ようやく、今になって、市政を私物化する、下衆な市長に対して、対抗勢力が出てきたらしい。
それはそうだろう。形式的に、七月に、議会を開き、シャンシャン大会で終了し、来年の3月に、開学するというのだから、あまりにも、市民をバカにした話だ。
市民不在の、利権市長は、泥臭かろうが、恥知らずだろうが、当面の自己の野望と自己と仲間の利害と、利権のためには、なんでもするのであろう。また、できる人なのだ。
噂では、工事が間に合わないので、議決以前に、今年度の初めから、校舎工事に着手していたと聞いた。
事実なら、議会もなめられたものだ。そうだろう、議会も、市政を私物化する共犯者であろうから。当然、調べていただきたい。
こんな体たらくだから、市長追及どころか、先に、百条委員会を開いても、結果も出ない。
とんだ、茶番と、卑劣な話に、コロナの追い風もあり、市民のみならず、元職員としても、とことん疲れた。
それが、下衆な、おばはんの狙いだろう。
早く、リコールでも始めないと、周南市全体が、一部の利権屋に食い物にされますよ、というしかない。
市政をただす、有志たちの、意義ある戦いにエールを送りたい。
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以下、周南市の将来のために、私の、意見を記す。
① びっくり仰天、市の売国暴挙
周南市は、すでに、新南陽商工会議所の肝いり(謀略?)で、覇権国家中共の侵略先鋒のPAYPAY利用を、市の戦略として認めている。公金を扱う、南鮮主催のlineも同様である。
PAYPAY利用の勧奨は、新南陽商工会議所に属する、有力化学企業の、親南鮮、中共政策の支援の表れであろうと私は思っている。
在日韓国企業が主催する、PAYPAYを市の広報で宣伝する意味がどこにある。周南市にかかわりのある職員の一人として、恥ずかしいばかりである。
市広報に、あれだけ大規模に乗せれば、周南市は、PAYPAYと公務に関して、業務提携を行うかのように印象を受け、周南市のために、市民は、PAYPAYに信をおき、加入するではないか。信用供与というものである。市民をバカにするな。
なぜ、ポイントを掘り起こし、消費拡大を目指すなら、同時に、日本国のドコモポイントをも視野に入れない。ちゃんと、検討したのか。明らかに、機会均等と公平公正の原則に反する。
私は、売国企業は嫌いなので、PAYPAYには入らないが、日本国の、ドコモ、Dポイントカードには入っている。市も、消費・産業振興の業務提携をするなら、まず、国産企業をと、提案するべきだろう。
このPAYPAYポイントをめぐり、私は、周南市生え抜きの医薬品雑貨屋チェーン、地場のスーパーチェーンなどで、何度もいやな思いをした。挙句の果てが、セブンのナナコカードでの、PAYPAY利用である。大変不快である。
PAYPAY主催の、日本国に法人税を払っていない、韓国系在日企業、すなわちソフトバンクだが、なぜ私たちは振り回されなくてはならない。なぜ、そんな企業を、新南陽商工会(有力会員は大企業「東ソー」と聞いた。)は支援する。
明らかに、これは、市の商業行政の落ち度である。
それより以前に、こんな特定企業と、支援協定を目指すなら、市議会の議決が必要ではないのか。売国、新南陽商工会議所の言うままになるのに、議決はとったのか。
無考えに、個人情報の流出が取り沙汰される、lineの公金納入など認め、反国家団体と無自覚に、業務提携に手を染めていいのか。
外国人の、公有地取得の無審査を含めて、周南市は、ガードが甘すぎる。
バカなのは、政治家と、公務員だということになれば、恥ずかしくないのか(ここまでの経緯をみていればどうも恥ずかしくないのだろう。)。
徳大の、根拠のない授業料免除の外国人優遇策と併せて、私は、大変恥ずかしい。
恥ずかしい前に、「違法」であろう。
先に提案したが、志ある、市議会議員は、その実態(まず外国人・外国系企業による周南市の土地取得)を調査したらどうか。特に瀬戸内海の離島・僻すう地は、住民の意向は別にして、すでに中共のえじきになっていると聞いた。
正義の実現のために、調査する意味はあるのだ。そのための、権限ある行政機関として、議会はある。
何度も言うが、デフレ、コロナのダブルパンチで、貧しい庶民は、少しでも節約になるのなら、と、企業も選べずに、ポイント取得・購入に走る。
それは、仕方のないことだ。
貧民にとって選択の余地はないからだ。
それこそ、ユニクロが中共支配下のウイグルで奴隷労働によってつくられた、衣料を売っているといわれても、買うなといっても、貧民は、安い衣料を買う(ユニクロが安価かどうかは疑わしいが。)。
ユニクロは、中共覇権国家に加担したため、人権に厳しい米欧圏で干されたが、アシックス、パナソニックも同様である。日本国の、知的財産を、覇権国家に差し出して、自企業を貢ぎ物にして、売国、国民に背信する行為に加担してそれでいいのか。
ユニクロは、さすがにまずいと思ったか、柳井会長が、奴隷労働に組することはしない、と言明した。しかし、その後、アシックスも、パナソニックもそんな宣言をしていない。
どうも、疑わしい、東ソーも、そうでないなら、ウイグルジェノサイドを行う中共に加担しないと宣言すればいいではないか。
そんな、国境を超え、他国の厳しい、貧しい状況に付け込むのが、グローバリズムであり、巧妙にそれと結託した、中共覇権国家である。
何度もいうが、PAYPAYは、加入者の個人情報流出など、すでに多くの問題を起こしている。
どうも、中共の、日本進出の先兵なのだ。
それぐらいは、為政者として、いくら地方の政治家としても、承知おかなくてはならない。
何度も書いたが、サイレント・インベージョン(中共による静かな侵略)は、日本国で猛威を振るっているのだ。
まず、日本国で狙われたのは、ガードの甘い北海道だった。
しかし、それこそ、そんな他国侵略の先兵となるような企業を、市に導入しようとする、新南陽商工会議所というのはどのような団体なのだ。
全国の市町の中で、愚かしくも、職員採用の国籍条項まで撤廃した、狂った自治体もあるそうだが、そんな、覇権国家、反日国家に擦り寄り、売国行為は間違ってもしないで欲しい。
いくら何でも、住民(国民)の安心安全を踏みにじる、バカ市長、バカ議会だろうとしか、言いようがない。
ここでも、市長がバカなら、市民をも含め、皆バカになる、としか言いようがない。
おかげさまで、私も、守秘義務の枠が外れたので、真実を語れる。
今となれば、市長は、大多数市民の立場に立たない下衆な人間です、と、大手を振って言えるのです。
今までは、その事実が秘密なので、言えなかったのです(笑い。)。
職員とすれば、それは、守秘義務以前に、まともな行政職として、きちんとわきまえておく問題です。
幹部職員についても、こいつはバカ(そうでなければ腹グロか。)だな、と思っていたのが、このたびの騒動で、バカ(腹グロ)のうえに、下衆であることがわかったので、今後も、論評させていただく。
② 市町合併後の庁内の職員の気質に関連して(その退廃と危機について)
