今年も分葱を植えました。残念ながら、植え方が悪いと指導を受けましたが。雨が降り続けば、やはり、ネギが芽吹くことはないんじゃないのか、と思われます。
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歳若い友人の勧めで、新海誠監督の標記のアニメを見に行きました。
前作の「君の名は」というアニメの出来が良かったので、その後の、新海監督の新作アニメも見てみたい、と思ったわけです。
前作の「君の名は」については、先にブログでも触れましたが、かつての、多大な犠牲者を出した、東北大震災にかかわる多くの国民の切実な記憶と、もしそれが防げていたならば、という、切ない試み・仮想を背景につくられていました。
東京と被災地(設定では彗星の落下により町全体が破壊され巨大なクレーター状になった場所)に居住していた、そして遠く離れた東京に在住する、何かによってあらかじめ選ばれた一組の高校生のカップルの純愛(?) の物語を起点に、もしその時間の引き戻しが出来るならばという、哀切な、また最後は希望のある話が描かれ、メロドラマとしても、また、最期に救いがあるドラマとしても、大人にも十分に見ごたえのあるアニメでした。
そのあたりは、本来当初の「君の名は」は、ラジオドラマであり、個々の運・不運、偶然に引き回される一組の男女を描いた連作のメロドラマでしたが、その背後に、大東亜戦争でそれぞれの運命を翻弄された、大多数国民大衆の同情や共感が支持したことは明らかなところです。
後日、新海監督が、新作のインタビュー時に、旧作(「秒速5センチメートル」という三部作)での厳しい悲恋(?) というか、男女間の破局という結末)の方が作品としては優れていたのではないかという質問に対して、「今回の作品は、ハッピーエンドでなければならないと思った。」と答えており、私も、そのとおりだろうと思いました。
その大成功作に続いた作品とするならば、新海監督においては、このたびは分の悪い勝負であったかもしれません。
率直に言って、前作には及ばない出来でした。
8月下旬に、当該映画が封切られた際、行ってみようかどうだろうかと思いましたが、おっくうになり逡巡しましたが、テレビで特集の番組があり、ゲストで出た新海監督が、その制作意図として、「現在の危機としての「異常気象」の状況を語り、それに振り回される、関東圏(舞台はどうもそれしかないようだ。)に在住する主人公とその周辺の人間たちのドラマを描きたい」という話をしていました。
首都圏の「異常気象」というか、「異常気象」私には、それが、現在の危機として、あまりぴんと来ず、現在の若者たちにはそうであるのかと、「へー」と思ったばかりです。
地方は地方でやはり異常気象ではあるわけですが・・・。
というような心持ちでしたが、会場は、若いカップルたちというよりは、休日だったせいなのか、若い親子連れ(ただし、全て女児)が多く、おとなしく、画面に見入っていました。
それこそ「ロマンス」は低年齢化するのでしょうか?なんとなく納得してしまいます。
大変申し訳ないですが、簡単にあらすじを述べさせていただきます。
何年にもわたり、常時、東京都圏は、雨が降り続いています。
その東京都において、都下の島しょ部から家出してきた男の子が、アルバイトをしながら小学生の弟と二人で暮らしている身寄りのない女の子に出逢います。
男の子は、島の暮らしに厭いたのでしょう、昔の家出(都会で自己実現をしたい、というような)のパターンです。島に、彼の居場所がないわけではないようです。東京圏は、雨が降り続いたとしても、都市機能や、商業施設は生きていることとなっています。
相手の女の子は、病気によって母親を失った際に、廃ビルの屋上にあった、水神・竜神(でしょう)から、その不幸の代償でしょうか、「晴れ」をもたらす超能力を与えてもらいます。しかし、その奇跡の行使においては、やはり、代償が伴うことを示唆されます。
男の子と女の子は生活費を稼ぐために、局地的天気を晴れさせる、「お天気屋」を始めました。
