天道公平の「社会的」参加

私の好奇心、心の琴線に触れる文学、哲学、社会問題、風俗もろもろを扱います。趣味はカラオケ、昭和歌謡です。

55歳からのハローライフについて その4

2015-05-25 21:24:46 | 映画・テレビドラマなど
 良かったらよんでください。

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「55歳からのハローライフ」(村上龍原作)について その4
                                  H26.7.6
 平成26年7月5日分の、「55歳からのハローライフ」について引き続き書きます。
 今回は、「トラベルヘルパー」という題名です。
最初から、男の独白が続き、暑苦しいと思われた方も多いかも知れません。このように生きている人もあったのだ、と思った方がいいのかも知れません。
強いて弁護するならば、両親から遺棄され、失語症のようになってしまった少年時代の彼が、祖母の生業である海女小屋で、海女たちにかまわれ、安心して、限りなく饒舌にしゃべりだす、という設定があります。明るく、あけっぴろげに振る舞う祖母や海女たちに、母性のありどころと居場所(家族)を見つけた少年の喜びは、男としてよくわかります。
彼には、(年上の)女性が大変好ましく思え、その思慕はたぶん意識下に刷り込まれます。

アメリカの70年代のニューシネマで「真夜中のカウボーイ」というのがありました。娼婦の祖母と、馴染み客の男を父親として育ったジョン・ボイドが、祖母の死後に、お気楽に稼ぐため高級コールボーイを目指し、カウボーイの衣装できめ、田舎からニューヨークにでていく話です。今回の設定より、社会的にもっと厳しい設定かどうかは別にして、その主人公は、今回のドラマの主人公とどこか似通った雰囲気を持っています。
ジョン・ボイドの頭の中では、いつも、娼婦だが優しかった祖母の記憶と、父親代わりのカウボーイの男たちの記憶が、何度も何度もフラシュバックします。この記憶が、彼にとって唯一の家族の記憶であり、彼を救い、くつろぎ安心させることのできる環境なのです。私の若いとき見た映画でしたが、彼のぞっとするような深い孤独が、観るものを切実に打った記憶があります。彼は、ニューヨークで、ラッツオ(ネズミ)と呼ばれる詐欺師で嫌われ者のイタリア系の障害者の男(ダスティン・ホフマンです。)に出会います。ラッツオのねぐらのスラムの空き家を舞台に、彼よりもっと孤独でみじめなラッツオと徐々に友情をむすび、病気になった彼を親身に看病し、ラッツオの夢のマイアミへ向かうバスの中で、ラッツオに死なれるのです。ジョン・ボイドの、ぼー然とした顔が今も忘れられません。「また、一人になった」という表情が。(やっぱ、女性に受ける映画じゃありませんね。他にも、ジーン・ハックマンの「スケアクロー」(かかし)とかあったよね。この映画に関連して、おまけとして、今は亡き清水昶(しみずあきら)の詩をつけておきます。)

このドラマの主人公のトラック運転手という設定が、やっぱり似通っており、強くあこがれながらも、異性とのいきさつが刹那的で安定した人間関係(家族)を持てない、というのも彼らの生活史に共通して起因する部分もありそうです。
彼はインテリの女に弱く(よくあることです。)、自分にない、教養や、デリカシーのある彼女の物言いやしぐさにのぼせ上がってしまいます(これもよくあることです。)。相手はそれほどの美人でなくてもいいかもしれません(それほどいい男でなくてもいい、でもいいです。)男も女も、加齢や、それぞれのおかれた状況で、その垣根を容易に越えてしまいますから。
彼女と知り合った、古本屋から、彼女を誘い一生懸命アピールしましたが、そのうち、のめり込んだ男の詮索を迷惑に思い出した彼女は、うそを交え、強く拒絶します。
燃え上がった炎がなかなか消せないのは、老いも若きも、男は同じです。彼女を、家の前で待ち伏せていた男は、福祉サービス受けるため、難病の夫のために車いすを押す彼女をとうとう見つけます。彼女は、監護と生活苦と行き所のないその苦しい日常で、気分転換のために古本屋に通い、また男の誘いに応じたのです。そして、その姿を見て、男は、彼女の人性や日常をどうにかしようとすることは、どうにもならないことにようやく気付きます。
彼は現実とは、どうやら折り合える人です。人懐っこい人だし、世間話もできるし、異性とも、そこそこにはやっていける。しかし、女性が永続的な相手として選ぶかどうかは、また別のようです(あらゆる男に例外はありませんけど。)。
挫折した彼は、彼女のために夫を運ぶ代わりに、祖母などの良い思い出と一緒に、高齢者の旅行介護など介護サービスの運転手になることに決めます。
報われない孤独感を空白を胸に、そこに生きがいを、見出そうとするのです。
江戸時代は、多くの二男、三男は資産がないため結婚できず、良くて養子か、長男の家で、やっかい叔父とか言われ、片隅で生きていたといいます。そんな時代も確かにあったのです。
彼の場合は、運転手という資格と経験があったため、現代では、少しは自分の人性について、自己実現のための「選択の自由」があるとも言えます。
私たちは、妥協しながら相対的人性(自分の考えだけでは決して生きていけず周囲と折り合いながらの人性)を生きています。「自己実現の人生」とか、「自分探しの旅」(まだ言っているナイーブなやつがいる。)とか、お題目を言うだけでなく、まず将来に向けての戦略と、それに向けた実効ある個別努力がなければ、現在の自分を変更しようとしてもどうにもならないことは、かつて村上龍が「13歳からのハローワーク」とか、「盾(シールド)」とかいう絵本で、子供に対しても十分に論じてきたことです。
ところで、この番組のブログを見ていたら、視聴者はおおむねとても好意的なのですが(50歳代がとても多いです。)、前作の原田美枝子のドラマで、経済的な問題が大変重いのにあまりに軽く扱われており、離婚後の主婦が、アールグレイにはちみつを、というのはチャラチャラしてリアリティがない、とかかれてあり、なるほどごもっともと思いました。
誰にも言えない「男としての淋しさ、やるせなさ」には十分に同意はしますが、近親憎悪というのか、オヤジに素直に同情できない私を感じます(殊に団塊の世代の男は嫌いです。)。また、同様に女も孤独で、淋しくやるせないのも、また確かなことなのです。
次回(最終話、7月12日)は、「空を飛ぶ夢をもう一度」です。
このドラマの主役の男の顔が、私は好きです。(昔よく見た日本人らしい顔つきです。)
原作に拠れば、ちょっとつらいドラマかも知れないですが、是非、視てみてください。