これについては、今まで、言及した人はいないと思われるので、このたび言及する。
忘れもしない。
平成15年に、周南市合併が行われ、すでに20年近い時間が経った。
試みに、それぞれの市町の職員の気質を月旦してみよう。
徳山市職員、お人よしで鷹揚(おうよう)、新南陽市職員、アグレッシブで、はしっこい、熊毛町職員、田舎者で、そのくせ目先の利害にはさとい、こすっからいのである、鹿野町職員、田舎者であるが、人の良さがある、しかし、町部の悲しさで、合併しなかったならどうなったかの自らの現実が見えない。
合併以来、それらが今までに、何度となく、悲喜劇を引き起こしたか。
新南陽市は、市長が後退するたび、例のスポイルズ・システムで、まるきり幹部職員がいれ変わってしまう。政治闘争を選挙の度ごとに繰り返すのだ。したがって、親分、子分の結びつきが強い。
全職員がそうであるとは私は言わない。もっと、広い視野で、自己利害以外の立場で自己の職責を果たそうとする人もいた。しかし、彼らは、生涯にわたり、傍流である。
要は、狭い世界で、出世できない人間は無価値だったのだ。そうなれば、権力闘争と、足を引っ張りあい、他人を引き摺り落とすことに腐心する。
一生、職場の人間関係は続くのだ。よどんだ水は腐るしかない。
私は、もともと徳山市以外の他の市からの採用であり、出世したいと本気で考えたことはなかった。それこそ、正義を実現するつもりで、公務員になったわけであるから。昔の徳山市は、今も忘れられない、とても風通しの良い場所だった。
徳山市以来の職員たちに聞いてみれば、徳山市は、周南市という共同幻想の、貢ぎ物になったと、市民にとっても、職員にとっても、何もよいことはなかった、この辺りは、口をそろえて主張する。安い合併の雰囲気の尻馬に乗った、徳山市が、とんだバカを見たのだ。
軽挙盲動が、良い結果になることは決してない。この度の、徳大公立化は、さすがに、新南陽出身職員でも愚挙(何人かに直接聞いたが)と思うと、言う。
新南陽市出身の幹部職員で、部下を殴る、ける、というとんでもない男がいた。
お人好しで、ナイーブな徳山市職員は、上司(同僚)からの暴言も、直接暴力というような、仕打ちを受ける、そんな経験はみじんもない。
その後、その事件でいじめ抜かれ、例のPTSDで、退職してしまった。
「あの程度のことで、甘い男だな」と、新南陽の職員たちは思ったらしい。
いなか者の、排他的で意地が悪い感覚は、なかなか、珍奇であり、慣れない。
こちとら、皆お人よしとしても、いくら何でも、それは目に余る。
初代、ポピュリズム市長の時代に、彼らは大活躍した。
市長は、民間企業から、転身したりするなど、癖のある男であった。
したがって、彼の好き嫌いで、裏表ある人間でも重用した。個人の、人物評価というものは、面白いものである。
常に、体育会系の、男を、自分の前後に侍らせ、ボディガードのように扱っていた。バカな話である。
その後、当該市長が落選した後、どうもたいした仕事もしなかった、次長待遇の2人を、次の市長は、降格させるかと思ったが、しなかった。
いずれにせよ、絶対的に数が少ないはずの、新南陽職員は、市長を頼った。「市長のところで決めよう」が、定型句だった。自己愛と権力志向の強い市長は、さぞ、うれしかったのだろう。
重ねて、バカな話だった。
さすがに、その傍若無人さがばれたのか、彼の市政は、一期で、終わった。
後日譚として、その延命した部下どもは、習い覚えた悪い癖があった。
決裁にきた職員に、稟議書を放り出す、文字とおり、放り出すのだ。
ポピュリズム市長に教わったらしい。気に食わないと、自分の気分で、持ちまわる職員の目の前で投げつけるのだ。そうして、稟議書を持ちまわる職員に拾わせる。
まともな、社会人には、胸の悪い話である。
それでも、この程度のパワハラでは、言われるように、民間企業目線では、程度が軽いのか?
民間企業のオーナーは、もっと胸糞悪いことを常習にしているのか?
私は、徳山市の職員時代から、徳義ある市長に仕えた。
彼は、自治省上がりの元官僚だった。彼は、直属の、部長たちに対しては厳しかった。どうも、どの部長たちも市長室に入るのは、大きなプレッシャーだったらしい。
しかし、平の職員に、そんな機嫌の悪さを、見せたことは一度もなかった。これは断言する。叱る人を選び、職員(同僚)のやる気を削がない、温厚で、礼儀正しい、筋目の通った人だった。
私たちは、それが当たり前だと、思っていたのだ。
市長は、引退後、請われて、児玉源太郎顕彰会の会長をされていた。周南市には、児玉神社があり、統治官時代の、児玉大将に私淑し、その恩義を忘れない、台湾の李登輝総統の顕彰碑がある。
私も、早世しつつも、明治期(グローバリズム時代)の国難に、軍人として、合理的な思考と徳義で、国民のために活躍された、大きな意義を持つ郷土の偉人を尊敬している。
当該小川市長は、敬愛される郷土の英雄に対し、岐山通りに、史跡整備をされた。
その後、死亡時に、自己資産も寄付され、立派な仕事をされたと思う。
尊敬される上司(同僚)、ロールモデルというものは、ちゃんとあるのだ。
そんな市長を知らない、現在の職員は、お気の毒なことである。
さて、自分の機嫌で、部下(決して部下ではない、同僚である。)に、稟議書を、目の前で、放り投げたり、粗暴な行為と、悪罵の言葉を吐いて、何の意味がある。
部下(同僚)は、自己の感情の制御もできない人に、どんなに正しいことを言われても、それが、身につくのか、そんなことは決してない。
彼らは、ひたすら恐れ、忌避し、骨のある職員は、自己の仕事をおとしめる、権力者の驕慢さに怒り、覚えていろよ、という反感しか持つまい。
初代ポピュリズム市長は、本当に、思い上がった、傲慢な男だった。自己の感情も抑えず、まともな背策どころか、職員の教育もできなかった、そのことだけで、大きな過失がある。
こんな上司に、根本的に、指導者の資格はない、引き続き、バカな追随者を生む、その後も、腐った歴史を刻むばかりである。
実務者としての行政職員を、理不尽に怒鳴りつけたといわれる、河野太郎もこんな男だったのかも知れない。十分にありうることである。
③ 管理職の偏重と職員の待遇の理不尽
現在、市職員は、極めて厳しい、差別取り扱いを受けている。
まず、再任用職員の取り扱いである。
部長職で退任したものは、ほかの職種に対し、非常に優遇される。
退職後も、課長待遇(年収700万程度)で、5年は在籍できるということである。
次長職以下は、再任用となっても300万以下の一律待遇、一年契約である。
優秀であるとかは何とかは、お角違いの話である。
部長になって行政貢献をしたとしても、大した仕事を(労の少ない)仕事をするだけなのに、まことに、理不尽な扱いである。
まえに、退職した建設部長が、再任用期間に、香港で客死したが、それまで技術職の、課長待遇雇用はなかった。それだけの労力をかける仕事はなかったからだ。
しかし、実力者であった(人事課に顔が利いた。)ので、彼より以降の部長は押しなべて、課長待遇で雇用してもらえることとなった。バカな話である。その後、何人もの、名誉課長が居るのだ。