現代ですね、HPを作成し、営業を始めます。このあたりは、愉快な展開です。
様々な人たちが、晴天を希望し、小幸福を手に入れます。そういえば、私自身、近年、晴れの日になれば、気持ちが晴れるような気がして、屈託なく、晴れた日を楽しめることは、とても貴重なことです。
映像として、お天気屋によって晴れた夜、旧東京タワーと、新東京タワーの間で、花火がうちあがるシーンがあり、なかなかすばらしいシーンでした。
少年がたまたま、ゴミ箱で拳銃を拾い、警察から追われるようになってから、運命は暗転していきます。少女が、実は15歳であることが判明し、幼い弟と一緒に、少年と同時に児相からも追われることとなり、逃避行が始まります(それでなくては、彼らの状況に危機が生じず、ドラマの狂言回しが展開しないようです。)。
彼らのドラマのカタルシスの直前に、彼女は、自らを犠牲に最後のお天気召喚を行い、代償として、異界に閉じ込められることとなります。
逃げ延びた少年は、ビルの屋上の神社から、異界(?) にダイブし、彼女を救い出します。
「君の犠牲で成り立つ晴れであれば、雨が永遠に続いてもいい」という決意を述べます。
そうして、二人で現実に回帰します。
それからというもの、雨が降り続き、東京圏は、埋立て前の江戸期に回帰するように、多すぎる雨によって、都心の多くは、水浸しになってしまいました。
それから、時間が経過します。
島に連れ戻され、高校を卒業した少年は、東京で児相の世話なのか、高校生になった彼女に会いに行きます。
雨ばかり降り、下町は水面下になってしまいましたが、先にお天気サービスを利用した独居のおばあさんも、「何とかなるものよ」と、今はマンションに住んでいます(「天気難民」とか出ないのだろうか。)。
それよりは、光合成が出来ない植物抜きで、都市部の食料をはじめ、経済活動の停滞により、都民の生活の維持と再生産が可能なのか、と思ってしまいます。
少年を支援してきた、怪奇現象ライターのおじさんも、今では、人を使う身です。雨が、間断なく降り続いても、幸福な未来は、実現可能であったということなのです。
降り続く雨、異常気象と列記されると連想してしまいますが、私は、先ごろの、心ある少女、スウェーデン人トウェンベリちゃんのエピソードをNHKテレビ、日曜夕方のこどもバラエティニュースで観ました。
「二酸化炭素放出は、全人類の危機に手をかすことになる」、という彼女の主張を、当該報道は「たった一人の(少女の)主張で世界が変革できる」と、喧伝し、盛り上げていました。
NHKの報道ってつくづくバカですね。一時代前の、西欧発の、「真実」を、護持・賛美するわけです。間違いなく、「洋魂洋才」(自国の文化・歴史・伝統を無視し時におとしめて、当該理念の本質検討もしていない、偏見、バイアスのかかった理念を信奉・迎合する、「植民地文化人」)の持ち主であり、まぎれもないバカです。
中共・アメリカ・ロシアとか、強国は、協定も、信義も、国家の利害や戦略のためなら、平気で踏みにじるわけで、誰もいうことを聞かない、核兵器の廃棄などと同様で空疎なスローガンであり、いつものように、バカで、お人よしの日本人などを、だましていればいいわけです。
こういう、古くは大航海時代から繰り返されている、グローバリズムという西欧発のダブルススタンダード論理で騙されるナイーブな後進国の国民、殊に、日本人を欺し続ける詐術を、なぜ、NHKは報道記者として摘発しないのか。少なくとも、NHKの運営受信料は、英語も出来ず、貧困で、お人よしの大多数の国民によってまかなわれている。
なぜ、大多数貧困国民の立場に立った、報道をしないのか。それは、報道者としての退廃ではないのか。
他国から、反論をくらい、涙ながら抗弁するトウェンベリちゃん、あなたの想像力以上に悲惨な情況はどこにでもあります。
「豊かであるはずの」日本国においては、バカの日本政府と、腐った財務省のおかげで、デフレが長引き、景気低迷により、国民全体が厳しい貧困状態におちいりました。
