京都での、長年にわたる幼少児からの屈辱的な(?) ・成育・生活体験がないからでしょうか、読めばそうかよ、と思うのですが、京都市中心(洛中)と京都周辺の差異が不明確なのです。そんなものが、よそ者に分かるわけがない、なかなか、知識として同調することが難しいのです。
しかし、私、大阪も決して好きでないのですが、私の「大阪ぎらい」は次の機会にまわします。
このたびは、著者の思春期の体験(浪人時代)から始まり、1970年代初頭にかけ、まだまだ京都観光がブームになっていなかった頃、著者が歩きながら暗記勉強をやっていた際、(教養ある)一人旅のおねえさん(当時は女性のモラトリアム(猶予)時間は短いからお気の毒です。)から、地元の、古寺、名刹の案内を頼まれたというチャンスの話があり、「私もあやかりたかった」と、心底思いました。
そして、その後、晴れて京都大学に入学して、合ハイ(合同ハイキング)やダンスサークル(社交ダンスでしょう。)に明け暮れたという記述がありました。
わが体験と比して、私はそんな体験は全くなく、女っけはほとんどなく、周囲を見ても、ときにヘルメットをかぶるジーパン姿のむさいような女ばかりで、ひたすら、暗い青い春を過ごしていたわけです、そんな優雅な体験は皆無に近く(イケ面の友人たちを見ても、そんな男たちはほとんどいなかったし、決して特に私個人が劣っていたとは思えない。顔の造作は別にしても、当時はまだ髪もあり、痩せていた。)、それも「愉しいキャンパス生活でしたね、うらやましい」、と思うばかりです。
著者は、学生運動に触れた記載もないので、そんなくらい話は無縁のこととして、こちらとすれば、「洛中人(強い)>宇治市民(弱い)」と同様に、「京大生>私大生」という、京都の(?)鉄の規範の図式を連想するばかりです。合ハイなら、京大生なら、数多い京都中の女子大・女子短期大の女の子はついてきただろうし、地方から来た娘なら、「京都に住んではるんですか?すてきやわー!」と、京都弁で迫ってくれることがあるとすれば、京都ネイティブの男としては、対人(女性)関係の初期値も高かったろうに、と思われます。その意味で、あなたも、「結構めぐまれていたんじゃないの」と茶々を入れたくなるかも知れない。
どうも、ここは、演繹して、「洛中人(強い)>宇治市民(弱い)>地方人(もっと弱い)」という図式を想起すべきかも知れない。
まあ、「地方の人」なら、努力して京大へはいればいいじゃないの、という自己努力の欠如といえばそれまでですが、このような、社会的存在での個々の差異(そうとしか言い様がない。)は、あるいは差異に伴う各人の不公正、取り扱いの利益・不利益はいくらもあるところです。
それを言い出せば、運・不運から始まり、たとえお金、時間に余裕があるにしても、努力してもだめな人もいくらもあることなので、かといって、想定されたコースを外れた人が社会生活を送れないというわけでもないので、それこそ、それぞれの「知恵」の違いとして理解すべきものでしょう。
どうも、近代(東京遷都以降)以降、「東京」標準となったので、「京都一番」の勝手は変わったかも知れないところです。だから、何世紀をも越えた、出自に基づく洛中の方々の排他性と特権意識(洛中の家もちと借家人との社会的関係はまた全く違うということですが)は、これらは、新秩序に対する、おん念に根ざした感情(ル・サンチマン)なのかもしれません。
しかし、皆、選んで、東京都・京都府に生まれるわけには行かないので、われわれ「地方人」としては、著者の自宅から、学校通学、それもうらやましい限りです、というならば間違いない、ところです。みんな、それぞれ、おしなべて、それぞれ異なった人性をおくっているというところですが。
話を戻すと、著者の怒りの矛先は、「生まれた場所による理不尽な差別」ということであり、つまらない差別(区別)は、国境も時代も越え無限の公平・不公平の連鎖を生むので、仕様がない、最後はたまたま「生まれ」、だけで、過度に「思い上がるなよ」、とののしるぐらいですかね。