もし、部長職に執着すると、言うべきことも言えない、嫌われたら、嫌がられたら、いくらも、その怯懦の言い訳ができる。その果てが、恥も知らない、底辺大学の公立化であったら、まことに、男として、みじめな話である。
職員の理由なき差別待遇は、職員に絶望と、上司に対する迎合を招来する。
要は、行政職として、退廃するのだ。
それこそ、合併し、時が経るにつれ、管理職と一般職員の間が、どうしようもなくかい離してきたのを強く感じる。
もともと、日本の社会は、個々の能力差があまり目立たない。
これだけ、実務を担う、行政職員が減らされると、指導者たちは、余裕がないので、部下の職務を管掌し、理解していない。
それは、知識ですら、ということである。したがって、いざという時には、最低自分の経験則で、問題処理を図るしかない。まことに、こわい話である。
昔なら、就職してから、意識的に勉強して、自己の不勉強をばねに、世間知、世間常識から、先端知識まで、埋めていけば良かった。まだ、ゆとりがあったから。
専門以外に、無知な人は多い、そうなれば、自己鍛錬と競合を怠れば、適格性を欠いた、管理職がいくらも出てきてしまう。
そうなれば、少なくとも、幹部は、理想を目指すものとして、管理職登用試験をすべきである。
試験が無理なら、その代替として、管理職を目指す人は、公的な資格を取得する経路を昇進の資格にすべきである。
そんな、努力を怠る人を、職員と別待遇に遇するべきでない。
そもそも、部下(同僚)の不信感と不満を買う。そもそも、正義を実現するために、公務員になった人がいないわけではない。
そうなれば、組織が腐るのだ。
自分で意識的に勉強すれば、他者の努力を評価し、謙虚になれる。思いあがることも少ないかもしれない。
部下も、少なくとも、その意欲、努力・成果には納得する。
人事が自前で、試験ができないなら、当然のことであろう。
せめて、行政書士でも、司法書士でも勉強して取ればいい。
そんな努力すら怠る人間を管理職にするな、と言いたい。
女性であるというだけで、登用するのは馬鹿げている。
バカな流行で、女性管理職というものが増えた。
無思考の、大衆迎合という奴だ。まったく、二代目、ポピュリズム、女市長の独壇場だ(初代も同様なことをやったが。性別で取り扱いを差別するのは、まったく、バカらしい。)。
大変申し訳ないが、市職員でも、女性幹部職員は、職員として、能力が劣った人が多い。それは、彼女たちに、研鑽を積む仕事が配分されなかったのか、自分で研鑽をしなかったのか、それが事実なので仕方がない。
仮に国政をみればよい、ろくな政策も語れない野田聖子氏に比べ、高市早苗氏が、政治家として優秀であるのは明らかである。もともと優秀な人なのだろうが、彼女が、懸命に自分のキャリアを磨き、政策通になったからだ。
現在の慣例で、部長職の、再任用職員は、課長待遇となっている。
それなりの合理的な理由がないのに、男女部長とも、退職後、ろくな実務も執行しないのに、課長職として採用するという、便宜供与する必要はないではないか。
それなら、すっぱりきって、若い給与の安い、行政職を採用する方が、はるかに周南市のためになる。
私が、若いころ、「私たちはチームである、上司、部下の差異はあるにせよ、組織として全員で職務を全うする責務とそして誇りがある」と、上司にいわれ、素直な私は、なるほどと思い、能力のない私は、それ以降、行政職として、表向き、自らの待遇と給与に文句を言ったことはない。
それが、行政職として、まっとうな考え方というものだ。
たまたま、私は、職員給与等を支払うセクションにいたことがあり、一般職員と、幹部職員の給与待遇の差のなさに驚いたことがある。かつての地方公共団体(ほぼ横並びです。)で、地方公務員に、幹部と一般職員に大きな給与の格差などということは、なかったところである(逆に、仕事中に 職員の組合にたむろする、不真面目なあの男になぜ給与を払う必要があろうか、と思ったことはある。)。
地方公務員というものは、天下り先も少なく、給与も、待遇も極端な差はない。
強いて言えば、退職後のポストの問題があるかも知れないが、いくつも、職を転々とできることは少ないものである。
しかし、管理職としての能力を、望まれて、他の機関で発揮し、人材を育成するのは望ましいことである。
上下の給与差の少なさを、そして、それを支えていたのは待遇にそれぞれ差が少なく、上と下との間に能力差が少ない、風通しの良い組織だった。いわば典型的な、かつての日本型社会だった。したがって、モラル(士気も倫理観もです。)も高く、人事で恵まれないとしても、優秀でまじめな職員も多かった。
再度、重複で、論じるが、私の退職時前後から、自分能力に見合う(?) 働く場所の少なさにいらだったのか、人事に働きかけ、部長職の職員に対してだけ、再任用の職場で、課長待遇の給与を用意することとなった。
まずは、再任用職員の取り扱いである。
部長職で退任したものは、ほかの職種に対し、非常に優遇される。
何度もいうが、退職後も、課長待遇(年収700万程度)で、5年は在籍できるということである(公明党の判断では下層労働者ということになるだろうが、貧しい地方公務員には魅力的であろう。)。
部長より下の次長職以下は、再任用となっても300万以下の一律待遇、一年契約である。
それは、優秀であるかどうかとかは、別の話である。
部長になって行政貢献をしたとしても、現在は、大した仕事を(労の少ない)仕事をするだけなのに、まことに、理不尽な扱いである。
まえに、退職した建設部長は、再任用期間に、香港で客死したが、実力者であった(人事課に顔が利いた。)ので、彼より以降の部長は押しなべて、課長待遇で雇用してもらえることとなった。
バカな話です。
なんの理由からなのか、市の人事担当幹部は、どうも、そのわがままを是認したわけです。
強いて言えば、同じ部長なら、同じ待遇をせよ、ということでしょうか。
人に言えないような、先例・慣例は作るなよ、ということです。
しかし、同じ部長でも、副市長や、監査委員になる部長は、ちゃんといるのです。それは、仕方のないことです。せめて、能力を悪用して、悪いことはするなよというしかない。
しかし、ほぼ、平職員と横並びで、同等・同質の仕事をするのに、退職後に既得権を行使するのは、それはないんじゃないのか、というのが、大多数一般職員の、偽らざる感想です。
再任用職員に、難度の高い、建築審査の仕事をさせながら、その待遇は決して改めない、という例も知っています。
この辺りは、会計年度職員(昔の臨時職員)が、人手の絶対的に足りない箇所で、安い給与で、仕事をさせることとよく似ています。
なぜ、自前の職員による、人的な手当てをしない。
対外的にも、よしんば、対内的にも、声の大きい人間の便宜は、はからない、のが、もともと、行政職の倫理コードであったはずです。
これは、私たちのよりよき先輩の伝統と良識を、平然と、虚仮(こけ)にするような暴挙です。
なぜ、幹部職員は、こんな誤った選択を選び、また同僚たちは是認するのであろうか?