 ( お ま け )
   亡清水昶(しみずあきら)さんは、大学時代にサークルの講演会に来てもらい、当時40歳前くらい、私は、21歳で、とても優しい人で、対等に相手をしてもらい、若者(=馬鹿者)なりに、色々感じさせてもらったことがあります。
山口県出身で同志社出身の現代詩人です。2011年5月物故されました。実兄は同
じく現代詩人の清水哲男さんです。以下の、無断引用は、あの清水昶さんが、当時のおだやかな笑顔で許してくれると思います。昭和57年(1982年)出版の「夜の椅子」という詩集です。

不 安 な 水  映画「真夜中のカウボーイ」のラッツオに

 街に出るなんて考えるのはよそう あそこは薄汚い若
 者たちと ぼくらの青春が埃をたてているだけさ 暗い
 喫茶店のカレーライスやスパゲティ それら<文明的メ
 ニュー>にうつむいて きみも故郷の水をのみたいと考
えていたはずだ

大都会の冬は寒い あくまで他人でしかない人間たち
が 孤独な冷気をまきおこしているためだ 常夏のマイ
アミが君の希望だったね ところでぼくは その丁度
うらがわあたりで考えていたものさ 生と死のイメジか
ら遠く 自由のうらがわで直立すべき人間の暗さについ
て・・・・・・

文明の光も影もまるでなかった 海苔とオカカを敷きつ
めた弁当が唯一の楽しみで 毎日やわらかくもみほぐす
新聞は 街の香りと無関係に 落とし紙として香りたかく
ひらひらとボットン式の深い便器の暗闇に舞い落ちてい
ったものだった あたりいちめん草と沈黙がひかってい
るだけのぼくの故郷の思い出さ だからいまでも思うん
だ 地べたにごろりと寝ることが本当の自由だなんてね
でも東京の地べたはひえやすいから 絶望的に自由を求
めて ぼくはときどき詩の中で寝ころんでみたりする

ぼくの中のニューヨークで 君はラッツオと呼ばれて
生きていた きみを演じたダスティン・ホフマンは単な
るきみの脇役さ きみつまり大都会のネズミ男よ ぼく
らはむろんまずしいけれど まだ目の中の女たちは白痴
的に美しい 生と死のイメジから遠く 彼女たちの曲線
は なにもない故郷の涼しさと一緒に揺れている

ラッツオと呼ばれたニューヨークの原住民よ 可笑しか
ったぜ 文学の中でこそ人間は自由になれるだなんて
不自由な足を一本ひきずって おまけに日々のジャラ銭
も不自由なくせに 銭こそすべてだと信じている相棒の
「真夜中のカウボーイ」に説教なんかするんだから で
も涙が出るほど嘲いながら考えたね ぼくのマイアミは
何処にあるって・・・・・

日本の詩人田村隆一は「不安な水」とぼくが呼ぶものを
「金色のウイスキー」だなんていっているよ でもちょっ
ぴり気に入った 金色のウイスキーがつくる金色のハイ
ウェイをぼくも毎夜長距離バスに乗っかって 夢のマイ
アミへと走っているからね 

きみはマイアミの海と女たちを夢みつつ 長距離バスの
中で夢のように死んでしまったけれど ぼくはそうはい
かないぜ 第一きみをみとった「真夜中のカウボーイ」
のような心優しい友人は一人もいないし 東京の武蔵野
の 文化的な長屋で滝のように歳をとりながらも 生と
死のイメジからも遠く 殺すことも殺されることも自由で
ある空間を まだ金色のウィスキーにながされながら
考える自由を持っている

街のきらいな ぼくは東京の原住民になりきりつつある き
みと同じように大都会の台所の闇にずっとうずくまるラ
ッツオさ 夢見がちのこのラッツオは 歩くことを忘れ
て しきりにジャンプすることだけ考えているけどね

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