貧困により能力低下した親から、貧民の子弟は、まともな食事も与えられずに、食事贈与ポストからの配食を待っているような、そんな厳しい情況にあります。なんと愚かしく、恥ずかしい「戦後民主主義」の帰結なのか。
彼らの状況からいえば、二酸化炭素対策より、まず自分たちが自立して、「食っていける状態」にして欲しい、というでしょう。それが、まっとうな考えです。
彼らが、飢えるのは、日本国政府に、直接的な責任があります。
ただ、まっとうに世界の情況を考えれば、国家間の越えがたい格差や、各国民国家には、覆すのが困難な特権階級やそれを支えるシステムが厳然として存在しているので、それをまず認識・指摘し、ついでにということで、地球温暖化リスクを主張すべきでしょう。
あなたの家族が、あなたの思い込み、視野の狭さを善導していただくのが一番ですが、視野狭窄、考えの足りなさ(バカということです。)は、長幼、男女、国籍の区別なく、一定数存在するものでもあります。
つまらないことはおやめなさい、ちゃんとバイアスのかからないお勉強をしなさい、ということです。グローバリズムの首魁の一握りの富者によりもたらされた、大多数の深刻な貧困と絶望の解消がまず第一義の問題であるということで、そこに言及しない論理は、現在、何の意味もありません。
東京都圏の、異常気象が、地球温暖化の影響かどうか、監督は触れていません。さすがに、芸術家として、そんなつまらない理念と原因を想定することは出来なかったのでしょう。
しかし、間断なく降り続く雨で、国民の安心・安全な生活が、ついでに恋物語が支障なく営まれる、とは決して承服できません。
異界から生還した後、彼女は、警察・福祉の手により、彼は家出した家族のもとで、卒業まで過ごすというのは、ずいぶんな、ご都合主義ではないでしょうか。
私には、「異常気象」や苛酷な「自然」が敵とは決して思えません。
「自然」に働きかけ、改変し、人間存在に役立つように、働きかけて、類として生き延びてきたことが、現在までの、自然と、人間の付き合い方です。
それを、政治的に覆そうとするのは、反動そのものです。
自然現象や災害を奇禍として、政治・経済的に利用するそんな、卑劣で、狡猾な政治権力や経済権力も今世には存在します。
効率のよい、また、環境に悪影響を与得ることが少なく、他国の侵略にも強い、原子力エネルギーを使うのもいいでしょう(バカは反対するかも知れないが、トウェンベリちゃん、きっとあなたはその合理性を認識すると思っています。)。
新海監督、あなたの作品を、矮小化し、貶める意図はまったくありません。
この作品が、つまらない、政治的イデオロギーに流れることは、きちんと避けられています。
しかし、前々作、「言の葉の庭」の中で、雨の新宿御苑で、崩れかかった女教師と、男子生徒の出会いと心の交流と再生により、淡い恋の物語をつむいだ、あなたの優良な作品に比べて(その主題歌の「レイン」は、カラオケで、しばらく私の持ち歌になりました。)、この作品は粗雑であり、もう少しその深度と踏み込みが足りないのではないでしょうか。
新海監督のファンとして、次回作に期待したいと思います。
この作品を通じ、新海監督による、いつものように、都会とそこで営まれる人間の生活へのオマージュというべき、都会の街並みや通行人、都会に降る雨の描写は、何と言っても、美しいものです。
(補遺分)
このたび、台風19号の災禍により、お亡くなりになった方、けがや、その財産などに甚大な被害を受けられた方に、謹んで、お見舞申し上げます。
気候の変動は、私たちに、生き延びるために新たな努力を強いるところです。「国土強靭化計画」ではありませんが、今後、私たちは、財力と技術を結集して、災害に耐えきる、人間的な「自然」を構築するしかありません。
3.11を経て、また、このたびの被災を経たうえで、今後なすべき災害防止政策に対し、それに抗する、パヨク、公共事業反対論者は、反動で、恥知らずであることを、私たち大多数の国民は、この際深く認識すべきです。