人間ひとたび退職して、再任用ともなれば、ただの職員市民です。いざとなれば、正職員に頤使(いし)される身分かも知れない。
そのように気持ちをも切り替え、新任の行政マンとして先頭に立って働かなくては、何の意味もない、と思うわけです。
当該部長の後任が、業者との不適切な関係で、訴追されたが、実のところ、部長の職を守るのは、大変なことなのでしょう(皮肉)。
私は、銭金(ぜにかね)とか面子(めんつ)で仕事をしていなかったので、皆と同様に、平職員として窓口に出た。
その際に、気持ちの良い技術職の課長がいて、彼は、あたらしい仕事をやってみたいと、退職後、希望して、公民館主事になった。彼には、給与、待遇はどうでもよいのだ。職員としての働き甲斐が欲しい。
まことに、気持ちの良い男だった。
部長職に執着すると、言うべきことも言えない、嫌われたら、嫌がられたら、いくらも、言い訳ができる。
職員の理由なき差別待遇は、ついては、職員に絶望と、上司に対する迎合を招来する。
要は、行政職として、退廃するのだ。
私は、5年前に退職をし、再任用後、私は、希望して、自分の出発点の市民課の窓口において最前線で働きました。
私が現職だった昭和50年代とくらべ、客層も変化し、やりにくいと思ったことは何度もあります。
しかし、大筋のところで、市民は変わっていないと思われました。
政府の無策により、デフレが継続し、長引く景気低迷の中で、あるいは、コロナ性の、ストレスフルな日常の中で、お役所に来て憤懣をぶつけたい、というような気持ちはよくわかります。
しかし、あらゆる職業で等しいことですが、人はその職責を通じ、顧客や市民と、まず、一定の限度の中で、お互いにその良好な関係を維持し、結果を出すことが必要です。
社会人としての評価や、ひいては人間としての評価はその地点にあり、社会存在として、相互にその役割りを高めあい、お互いに尊重することが尊いのは、確かなことです。
④ 職員採用に対しての三親等内の血族の人数制限
田舎では、職員採用は、特別職、市長、議員などの草刈り場なのかもしれない(私は知らないが。)。
ただ、どうも、都会では、親子・親族で、市(都・府)が同一市などで職員というような話は、びっくり話であるようだ。
周南市は、誰の親族がどこで勤務しているとかは公開していない。
しかし、こんな話は、次第次第に、職員間にもれるものである。
職員が、就職し、自由恋愛(あるいは権謀術数)で、結婚して親族になるのは勝手である。
聞くところによると、元町部の職員たちは、結婚するとどちらかが辞めなければならなかった、ということだ。それ以前に、他市などからの職員採用はしないという話もあった。
さらに、勤務地以外の場所に住んではいけない、という内規(さすがに公にはできないだろう。)がある、というはなはだしいものもあったそうである。
したがって、行政職の伴侶を求めるものは、他市町の職員を求めた、ということである。
与太話はこれぐらいにしよう。
しかし、親族が多く、行政職なりなんなり、同一職種にいるというのは、好ましくないことが多い。
行政の、私物化につながりやすいし(法令による他の職の禁止規定はある。)、対世間の信用と信頼に対する疑義も生じる、それこそ本人の行政職としての意欲、何より私に思えるのは、親と同一の職場というのは、自己にとっていやではないのか。
ともあれ、周南市には、親子二代の同一職種、行政職というケースがとても多い。
それは、優秀な職員の確保という見地とは、矛盾しない。
親はダメだったが、こどもは良かった、というケースはあるからであり、その逆のケースもある。
しかし、これは機軸を持たなくてはならない。
それが、市の直接利害に関することだからだ。
現在まで、学科試験と、二度の面接で、優秀な職員がのこったはずである。
仲間内の冗談で、無能な職員が一人であれば、運が悪いで済む、しかし親族で、二人いれば、市に損害を与える、と言っていた。それが世間の巧まぬ常識かもしれない。
それであれば、工夫が必要である。
小説家、篠田節子さんは、夫婦で都の職員だった。彼女は、とてもいい小説家である。
夫が部長職になり、内規で、どちらかの退職を迫られたとき、あにはからんや、都の思惑にかかわらず、夫の方が退職した、それは夫婦の選択である。
対社会的には、夫婦とはそんな存在である。運命共同体であるから。改めて、同姓の紐帯の力を思う。
私の提案として、人事コードとして、「三親等内の血族、3人以上は認めない」、というのが一番いいと思う。この場合は、その血族の中に夫婦も含む。
本人に、就業意欲とか、能力がいくらあっても、けじめは必要である。
もし、地方公務員になりたければ、他市の、市民のために働けばよいではないか。
私も、出身市が、赤字再建団体に頽落したために、永い間職員採用募集がなく、他市の職員を志望して、働かせていただいた。
それは後付けでなく、正しく義を実現できる仕事につけて幸せだった。
他市の職員にも、その能力を発揮できる場と、教育を施してもらい、それに伴う、自負心のある仕事も、応分の自己努力もした、と思う。
実に、風通しの良い、よい職場だった。
その後、市としても、有為転変を繰り返した。
そして、また、現在、けじめを生み出す知恵も必要である。
私の職場に、娘三人市役所職員という人がいた。
そこまでであれば、準公務員になるのか、人もなげな、その言動には、目をひそめるものがある。
過度な、偏った人事採用は新たな問題を引き起こす。
彼女たちが、まともに働いているように祈るばかりである。
⑤ ペットボトルキャップの収集に係る笑い話
あるとき、市内のトーソーという(あの)有力化学企業が、ペットボトルのキャップを、社内で集めて、市庁舎に持参したというニュースが流れた。
このキャップは、後進国の、ワクチン(まさかコロナではあるまい。)の原資になるということで、ふた昔も前から、惰性的に集めていると、いう代物である。
周南市以外の、周辺の他市では、なぜそんなことを、行政がするのか、という素朴な疑問にかられ、とうにやめてしまった。
また、これが難物である。集荷に人手がいるし、ごみが入ることもある。袋も必要である。
自分がいいことをしているという、愚者の思い込みも激しい。無考えの、老人や市民が、大量に出先に持ち込む。
藤井市長は、変人だから、よその市はやめたけど、周南市はやめない、とてもうれしい、と言明した。
さすがに、有力企業である、キャップを通貨にして、甘い女だなと思いながら、なめ切って、恩を売った。
現金でなくて助かった、ちゃんちゃん、ということである。それをありがたがるのは、愚者どもの女王である。
市職員よ怒れ、いくらバカでも、公選職の市長だぞ。市長がなめられるのはいいが、お前たちは、周南市がなめられるのを、許していいのか。
だいたい、東ソー㈱というのが、腐った会社で、新南陽地区(今さら新南陽市とは言えないだろう。)のことしか、手を出さない。かってに、市町統合をやって、商工会議所は手つかず、夏祭りも、地域祭り(どうでもいいが)自分たちだけでやるという、悪しき企業城下町と、排他的な腐った企業文化の会社である。
その点、もともと徳山市に拠点をおく、大手化学会社トクヤマは違う。
コロナ下の際に、自社製品である、塩ビプラスチック遮蔽パネルのカウンター設置用を、いち早く、周南市に寄付してくれた。あれのおかげで、私たち、窓口の職員は、どれだけ助かったか。
コロナ下で、窓口来訪の市民たちは常にいらだっている。聞き取れない、聞き取ってもらえない、どれだけ、市民のストレスも高まったか。そのなかで、向こうのいうことも、こちらのいうこともちゃんとつながる、あのパネルは最強だった。これは、チャンと触れ、評価しなくてはならない。
企業として、あのパネルを、同時に販売し始めたことも当然のことだと思う。共存共栄、それが、近代以降の、健全な企業活動というものだ。