著者に拠れば、江戸っ子の夏目漱石(彼は伝統ある江戸の名主の出身らしい。)も、京都来訪時に、京都人をバカにしていた、という記載もあるので(著者も地元びいきでどうもなんとなく腹立たしいらしい。)、京都人のこの感覚(著者を含む。)も、先のルサンチマン、東京に首都をうばわれた、京都人の、目下(と思われるもの)への、優越感で保証するという、不健康な心の動きなのでしょうか。
私の例を引けば、京都に住んでいたときは、「東京のやつらに負けてたまるか」、と思っていましたので、今思えば、「おらが正義」は、バカらしく、愚かしいものであり、また、その反面、自分の居住地や、その環境を賛美し、また過剰に執着(?)するのも、実は、根強い、健全な心の動きかもしれません。
ということで、「官能篇」には全く触れておりません。
先に述べた、桂離宮の建築様式を真似た(?) 町家(まちや)が、現在は「角屋(すみや)もてなしの文化美術館」という、町の美術館となっており、多くの人が訪れているそうです。
かつて、京都で、数奇屋つくりという建築様式は、近世ではお金持ちの妾宅であった、という指摘をした著者の原稿が、雑誌に掲載する際に、宮内省の検閲(?) で掲載許可(したがって写真が使えなくなる。)が降りず、差し止めになった、という意味の発言がありました。
京都在住の「表現者」としても、京都の洛中の有力者や、社寺、官庁など、その意向を過剰に意識せざるを得ず、なかなか、やりにくいらしい。
いわば現在の官庁の、禁忌の自主規制というか、伝統文化の貧困というか、古代からのおおらかな時代の、政権、為政者、それにまつわる女性たちの心の動きや秘密から、また近代以降の遊郭、女性との交誼(?) を含め、それを、きわめて強く禁忌の対象にしている、らしく、誰がそれを決めるか知らないが、硬直化した、つまらない、「想像力と識見の欠如」である、という認識を新たにしました。
歴史の改ざんなのか、隠蔽なのか、愚かしい話ですね。これも、宮内省官僚の自己満足なのか、つまらない話です。
いずれにせよ、著者は、この「官能篇」においても、一貫して、「京都ぎらい、しかし、(私の生まれて育った)嵯峨野と宇治は好き」というパターンで、自分の議論を進めています。
これはわれわれも、われわれの郷里は、仮にそこが鄙(ひな)であるにせよ、それぞれの実態を知ったら、「京都きらい、○○は好き」と思いながら、われわれの祖父・父のように、「ここが、日本国で、いや、世界中で、一番いい」と、それぞれ、さほどの根拠なく自慢した、郷土の、社稷、歴史、風土、気風を、称揚したほうが健全でありましょう。
どうも、つまらなくなったので、このあたりで、失礼させていただきます。
しかしながら、われわれ地方民は、先の東北大震災で、東京都住民のあまりに多くが、首都圏第一主義(先の東北大震災で、常日頃、電力・食料・労働力などあれほどお世話になっていながら、災害に際し、首都圏住民の多く(多寡は問わない。)は、被災地にろくに共感も支援もしなかった、その利己主義、自己中心主義)のあまりにも心無さと無慈悲な振舞いを見せ付けられました。心ある都民はなぜ、当時、その卑劣な自分中心主義をたしなめなかったのか。
わたしたち、地方に在住の日本国民としては、時に、東京都及び東京都居住住民の傲慢さに対し、その傲慢さを指摘・指弾する必要があるわけです。
それが、歴史的にも、現実的にも、代表的な地方都市としての京都府及び京都府民の役割りではないかと、思われるところです。
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このたび(2018年)、好評であった「京都ぎらい」に続いて、「京都ぎらい官能篇」(井上章一著・朝日新書)が刊行されました。
当初の「京都ぎらい」刊行以来、著者はテレビなどで売れっ子になり、私も、ついあの顔と声を思い浮かべて、この本を読んでしまいました。
その中で、まずベストセラーになった自作を扱う書店のポップ広告で、「本当は好きなくせに・・・・」というキャッチコピーが心外だ、という言明があり、前作の著作で、それなりの覚悟(社会的孤立と仕事がなくなる恐怖など)と、決意性で臨んだ著者としては、周囲の反応の鈍さと心無さに憮然とするようで、私も、その気持ちはよく理解できます。