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歳若い友人の勧めで、新海誠監督の標記のアニメを見に行きました。
前作の「君の名は」というアニメの出来が良かったので、その後の、新海監督の新作アニメも見てみたい、と思ったわけです。
前作の「君の名は」については、先にブログでも触れましたが、かつての、多大な犠牲者を出した、東北大震災にかかわる多くの国民の切実な記憶と、もしそれが防げていたならば、という、切ない試み・仮想を背景につくられていました。
東京と被災地(設定では彗星の落下により町全体が破壊され巨大なクレーター状になった場所)に居住していた、そして遠く離れた東京に在住する、何かによってあらかじめ選ばれた一組の高校生のカップルの純愛(?) の物語を起点に、もしその時間の引き戻しが出来るならばという、哀切な、また最後は希望のある話が描かれ、メロドラマとしても、また、最期に救いがあるドラマとしても、大人にも十分に見ごたえのあるアニメでした。
そのあたりは、本来当初の「君の名は」は、ラジオドラマであり、個々の運・不運、偶然に引き回される一組の男女を描いた連作のメロドラマでしたが、その背後に、大東亜戦争でそれぞれの運命を翻弄された、大多数国民大衆の同情や共感が支持したことは明らかなところです。
後日、新海監督が、新作のインタビュー時に、旧作(「秒速5センチメートル」という三部作)での厳しい悲恋(?) というか、男女間の破局という結末)の方が作品としては優れていたのではないかという質問に対して、「今回の作品は、ハッピーエンドでなければならないと思った。」と答えており、私も、そのとおりだろうと思いました。
その大成功作に続いた作品とするならば、新海監督においては、このたびは分の悪い勝負であったかもしれません。
率直に言って、前作には及ばない出来でした。
8月下旬に、当該映画が封切られた際、行ってみようかどうだろうかと思いましたが、おっくうになり逡巡しましたが、テレビで特集の番組があり、ゲストで出た新海監督が、その制作意図として、「現在の危機としての「異常気象」の状況を語り、それに振り回される、関東圏(舞台はどうもそれしかないようだ。)に在住する主人公とその周辺の人間たちのドラマを描きたい」という話をしていました。
首都圏の「異常気象」というか、「異常気象」私には、それが、現在の危機として、あまりぴんと来ず、現在の若者たちにはそうであるのかと、「へー」と思ったばかりです。
地方は地方でやはり異常気象ではあるわけですが・・・。
というような心持ちでしたが、会場は、若いカップルたちというよりは、休日だったせいなのか、若い親子連れ(ただし、全て女児)が多く、おとなしく、画面に見入っていました。
それこそ「ロマンス」は低年齢化するのでしょうか?なんとなく納得してしまいます。
大変申し訳ないですが、簡単にあらすじを述べさせていただきます。
何年にもわたり、常時、東京都圏は、雨が降り続いています。
その東京都において、都下の島しょ部から家出してきた男の子が、アルバイトをしながら小学生の弟と二人で暮らしている身寄りのない女の子に出逢います。
男の子は、島の暮らしに厭いたのでしょう、昔の家出(都会で自己実現をしたい、というような)のパターンです。島に、彼の居場所がないわけではないようです。東京圏は、雨が降り続いたとしても、都市機能や、商業施設は生きていることとなっています。
相手の女の子は、病気によって母親を失った際に、廃ビルの屋上にあった、水神・竜神(でしょう)から、その不幸の代償でしょうか、「晴れ」をもたらす超能力を与えてもらいます。しかし、その奇跡の行使においては、やはり、代償が伴うことを示唆されます。
男の子と女の子は生活費を稼ぐために、局地的天気を晴れさせる、「お天気屋」を始めました。
現代ですね、HPを作成し、営業を始めます。このあたりは、愉快な展開です。