折には、ちゃんと金銭で、寄付をするし、「トクヤマ」という名は伊達でない。このたび、感心したのは、この企業だけである。
それはそうだろう。形式的に、七月に、議会を開き、シャンシャン大会で終了し、来年の3月に、開学するというのだから、あまりにも、市民をバカにした話だ。
市民不在の、利権市長は、泥臭かろうが、恥知らずだろうが、当面の自己の野望と自己と仲間の利害と、利権のためには、なんでもするのであろう。また、できる人なのだ。
噂では、工事が間に合わないので、議決以前に、今年度の初めから、校舎工事に着手していたと聞いた。
事実なら、議会もなめられたものだ。そうだろう、議会も、市政を私物化する共犯者であろうから。当然、調べていただきたい。
こんな体たらくだから、市長追及どころか、先に、百条委員会を開いても、結果も出ない。
とんだ、茶番と、卑劣な話に、コロナの追い風もあり、市民のみならず、元職員としても、とことん疲れた。
それが、下衆な、おばはんの狙いだろう。
早く、リコールでも始めないと、周南市全体が、一部の利権屋に食い物にされますよ、というしかない。
市政をただす、有志たちの、意義ある戦いにエールを送りたい。
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以下、周南市の将来のために、私の、意見を記す。
① びっくり仰天、市の売国暴挙
周南市は、すでに、新南陽商工会議所の肝いり(謀略?)で、覇権国家中共の侵略先鋒のPAYPAY利用を、市の戦略として認めている。公金を扱う、南鮮主催のlineも同様である。
PAYPAY利用の勧奨は、新南陽商工会議所に属する、有力化学企業の、親南鮮、中共政策の支援の表れであろうと私は思っている。
在日韓国企業が主催する、PAYPAYを市の広報で宣伝する意味がどこにある。周南市にかかわりのある職員の一人として、恥ずかしいばかりである。
市広報に、あれだけ大規模に乗せれば、周南市は、PAYPAYと公務に関して、業務提携を行うかのように印象を受け、周南市のために、市民は、PAYPAYに信をおき、加入するではないか。信用供与というものである。市民をバカにするな。
なぜ、ポイントを掘り起こし、消費拡大を目指すなら、同時に、日本国のドコモポイントをも視野に入れない。ちゃんと、検討したのか。明らかに、機会均等と公平公正の原則に反する。
私は、売国企業は嫌いなので、PAYPAYには入らないが、日本国の、ドコモ、Dポイントカードには入っている。市も、消費・産業振興の業務提携をするなら、まず、国産企業をと、提案するべきだろう。
このPAYPAYポイントをめぐり、私は、周南市生え抜きの医薬品雑貨屋チェーン、地場のスーパーチェーンなどで、何度もいやな思いをした。挙句の果てが、セブンのナナコカードでの、PAYPAY利用である。大変不快である。
PAYPAY主催の、日本国に法人税を払っていない、韓国系在日企業、すなわちソフトバンクだが、なぜ私たちは振り回されなくてはならない。なぜ、そんな企業を、新南陽商工会(有力会員は大企業「東ソー」と聞いた。)は支援する。
明らかに、これは、市の商業行政の落ち度である。
それより以前に、こんな特定企業と、支援協定を目指すなら、市議会の議決が必要ではないのか。売国、新南陽商工会議所の言うままになるのに、議決はとったのか。
無考えに、個人情報の流出が取り沙汰される、lineの公金納入など認め、反国家団体と無自覚に、業務提携に手を染めていいのか。
外国人の、公有地取得の無審査を含めて、周南市は、ガードが甘すぎる。
バカなのは、政治家と、公務員だということになれば、恥ずかしくないのか(ここまでの経緯をみていればどうも恥ずかしくないのだろう。)。
徳大の、根拠のない授業料免除の外国人優遇策と併せて、私は、大変恥ずかしい。
恥ずかしい前に、「違法」であろう。
先に提案したが、志ある、市議会議員は、その実態(まず外国人・外国系企業による周南市の土地取得)を調査したらどうか。特に瀬戸内海の離島・僻すう地は、住民の意向は別にして、すでに中共のえじきになっていると聞いた。
正義の実現のために、調査する意味はあるのだ。そのための、権限ある行政機関として、議会はある。
何度も言うが、デフレ、コロナのダブルパンチで、貧しい庶民は、少しでも節約になるのなら、と、企業も選べずに、ポイント取得・購入に走る。
それは、仕方のないことだ。
貧民にとって選択の余地はないからだ。
それこそ、ユニクロが中共支配下のウイグルで奴隷労働によってつくられた、衣料を売っているといわれても、買うなといっても、貧民は、安い衣料を買う(ユニクロが安価かどうかは疑わしいが。)。
ユニクロは、中共覇権国家に加担したため、人権に厳しい米欧圏で干されたが、アシックス、パナソニックも同様である。日本国の、知的財産を、覇権国家に差し出して、自企業を貢ぎ物にして、売国、国民に背信する行為に加担してそれでいいのか。
ユニクロは、さすがにまずいと思ったか、柳井会長が、奴隷労働に組することはしない、と言明した。しかし、その後、アシックスも、パナソニックもそんな宣言をしていない。
どうも、疑わしい、東ソーも、そうでないなら、ウイグルジェノサイドを行う中共に加担しないと宣言すればいいではないか。
そんな、国境を超え、他国の厳しい、貧しい状況に付け込むのが、グローバリズムであり、巧妙にそれと結託した、中共覇権国家である。
何度もいうが、PAYPAYは、加入者の個人情報流出など、すでに多くの問題を起こしている。
どうも、中共の、日本進出の先兵なのだ。
それぐらいは、為政者として、いくら地方の政治家としても、承知おかなくてはならない。
何度も書いたが、サイレント・インベージョン(中共による静かな侵略)は、日本国で猛威を振るっているのだ。
まず、日本国で狙われたのは、ガードの甘い北海道だった。
しかし、それこそ、そんな他国侵略の先兵となるような企業を、市に導入しようとする、新南陽商工会議所というのはどのような団体なのだ。
全国の市町の中で、愚かしくも、職員採用の国籍条項まで撤廃した、狂った自治体もあるそうだが、そんな、覇権国家、反日国家に擦り寄り、売国行為は間違ってもしないで欲しい。
いくら何でも、住民(国民)の安心安全を踏みにじる、バカ市長、バカ議会だろうとしか、言いようがない。
ここでも、市長がバカなら、市民をも含め、皆バカになる、としか言いようがない。
おかげさまで、私も、守秘義務の枠が外れたので、真実を語れる。
今となれば、市長は、大多数市民の立場に立たない下衆な人間です、と、大手を振って言えるのです。
今までは、その事実が秘密なので、言えなかったのです(笑い。)。
職員とすれば、それは、守秘義務以前に、まともな行政職として、きちんとわきまえておく問題です。
幹部職員についても、こいつはバカ(そうでなければ腹グロか。)だな、と思っていたのが、このたびの騒動で、バカ(腹グロ)のうえに、下衆であることがわかったので、今後も、論評させていただく。
② 市町合併後の庁内の職員の気質に関連して(その退廃と危機について)
これについては、今まで、言及した人はいないと思われるので、このたび言及する。
忘れもしない。
平成15年に、周南市合併が行われ、すでに20年近い時間が経った。
試みに、それぞれの市町の職員の気質を月旦してみよう。
徳山市職員、お人よしで鷹揚(おうよう)、新南陽市職員、アグレッシブで、はしっこい、熊毛町職員、田舎者で、そのくせ目先の利害にはさとい、こすっからいのである、鹿野町職員、田舎者であるが、人の良さがある、しかし、町部の悲しさで、合併しなかったならどうなったかの自らの現実が見えない。
合併以来、それらが今までに、何度となく、悲喜劇を引き起こしたか。
新南陽市は、市長が後退するたび、例のスポイルズ・システムで、まるきり幹部職員がいれ変わってしまう。政治闘争を選挙の度ごとに繰り返すのだ。したがって、親分、子分の結びつきが強い。