しかし、「京都・それにまつわる全て」それが嫌いかといわれると、それは、私も同様で、京都の自然、夏のむし暑い酷暑、冬の陰鬱な寒くて暗い自然はとても嫌いですが、その他の京都の自然・文物、すべておしなべて嫌いというわけではないのです。
また、大阪の知人の感想ということで、「京都も宇治市もおんなじやろ」という感想があった、という感想もあり、これには、ある程度同意します。私には、京都での、長年にわたる幼少児からの屈辱的な(?) ・成育・生活体験がないからでしょうか、読めばそうかよ、と思うのですが、京都市中心(洛中)と京都周辺の差異が不明確なのです。そんなものが、よそ者に分かるわけがない、なかなか、知識として同調することが難しいのです。
しかし、私、大阪も決して好きでないのですが、私の「大阪ぎらい」は次の機会にまわします。
このたびは、著者の思春期の体験(浪人時代)から始まり、1970年代初頭にかけ、まだまだ京都観光がブームになっていなかった頃、著者が歩きながら暗記勉強をやっていた際、(教養ある)一人旅のおねえさん(当時は女性のモラトリアム(猶予)時間は短いからお気の毒です。)から、地元の、古寺、名刹の案内を頼まれたというチャンスの話があり、「私もあやかりたかった」と、心底思いました。
そして、その後、晴れて京都大学に入学して、合ハイ(合同ハイキング)やダンスサークル(社交ダンスでしょう。)に明け暮れたという記述がありました。
わが体験と比して、私はそんな体験は全くなく、女っけはほとんどなく、周囲を見ても、ときにヘルメットをかぶるジーパン姿のむさいような女ばかりで、ひたすら、暗い青い春を過ごしていたわけです、そんな優雅な体験は皆無に近く(イケ面の友人たちを見ても、そんな男たちはほとんどいなかったし、決して特に私個人が劣っていたとは思えない。顔の造作は別にしても、当時はまだ髪もあり、痩せていた。)、それも「愉しいキャンパス生活でしたね、うらやましい」、と思うばかりです。
著者は、学生運動に触れた記載もないので、そんなくらい話は無縁のこととして、こちらとすれば、「洛中人(強い)>宇治市民(弱い)」と同様に、「京大生>私大生」という、京都の(?)鉄の規範の図式を連想するばかりです。合ハイなら、京大生なら、数多い京都中の女子大・女子短期大の女の子はついてきただろうし、地方から来た娘なら、「京都に住んではるんですか?すてきやわー!」と、京都弁で迫ってくれることがあるとすれば、京都ネイティブの男としては、対人(女性)関係の初期値も高かったろうに、と思われます。その意味で、あなたも、「結構めぐまれていたんじゃないの」と茶々を入れたくなるかも知れない。
どうも、ここは、演繹して、「洛中人(強い)>宇治市民(弱い)>地方人(もっと弱い)」という図式を想起すべきかも知れない。
まあ、「地方の人」なら、努力して京大へはいればいいじゃないの、という自己努力の欠如といえばそれまでですが、このような、社会的存在での個々の差異(そうとしか言い様がない。)は、あるいは差異に伴う各人の不公正、取り扱いの利益・不利益はいくらもあるところです。
それを言い出せば、運・不運から始まり、たとえお金、時間に余裕があるにしても、努力してもだめな人もいくらもあることなので、かといって、想定されたコースを外れた人が社会生活を送れないというわけでもないので、それこそ、それぞれの「知恵」の違いとして理解すべきものでしょう。
どうも、近代(東京遷都以降)以降、「東京」標準となったので、「京都一番」の勝手は変わったかも知れないところです。だから、何世紀をも越えた、出自に基づく洛中の方々の排他性と特権意識(洛中の家もちと借家人との社会的関係はまた全く違うということですが)は、これらは、新秩序に対する、おん念に根ざした感情(ル・サンチマン)なのかもしれません。