様々な人たちが、晴天を希望し、小幸福を手に入れます。そういえば、私自身、近年、晴れの日になれば、気持ちが晴れるような気がして、屈託なく、晴れた日を楽しめることは、とても貴重なことです。
映像として、お天気屋によって晴れた夜、旧東京タワーと、新東京タワーの間で、花火がうちあがるシーンがあり、なかなかすばらしいシーンでした。
少年がたまたま、ゴミ箱で拳銃を拾い、警察から追われるようになってから、運命は暗転していきます。少女が、実は15歳であることが判明し、幼い弟と一緒に、少年と同時に児相からも追われることとなり、逃避行が始まります(それでなくては、彼らの状況に危機が生じず、ドラマの狂言回しが展開しないようです。)。
彼らのドラマのカタルシスの直前に、彼女は、自らを犠牲に最後のお天気召喚を行い、代償として、異界に閉じ込められることとなります。
逃げ延びた少年は、ビルの屋上の神社から、異界(?) にダイブし、彼女を救い出します。
「君の犠牲で成り立つ晴れであれば、雨が永遠に続いてもいい」という決意を述べます。
そうして、二人で現実に回帰します。
それからというもの、雨が降り続き、東京圏は、埋立て前の江戸期に回帰するように、多すぎる雨によって、都心の多くは、水浸しになってしまいました。
それから、時間が経過します。
島に連れ戻され、高校を卒業した少年は、東京で児相の世話なのか、高校生になった彼女に会いに行きます。
雨ばかり降り、下町は水面下になってしまいましたが、先にお天気サービスを利用した独居のおばあさんも、「何とかなるものよ」と、今はマンションに住んでいます(「天気難民」とか出ないのだろうか。)。
それよりは、光合成が出来ない植物抜きで、都市部の食料をはじめ、経済活動の停滞により、都民の生活の維持と再生産が可能なのか、と思ってしまいます。
少年を支援してきた、怪奇現象ライターのおじさんも、今では、人を使う身です。雨が、間断なく降り続いても、幸福な未来は、実現可能であったということなのです。
降り続く雨、異常気象と列記されると連想してしまいますが、私は、先ごろの、心ある少女、スウェーデン人トウェンベリちゃんのエピソードをNHKテレビ、日曜夕方のこどもバラエティニュースで観ました。
「二酸化炭素放出は、全人類の危機に手をかすことになる」、という彼女の主張を、当該報道は「たった一人の(少女の)主張で世界が変革できる」と、喧伝し、盛り上げていました。
NHKの報道ってつくづくバカですね。一時代前の、西欧発の、「真実」を、護持・賛美するわけです。間違いなく、「洋魂洋才」(自国の文化・歴史・伝統を無視し時におとしめて、当該理念の本質検討もしていない、偏見、バイアスのかかった理念を信奉・迎合する、「植民地文化人」)の持ち主であり、まぎれもないバカです。
中共・アメリカ・ロシアとか、強国は、協定も、信義も、国家の利害や戦略のためなら、平気で踏みにじるわけで、誰もいうことを聞かない、核兵器の廃棄などと同様で空疎なスローガンであり、いつものように、バカで、お人よしの日本人などを、だましていればいいわけです。
こういう、古くは大航海時代から繰り返されている、グローバリズムという西欧発のダブルススタンダード論理で騙されるナイーブな後進国の国民、殊に、日本人を欺し続ける詐術を、なぜ、NHKは報道記者として摘発しないのか。少なくとも、NHKの運営受信料は、英語も出来ず、貧困で、お人よしの大多数の国民によってまかなわれている。
なぜ、大多数貧困国民の立場に立った、報道をしないのか。それは、報道者としての退廃ではないのか。
他国から、反論をくらい、涙ながら抗弁するトウェンベリちゃん、あなたの想像力以上に悲惨な情況はどこにでもあります。
「豊かであるはずの」日本国においては、バカの日本政府と、腐った財務省のおかげで、デフレが長引き、景気低迷により、国民全体が厳しい貧困状態におちいりました。
貧困により能力低下した親から、貧民の子弟は、まともな食事も与えられずに、食事贈与ポストからの配食を待っているような、そんな厳しい情況にあります。なんと愚かしく、恥ずかしい「戦後民主主義」の帰結なのか。