全職員がそうであるとは私は言わない。もっと、広い視野で、自己利害以外の立場で自己の職責を果たそうとする人もいた。しかし、彼らは、生涯にわたり、傍流である。
要は、狭い世界で、出世できない人間は無価値だったのだ。そうなれば、権力闘争と、足を引っ張りあい、他人を引き摺り落とすことに腐心する。
一生、職場の人間関係は続くのだ。よどんだ水は腐るしかない。
私は、もともと徳山市以外の他の市からの採用であり、出世したいと本気で考えたことはなかった。それこそ、正義を実現するつもりで、公務員になったわけであるから。昔の徳山市は、今も忘れられない、とても風通しの良い場所だった。
徳山市以来の職員たちに聞いてみれば、徳山市は、周南市という共同幻想の、貢ぎ物になったと、市民にとっても、職員にとっても、何もよいことはなかった、この辺りは、口をそろえて主張する。安い合併の雰囲気の尻馬に乗った、徳山市が、とんだバカを見たのだ。
軽挙盲動が、良い結果になることは決してない。この度の、徳大公立化は、さすがに、新南陽出身職員でも愚挙(何人かに直接聞いたが)と思うと、言う。
新南陽市出身の幹部職員で、部下を殴る、ける、というとんでもない男がいた。
お人好しで、ナイーブな徳山市職員は、上司(同僚)からの暴言も、直接暴力というような、仕打ちを受ける、そんな経験はみじんもない。
その後、その事件でいじめ抜かれ、例のPTSDで、退職してしまった。
「あの程度のことで、甘い男だな」と、新南陽の職員たちは思ったらしい。
いなか者の、排他的で意地が悪い感覚は、なかなか、珍奇であり、慣れない。
こちとら、皆お人よしとしても、いくら何でも、それは目に余る。
初代、ポピュリズム市長の時代に、彼らは大活躍した。
市長は、民間企業から、転身したりするなど、癖のある男であった。
したがって、彼の好き嫌いで、裏表ある人間でも重用した。個人の、人物評価というものは、面白いものである。
常に、体育会系の、男を、自分の前後に侍らせ、ボディガードのように扱っていた。バカな話である。
その後、当該市長が落選した後、どうもたいした仕事もしなかった、次長待遇の2人を、次の市長は、降格させるかと思ったが、しなかった。
いずれにせよ、絶対的に数が少ないはずの、新南陽職員は、市長を頼った。「市長のところで決めよう」が、定型句だった。自己愛と権力志向の強い市長は、さぞ、うれしかったのだろう。
重ねて、バカな話だった。
さすがに、その傍若無人さがばれたのか、彼の市政は、一期で、終わった。
後日譚として、その延命した部下どもは、習い覚えた悪い癖があった。
決裁にきた職員に、稟議書を放り出す、文字とおり、放り出すのだ。
ポピュリズム市長に教わったらしい。気に食わないと、自分の気分で、持ちまわる職員の目の前で投げつけるのだ。そうして、稟議書を持ちまわる職員に拾わせる。
まともな、社会人には、胸の悪い話である。
それでも、この程度のパワハラでは、言われるように、民間企業目線では、程度が軽いのか?
民間企業のオーナーは、もっと胸糞悪いことを常習にしているのか?
私は、徳山市の職員時代から、徳義ある市長に仕えた。
彼は、自治省上がりの元官僚だった。彼は、直属の、部長たちに対しては厳しかった。どうも、どの部長たちも市長室に入るのは、大きなプレッシャーだったらしい。
しかし、平の職員に、そんな機嫌の悪さを、見せたことは一度もなかった。これは断言する。叱る人を選び、職員(同僚)のやる気を削がない、温厚で、礼儀正しい、筋目の通った人だった。
私たちは、それが当たり前だと、思っていたのだ。
市長は、引退後、請われて、児玉源太郎顕彰会の会長をされていた。周南市には、児玉神社があり、統治官時代の、児玉大将に私淑し、その恩義を忘れない、台湾の李登輝総統の顕彰碑がある。
私も、早世しつつも、明治期(グローバリズム時代)の国難に、軍人として、合理的な思考と徳義で、国民のために活躍された、大きな意義を持つ郷土の偉人を尊敬している。
当該小川市長は、敬愛される郷土の英雄に対し、岐山通りに、史跡整備をされた。
その後、死亡時に、自己資産も寄付され、立派な仕事をされたと思う。
尊敬される上司(同僚)、ロールモデルというものは、ちゃんとあるのだ。
そんな市長を知らない、現在の職員は、お気の毒なことである。
さて、自分の機嫌で、部下(決して部下ではない、同僚である。)に、稟議書を、目の前で、放り投げたり、粗暴な行為と、悪罵の言葉を吐いて、何の意味がある。
部下(同僚)は、自己の感情の制御もできない人に、どんなに正しいことを言われても、それが、身につくのか、そんなことは決してない。
彼らは、ひたすら恐れ、忌避し、骨のある職員は、自己の仕事をおとしめる、権力者の驕慢さに怒り、覚えていろよ、という反感しか持つまい。
初代ポピュリズム市長は、本当に、思い上がった、傲慢な男だった。自己の感情も抑えず、まともな背策どころか、職員の教育もできなかった、そのことだけで、大きな過失がある。
こんな上司に、根本的に、指導者の資格はない、引き続き、バカな追随者を生む、その後も、腐った歴史を刻むばかりである。
実務者としての行政職員を、理不尽に怒鳴りつけたといわれる、河野太郎もこんな男だったのかも知れない。十分にありうることである。
③ 管理職の偏重と職員の待遇の理不尽
現在、市職員は、極めて厳しい、差別取り扱いを受けている。
まず、再任用職員の取り扱いである。
部長職で退任したものは、ほかの職種に対し、非常に優遇される。
退職後も、課長待遇(年収700万程度)で、5年は在籍できるということである。
次長職以下は、再任用となっても300万以下の一律待遇、一年契約である。
優秀であるとかは何とかは、お角違いの話である。
部長になって行政貢献をしたとしても、大した仕事を(労の少ない)仕事をするだけなのに、まことに、理不尽な扱いである。
まえに、退職した建設部長が、再任用期間に、香港で客死したが、それまで技術職の、課長待遇雇用はなかった。それだけの労力をかける仕事はなかったからだ。
しかし、実力者であった(人事課に顔が利いた。)ので、彼より以降の部長は押しなべて、課長待遇で雇用してもらえることとなった。バカな話である。その後、何人もの、名誉課長が居るのだ。
もし、部長職に執着すると、言うべきことも言えない、嫌われたら、嫌がられたら、いくらも、その怯懦の言い訳ができる。その果てが、恥も知らない、底辺大学の公立化であったら、まことに、男として、みじめな話である。
職員の理由なき差別待遇は、職員に絶望と、上司に対する迎合を招来する。
要は、行政職として、退廃するのだ。
それこそ、合併し、時が経るにつれ、管理職と一般職員の間が、どうしようもなくかい離してきたのを強く感じる。
もともと、日本の社会は、個々の能力差があまり目立たない。
これだけ、実務を担う、行政職員が減らされると、指導者たちは、余裕がないので、部下の職務を管掌し、理解していない。
それは、知識ですら、ということである。したがって、いざという時には、最低自分の経験則で、問題処理を図るしかない。まことに、こわい話である。
昔なら、就職してから、意識的に勉強して、自己の不勉強をばねに、世間知、世間常識から、先端知識まで、埋めていけば良かった。まだ、ゆとりがあったから。
専門以外に、無知な人は多い、そうなれば、自己鍛錬と競合を怠れば、適格性を欠いた、管理職がいくらも出てきてしまう。
そうなれば、少なくとも、幹部は、理想を目指すものとして、管理職登用試験をすべきである。
試験が無理なら、その代替として、管理職を目指す人は、公的な資格を取得する経路を昇進の資格にすべきである。
そんな、努力を怠る人を、職員と別待遇に遇するべきでない。