しかし、皆、選んで、東京都・京都府に生まれるわけには行かないので、われわれ「地方人」としては、著者の自宅から、学校通学、それもうらやましい限りです、というならば間違いない、ところです。みんな、それぞれ、おしなべて、それぞれ異なった人性をおくっているというところですが。
話を戻すと、著者の怒りの矛先は、「生まれた場所による理不尽な差別」ということであり、つまらない差別(区別)は、国境も時代も越え無限の公平・不公平の連鎖を生むので、仕様がない、最後はたまたま「生まれ」、だけで、過度に「思い上がるなよ」、とののしるぐらいですかね。
著者に拠れば、江戸っ子の夏目漱石(彼は伝統ある江戸の名主の出身らしい。)も、京都来訪時に、京都人をバカにしていた、という記載もあるので(著者も地元びいきでどうもなんとなく腹立たしいらしい。)、京都人のこの感覚(著者を含む。)も、先のルサンチマン、東京に首都をうばわれた、京都人の、目下(と思われるもの)への、優越感で保証するという、不健康な心の動きなのでしょうか。
私の例を引けば、京都に住んでいたときは、「東京のやつらに負けてたまるか」、と思っていましたので、今思えば、「おらが正義」は、バカらしく、愚かしいものであり、また、その反面、自分の居住地や、その環境を賛美し、また過剰に執着(?)するのも、実は、根強い、健全な心の動きかもしれません。
ということで、「官能篇」には全く触れておりません。
先に述べた、桂離宮の建築様式を真似た(?) 町家(まちや)が、現在は「角屋(すみや)もてなしの文化美術館」という、町の美術館となっており、多くの人が訪れているそうです。
かつて、京都で、数奇屋つくりという建築様式は、近世ではお金持ちの妾宅であった、という指摘をした著者の原稿が、雑誌に掲載する際に、宮内省の検閲(?) で掲載許可(したがって写真が使えなくなる。)が降りず、差し止めになった、という意味の発言がありました。
京都在住の「表現者」としても、京都の洛中の有力者や、社寺、官庁など、その意向を過剰に意識せざるを得ず、なかなか、やりにくいらしい。
いわば現在の官庁の、禁忌の自主規制というか、伝統文化の貧困というか、古代からのおおらかな時代の、政権、為政者、それにまつわる女性たちの心の動きや秘密から、また近代以降の遊郭、女性との交誼(?) を含め、それを、きわめて強く禁忌の対象にしている、らしく、誰がそれを決めるか知らないが、硬直化した、つまらない、「想像力と識見の欠如」である、という認識を新たにしました。
歴史の改ざんなのか、隠蔽なのか、愚かしい話ですね。これも、宮内省官僚の自己満足なのか、つまらない話です。
いずれにせよ、著者は、この「官能篇」においても、一貫して、「京都ぎらい、しかし、(私の生まれて育った)嵯峨野と宇治は好き」というパターンで、自分の議論を進めています。
これはわれわれも、われわれの郷里は、仮にそこが鄙(ひな)であるにせよ、それぞれの実態を知ったら、「京都きらい、○○は好き」と思いながら、われわれの祖父・父のように、「ここが、日本国で、いや、世界中で、一番いい」と、それぞれ、さほどの根拠なく自慢した、郷土の、社稷、歴史、風土、気風を、称揚したほうが健全でありましょう。
どうも、つまらなくなったので、このあたりで、失礼させていただきます。
しかしながら、われわれ地方民は、先の東北大震災で、東京都住民のあまりに多くが、首都圏第一主義(先の東北大震災で、常日頃、電力・食料・労働力などあれほどお世話になっていながら、災害に際し、首都圏住民の多く(多寡は問わない。)は、被災地にろくに共感も支援もしなかった、その利己主義、自己中心主義)のあまりにも心無さと無慈悲な振舞いを見せ付けられました。心ある都民はなぜ、当時、その卑劣な自分中心主義をたしなめなかったのか。
わたしたち、地方に在住の日本国民としては、時に、東京都及び東京都居住住民の傲慢さに対し、その傲慢さを指摘・指弾する必要があるわけです。
それが、歴史的にも、現実的にも、代表的な地方都市としての京都府及び京都府民の役割りではないかと、思われるところです。
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