彼らの状況からいえば、二酸化炭素対策より、まず自分たちが自立して、「食っていける状態」にして欲しい、というでしょう。それが、まっとうな考えです。
彼らが、飢えるのは、日本国政府に、直接的な責任があります。
ただ、まっとうに世界の情況を考えれば、国家間の越えがたい格差や、各国民国家には、覆すのが困難な特権階級やそれを支えるシステムが厳然として存在しているので、それをまず認識・指摘し、ついでにということで、地球温暖化リスクを主張すべきでしょう。
あなたの家族が、あなたの思い込み、視野の狭さを善導していただくのが一番ですが、視野狭窄、考えの足りなさ(バカということです。)は、長幼、男女、国籍の区別なく、一定数存在するものでもあります。
つまらないことはおやめなさい、ちゃんとバイアスのかからないお勉強をしなさい、ということです。グローバリズムの首魁の一握りの富者によりもたらされた、大多数の深刻な貧困と絶望の解消がまず第一義の問題であるということで、そこに言及しない論理は、現在、何の意味もありません。
東京都圏の、異常気象が、地球温暖化の影響かどうか、監督は触れていません。さすがに、芸術家として、そんなつまらない理念と原因を想定することは出来なかったのでしょう。
しかし、間断なく降り続く雨で、国民の安心・安全な生活が、ついでに恋物語が支障なく営まれる、とは決して承服できません。
異界から生還した後、彼女は、警察・福祉の手により、彼は家出した家族のもとで、卒業まで過ごすというのは、ずいぶんな、ご都合主義ではないでしょうか。
私には、「異常気象」や苛酷な「自然」が敵とは決して思えません。
「自然」に働きかけ、改変し、人間存在に役立つように、働きかけて、類として生き延びてきたことが、現在までの、自然と、人間の付き合い方です。
それを、政治的に覆そうとするのは、反動そのものです。
自然現象や災害を奇禍として、政治・経済的に利用するそんな、卑劣で、狡猾な政治権力や経済権力も今世には存在します。
効率のよい、また、環境に悪影響を与得ることが少なく、他国の侵略にも強い、原子力エネルギーを使うのもいいでしょう(バカは反対するかも知れないが、トウェンベリちゃん、きっとあなたはその合理性を認識すると思っています。)。
新海監督、あなたの作品を、矮小化し、貶める意図はまったくありません。
この作品が、つまらない、政治的イデオロギーに流れることは、きちんと避けられています。
しかし、前々作、「言の葉の庭」の中で、雨の新宿御苑で、崩れかかった女教師と、男子生徒の出会いと心の交流と再生により、淡い恋の物語をつむいだ、あなたの優良な作品に比べて(その主題歌の「レイン」は、カラオケで、しばらく私の持ち歌になりました。)、この作品は粗雑であり、もう少しその深度と踏み込みが足りないのではないでしょうか。
新海監督のファンとして、次回作に期待したいと思います。
この作品を通じ、新海監督による、いつものように、都会とそこで営まれる人間の生活へのオマージュというべき、都会の街並みや通行人、都会に降る雨の描写は、何と言っても、美しいものです。
(補遺分)
このたび、台風19号の災禍により、お亡くなりになった方、けがや、その財産などに甚大な被害を受けられた方に、謹んで、お見舞申し上げます。
気候の変動は、私たちに、生き延びるために新たな努力を強いるところです。「国土強靭化計画」ではありませんが、今後、私たちは、財力と技術を結集して、災害に耐えきる、人間的な「自然」を構築するしかありません。
3.11を経て、また、このたびの被災を経たうえで、今後なすべき災害防止政策に対し、それに抗する、パヨク、公共事業反対論者は、反動で、恥知らずであることを、私たち大多数の国民は、この際深く認識すべきです。
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