そもそも、部下(同僚)の不信感と不満を買う。そもそも、正義を実現するために、公務員になった人がいないわけではない。
そうなれば、組織が腐るのだ。
自分で意識的に勉強すれば、他者の努力を評価し、謙虚になれる。思いあがることも少ないかもしれない。
部下も、少なくとも、その意欲、努力・成果には納得する。
人事が自前で、試験ができないなら、当然のことであろう。
せめて、行政書士でも、司法書士でも勉強して取ればいい。
そんな努力すら怠る人間を管理職にするな、と言いたい。
女性であるというだけで、登用するのは馬鹿げている。
バカな流行で、女性管理職というものが増えた。
無思考の、大衆迎合という奴だ。まったく、二代目、ポピュリズム、女市長の独壇場だ(初代も同様なことをやったが。性別で取り扱いを差別するのは、まったく、バカらしい。)。
大変申し訳ないが、市職員でも、女性幹部職員は、職員として、能力が劣った人が多い。それは、彼女たちに、研鑽を積む仕事が配分されなかったのか、自分で研鑽をしなかったのか、それが事実なので仕方がない。
仮に国政をみればよい、ろくな政策も語れない野田聖子氏に比べ、高市早苗氏が、政治家として優秀であるのは明らかである。もともと優秀な人なのだろうが、彼女が、懸命に自分のキャリアを磨き、政策通になったからだ。
現在の慣例で、部長職の、再任用職員は、課長待遇となっている。
それなりの合理的な理由がないのに、男女部長とも、退職後、ろくな実務も執行しないのに、課長職として採用するという、便宜供与する必要はないではないか。
それなら、すっぱりきって、若い給与の安い、行政職を採用する方が、はるかに周南市のためになる。
私が、若いころ、「私たちはチームである、上司、部下の差異はあるにせよ、組織として全員で職務を全うする責務とそして誇りがある」と、上司にいわれ、素直な私は、なるほどと思い、能力のない私は、それ以降、行政職として、表向き、自らの待遇と給与に文句を言ったことはない。
それが、行政職として、まっとうな考え方というものだ。
たまたま、私は、職員給与等を支払うセクションにいたことがあり、一般職員と、幹部職員の給与待遇の差のなさに驚いたことがある。かつての地方公共団体(ほぼ横並びです。)で、地方公務員に、幹部と一般職員に大きな給与の格差などということは、なかったところである(逆に、仕事中に 職員の組合にたむろする、不真面目なあの男になぜ給与を払う必要があろうか、と思ったことはある。)。
地方公務員というものは、天下り先も少なく、給与も、待遇も極端な差はない。
強いて言えば、退職後のポストの問題があるかも知れないが、いくつも、職を転々とできることは少ないものである。
しかし、管理職としての能力を、望まれて、他の機関で発揮し、人材を育成するのは望ましいことである。
上下の給与差の少なさを、そして、それを支えていたのは待遇にそれぞれ差が少なく、上と下との間に能力差が少ない、風通しの良い組織だった。いわば典型的な、かつての日本型社会だった。したがって、モラル(士気も倫理観もです。)も高く、人事で恵まれないとしても、優秀でまじめな職員も多かった。
再度、重複で、論じるが、私の退職時前後から、自分能力に見合う(?) 働く場所の少なさにいらだったのか、人事に働きかけ、部長職の職員に対してだけ、再任用の職場で、課長待遇の給与を用意することとなった。
まずは、再任用職員の取り扱いである。
部長職で退任したものは、ほかの職種に対し、非常に優遇される。
何度もいうが、退職後も、課長待遇(年収700万程度)で、5年は在籍できるということである(公明党の判断では下層労働者ということになるだろうが、貧しい地方公務員には魅力的であろう。)。
部長より下の次長職以下は、再任用となっても300万以下の一律待遇、一年契約である。
それは、優秀であるかどうかとかは、別の話である。
部長になって行政貢献をしたとしても、現在は、大した仕事を(労の少ない)仕事をするだけなのに、まことに、理不尽な扱いである。
まえに、退職した建設部長は、再任用期間に、香港で客死したが、実力者であった(人事課に顔が利いた。)ので、彼より以降の部長は押しなべて、課長待遇で雇用してもらえることとなった。
バカな話です。
なんの理由からなのか、市の人事担当幹部は、どうも、そのわがままを是認したわけです。
強いて言えば、同じ部長なら、同じ待遇をせよ、ということでしょうか。
人に言えないような、先例・慣例は作るなよ、ということです。
しかし、同じ部長でも、副市長や、監査委員になる部長は、ちゃんといるのです。それは、仕方のないことです。せめて、能力を悪用して、悪いことはするなよというしかない。
しかし、ほぼ、平職員と横並びで、同等・同質の仕事をするのに、退職後に既得権を行使するのは、それはないんじゃないのか、というのが、大多数一般職員の、偽らざる感想です。
再任用職員に、難度の高い、建築審査の仕事をさせながら、その待遇は決して改めない、という例も知っています。
この辺りは、会計年度職員(昔の臨時職員)が、人手の絶対的に足りない箇所で、安い給与で、仕事をさせることとよく似ています。
なぜ、自前の職員による、人的な手当てをしない。
対外的にも、よしんば、対内的にも、声の大きい人間の便宜は、はからない、のが、もともと、行政職の倫理コードであったはずです。
これは、私たちのよりよき先輩の伝統と良識を、平然と、虚仮(こけ)にするような暴挙です。
なぜ、幹部職員は、こんな誤った選択を選び、また同僚たちは是認するのであろうか?
人間ひとたび退職して、再任用ともなれば、ただの職員市民です。いざとなれば、正職員に頤使(いし)される身分かも知れない。
そのように気持ちをも切り替え、新任の行政マンとして先頭に立って働かなくては、何の意味もない、と思うわけです。
当該部長の後任が、業者との不適切な関係で、訴追されたが、実のところ、部長の職を守るのは、大変なことなのでしょう(皮肉)。
私は、銭金(ぜにかね)とか面子(めんつ)で仕事をしていなかったので、皆と同様に、平職員として窓口に出た。
その際に、気持ちの良い技術職の課長がいて、彼は、あたらしい仕事をやってみたいと、退職後、希望して、公民館主事になった。彼には、給与、待遇はどうでもよいのだ。職員としての働き甲斐が欲しい。
まことに、気持ちの良い男だった。
部長職に執着すると、言うべきことも言えない、嫌われたら、嫌がられたら、いくらも、言い訳ができる。
職員の理由なき差別待遇は、ついては、職員に絶望と、上司に対する迎合を招来する。
要は、行政職として、退廃するのだ。
私は、5年前に退職をし、再任用後、私は、希望して、自分の出発点の市民課の窓口において最前線で働きました。
私が現職だった昭和50年代とくらべ、客層も変化し、やりにくいと思ったことは何度もあります。
しかし、大筋のところで、市民は変わっていないと思われました。
政府の無策により、デフレが継続し、長引く景気低迷の中で、あるいは、コロナ性の、ストレスフルな日常の中で、お役所に来て憤懣をぶつけたい、というような気持ちはよくわかります。
しかし、あらゆる職業で等しいことですが、人はその職責を通じ、顧客や市民と、まず、一定の限度の中で、お互いにその良好な関係を維持し、結果を出すことが必要です。
社会人としての評価や、ひいては人間としての評価はその地点にあり、社会存在として、相互にその役割りを高めあい、お互いに尊重することが尊いのは、確かなことです。
④ 職員採用に対しての三親等内の血族の人数制限
田舎では、職員採用は、特別職、市長、議員などの草刈り場なのかもしれない(私は知らないが。)。
ただ、どうも、都会では、親子・親族で、市(都・府)が同一市などで職員というような話は、びっくり話であるようだ。
周南市は、誰の親族がどこで勤務しているとかは公開していない。
しかし、こんな話は、次第次第に、職員間にもれるものである。
職員が、就職し、自由恋愛(あるいは権謀術数)で、結婚して親族になるのは勝手である。
聞くところによると、元町部の職員たちは、結婚するとどちらかが辞めなければならなかった、ということだ。それ以前に、他市などからの職員採用はしないという話もあった。
さらに、勤務地以外の場所に住んではいけない、という内規(さすがに公にはできないだろう。)がある、というはなはだしいものもあったそうである。
したがって、行政職の伴侶を求めるものは、他市町の職員を求めた、ということである。
与太話はこれぐらいにしよう。
しかし、親族が多く、行政職なりなんなり、同一職種にいるというのは、好ましくないことが多い。
行政の、私物化につながりやすいし(法令による他の職の禁止規定はある。)、対世間の信用と信頼に対する疑義も生じる、それこそ本人の行政職としての意欲、何より私に思えるのは、親と同一の職場というのは、自己にとっていやではないのか。
ともあれ、周南市には、親子二代の同一職種、行政職というケースがとても多い。
それは、優秀な職員の確保という見地とは、矛盾しない。
親はダメだったが、こどもは良かった、というケースはあるからであり、その逆のケースもある。
しかし、これは機軸を持たなくてはならない。
それが、市の直接利害に関することだからだ。
現在まで、学科試験と、二度の面接で、優秀な職員がのこったはずである。
仲間内の冗談で、無能な職員が一人であれば、運が悪いで済む、しかし親族で、二人いれば、市に損害を与える、と言っていた。それが世間の巧まぬ常識かもしれない。
それであれば、工夫が必要である。
小説家、篠田節子さんは、夫婦で都の職員だった。彼女は、とてもいい小説家である。
夫が部長職になり、内規で、どちらかの退職を迫られたとき、あにはからんや、都の思惑にかかわらず、夫の方が退職した、それは夫婦の選択である。
対社会的には、夫婦とはそんな存在である。運命共同体であるから。改めて、同姓の紐帯の力を思う。
私の提案として、人事コードとして、「三親等内の血族、3人以上は認めない」、というのが一番いいと思う。この場合は、その血族の中に夫婦も含む。
本人に、就業意欲とか、能力がいくらあっても、けじめは必要である。
もし、地方公務員になりたければ、他市の、市民のために働けばよいではないか。
私も、出身市が、赤字再建団体に頽落したために、永い間職員採用募集がなく、他市の職員を志望して、働かせていただいた。
それは後付けでなく、正しく義を実現できる仕事につけて幸せだった。
他市の職員にも、その能力を発揮できる場と、教育を施してもらい、それに伴う、自負心のある仕事も、応分の自己努力もした、と思う。
実に、風通しの良い、よい職場だった。
その後、市としても、有為転変を繰り返した。
そして、また、現在、けじめを生み出す知恵も必要である。
私の職場に、娘三人市役所職員という人がいた。
そこまでであれば、準公務員になるのか、人もなげな、その言動には、目をひそめるものがある。
過度な、偏った人事採用は新たな問題を引き起こす。
彼女たちが、まともに働いているように祈るばかりである。
⑤ ペットボトルキャップの収集に係る笑い話
あるとき、市内のトーソーという(あの)有力化学企業が、ペットボトルのキャップを、社内で集めて、市庁舎に持参したというニュースが流れた。
このキャップは、後進国の、ワクチン(まさかコロナではあるまい。)の原資になるということで、ふた昔も前から、惰性的に集めていると、いう代物である。
周南市以外の、周辺の他市では、なぜそんなことを、行政がするのか、という素朴な疑問にかられ、とうにやめてしまった。
また、これが難物である。集荷に人手がいるし、ごみが入ることもある。袋も必要である。
自分がいいことをしているという、愚者の思い込みも激しい。無考えの、老人や市民が、大量に出先に持ち込む。
藤井市長は、変人だから、よその市はやめたけど、周南市はやめない、とてもうれしい、と言明した。
さすがに、有力企業である、キャップを通貨にして、甘い女だなと思いながら、なめ切って、恩を売った。
現金でなくて助かった、ちゃんちゃん、ということである。それをありがたがるのは、愚者どもの女王である。
市職員よ怒れ、いくらバカでも、公選職の市長だぞ。市長がなめられるのはいいが、お前たちは、周南市がなめられるのを、許していいのか。
だいたい、東ソー㈱というのが、腐った会社で、新南陽地区(今さら新南陽市とは言えないだろう。)のことしか、手を出さない。かってに、市町統合をやって、商工会議所は手つかず、夏祭りも、地域祭り(どうでもいいが)自分たちだけでやるという、悪しき企業城下町と、排他的な腐った企業文化の会社である。
その点、もともと徳山市に拠点をおく、大手化学会社トクヤマは違う。
コロナ下の際に、自社製品である、塩ビプラスチック遮蔽パネルのカウンター設置用を、いち早く、周南市に寄付してくれた。あれのおかげで、私たち、窓口の職員は、どれだけ助かったか。
コロナ下で、窓口来訪の市民たちは常にいらだっている。聞き取れない、聞き取ってもらえない、どれだけ、市民のストレスも高まったか。そのなかで、向こうのいうことも、こちらのいうこともちゃんとつながる、あのパネルは最強だった。これは、チャンと触れ、評価しなくてはならない。
企業として、あのパネルを、同時に販売し始めたことも当然のことだと思う。共存共栄、それが、近代以降の、健全な企業活動というものだ。
折には、ちゃんと金銭で、寄付をするし、「トクヤマ」という名は伊達でない。このたび、感心したのは、この企業だけである。
記事に書かれていることは、誠に的を得た見解で、深淵ほ見抜いておられます。
願わくば、現役の時にあなた様のような上司に巡り合いたかった。
今の組織は、何が正義か、何がフェアプレイかわからないほど麻痺しています。
実は、今回で、周にゃん市は、止めるつもりでしたが、引き続き、折に触れ、論評したいと思います。
徳大生の諸君は、四回生になっての退学が非常に多い、自己の将来に夢が持てないわけです。公立化して、地区学生が入れなくて、どうするのだろう。
自分の将来に絶望した、市職員が次々辞めれば、市はどうするのだろう?カスばかり残ってそれでいいのか、武蔵野市長にも劣らない、迷走、藤井律子氏は、今から、何をするのか、なかなか、興味深い話です。しかし、「絶望すること勿れ」は、まともな行政職の王道です。お互いに、頑張りましょう。
きっと他の職員もこのブログを読み、勇気をもらっている人がいると思います。
頑張ってください!!
先ごろから、体調を崩し、自己ブログのテェックすらできずに、大変失礼しました。
ところで、元行政職として思うのですが、藤井律子のような、ポピュリズム政治家が、日本全国で排出しており、武蔵野市などよい例です。自己欲望の追求と利害をのみ求める傾向は、私の記憶ではあまりありませんでした。本来、地方政治家は、名誉や知性の職だったのですね。そして、思い上がって法を超え、国家問題とでもいうべき、移民問題、外国人採用、選挙権問題などを、無思考で平然と口にする。LGBT問題でも同様です。
徳大問題のように、地元利害を放棄して、名誉だけ求める。なんと無様で、醜い政治手法ではないでしょうか。それが、雰囲気だけで、重要な国政問題と、容易にリンクできる。知性などないのです。それを許すのは、行政職員の怠慢です。この混乱と、臆面のなさが、現在の周南市と、地方政治全体の問題ではないかと思います。
私は、他市から採用されましたが、徳山市民、周南市民の直接利害から、安心安全から、逃げた覚えはないと思います。無力であったことはその通りですが。しかし、何かを始めなければ、どうにもならないことは確かです。私たちの、心ある先輩が教えてくれたように、闘う手段はあろうかと思います。
引き続き、頑張ってみたいと思います。