引き続きよろしくお願いします。
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「55歳からのハローライフ」(村上龍原作)について その3
H26.6.29
平成26年6月28日分の、「55歳からのハローライフ」について引き続き書きます。
今回は、「結婚相談所」というテーマです。「熟年離婚」というタイトルが適正かもしれませんが、そうであれば視聴者の反発をくらいそうですね。
原田美枝子の主演で、脚本家も前回と一緒ですが、このたびはほとんどが女性の視点であり、難しいと思われたか、別の女性と共同脚本ということとなっています。今回も連作(?)のような形をとるようです。
このたびのケースは、経済的にはそれほど恵まれてはいない夫婦において、退職後の夫の行動がおぞましく(再就職がうまくいかず引きこもって、テレビに向かって怒ったり罵ったりする行動など)、耐えがたくなり、熟年離婚をし、寄与分としていくばくかの財産分与をしてもらい、パートタイムとして独立しようとしている元専業主婦の話です。その中で、彼女は経済的に恵まれない分を含め、将来に向けて、結婚相談業者を通じ婚活を始めているところです。夫の方は、十分みれんがあり、メールなどを通じ、謝りつつ連絡を取ってきますが、妻は応じません。
お見合いを繰り返すうちに、様々な中年男の本音がでてきます。結婚=性行為としか思わない男、マザコン男で亡妻の墓参りをさせた男、全て割り勘でタクシー代も割り勘にさせつり銭も取り込む守銭奴の男、IT従事者で他人の話を一切聞かない男、まさにパロディです。スープをズズっと音をさせてすする男、フォークを振り回したり、偉そうに大声で話す男、服装のセンスを含め、神経にさわり、女性に嫌われる男がたくさん出てきます。男の醜い姿がよく見えて、秀逸であり、男優が上手だし(素でいけるものね)、大変巧みな脚本と演出です。女性との共同脚本の成果が十分出ています。
最後の男は、余りつまらないことは言わず、聞くことは聞き、食事に誘い、山登りに誘い、カラオケに誘い、赤いバラのプレゼントで求婚する、という順序と常識を踏んだ交際をしてくれた人でした。しかし、その後、うちに来てみてくれ、という話となり、夜の無人の町工場につれて行かれ、私と息子たち夫婦と一緒に亡妻の替わりにここで働いて欲しい、と懇願されますが、迷った結果、結局、断ってしまいます。
職場のパートタイムの先輩(根岸季枝が素でやっています。)は、熟年離婚(55歳だったと思う。)した同僚を、(腹立たしくても結局離婚出来なかった自分に比べて)優しく揶揄するように見守っており、パート仲間全員で、韓国焼肉屋で、彼女が見合いをした、世の男どもを全員で罵倒していました(男の悪口はどうしてあんなに盛り上がるのでしょう)。
彼女(根岸季枝)は、最期のケースの話を聞いてふっと黙ってしまいました。「(誠実そうな男なのに)なぜ断ったの」と聞く彼女に、「だって、家で工場みたいに働いてくれって、私じゃないような気がしたの」と彼女は答えます。
根岸季枝は引き続き黙り込みます。そして、「悪いけど、(用事があるので)もう帰る」と帰ってしまいます。
たぶん、男にも女にも無意識に序列があります。自己愛とプライドと言ってもいいかも知れない。容姿、経済力、そしてまあコミュニケーション能力とか、これらは明らかに目に映ります。それが全てとは決して言いませんが、その序列の中で、自分を相対評価して、無意識に序列をつけ、現実と折り合いながら、男も女も現実を相対的に生きているのです。したがって、若いときは別にしても「無謀な」愛の試みは笑われるし、「随分ねー」とか、ひんしゅくの対象にも、嫉みの対象にもなるのです。婚活は、若いときも、年を取っても厳しく、つらいものです。根岸季枝は、誠実で、自分の夫より数段まさったような、最後の男を、平然と振った原田美枝子が許せなかった、一体私ってなんなんだろうと思った筈で、同時に、心の底では彼女の熟年離婚を「よく、やるよ」とも思っていた、決して悪い人ではないが、人間は幾多の感情の交点で、さまざま迷い、ぶれつつ、生きているのです。
彼女は、最後に、見合いパーティーに行くことにします。
男も女も磨きあげて、勝負服、勝負化粧でやってきます。
彼女はその雰囲気に耐え切れず、(私もたぶん駄目です。)、ホテルのバーで一人でワインを飲んでいると、一人ですすり泣いている、イケメンの男に出会います。彼女は生まれて初めて冒険をします。彼に、はちみつ入りのアールグレイを送るのです。受け入れた彼と話しはじめ、彼が何年越しに約束した彼女にすっぽかしを食ってしまったことがわかります。彼は、彼女に一緒に「ひまわり」(あのマルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンの出会いと別れの世紀のメロドラマです。若い人はお母さんに聞いてね。)を見てくれ、といいます。彼をふった彼女が、そのように言っていたのです。
これから先はおとぎ話なので関与しません。ホテルで一夜を過ごした彼女は、朝早く、彼に住所も告げずに出ていくのです。原作にもこのシチュエーションはあるのですが、誰にでも、こんなことは一遍くらいはある、という話でしょうか。(村上龍は本当は優しい人なので、付け加えたのかも知れません。なかったとしたら本当に淋しいことでしょうが。)
その後に、彼女は、元夫に会うことにしました。
夫は、復縁できるかも知れないと思い勇んでやってきます。必要であれば土下座もしたでしょう。言い寄る夫に彼女は答えます。「あの女性は幸せなんでしょうか」、公園のベンチで、先のドラマの吹雪ジュンが野良猫を抱き上げかわいがっています、犬は連れていず、どことなく淋しそうです。彼女は、前のドラマで、様々な行き違いの結果、結局夫と引き続き暮らすことを選んだ人です。その姿は、その後の、彼女の近況かもしれません。
「俺は本当に淋しかった」夫はここぞとばかり言い募ります。
彼女は、握手を求めます。「あなたと私は親であり、おじいさん、おばあさんでもあるのよ。これからも仲良くしましょう。(さようなら。)」、と。
悄然とした元夫は、バスで、力なく手を振りながら帰っていきます。
彼女は、本当の意味で「自由」を獲得したのだと思います(哲学クラスで扱った「近代人の自由」(ヘーゲル)です。詳しいことが聞きたい人は連絡してください。)。
それは、普遍的な、「選択する自由」です。これは、また「人間としての自由の条件」です。
主婦として残るのも、離婚して一人で生きるのも、自分で判断すべきであり、それぞれに苦しみと、悲しみと、屈託とあらゆるものが付きまといますが、少なくとも自分の選択と選んだ人性に対する満足感は生じるでしょう。こわがらずに、高みにある「選ぶ自由」を手に入れるには、同じく「ひとりで決める自由と痛みと引き受けるべき責任」も当然に生じるのです。
おめでとう、今日からあなたも自由になった、というべきかも知れません。
しかし、多くの人がその自由に耐えきれないのもまた現実です。
結婚相談所で、「もう少し続けてみます(後は自分で決めます)。」と彼女は宣言します。
この連作ドラマで、職場の女性が、「今回のドラマが初めて面白かった(興味深かった)。」と言っていました。確かにそうかもしれません。
与太話を少し。学生時代にわれわれにとっての自由とはどんなことだろうか、と議論しました。それは昼飯を食べるときに、カレーかラーメンかを決める程度の自由だと皆で笑ったことがあります。(高いAランチは食えないので)
今思えば、これも結構、本質的なことを言い当てていたなと、思います。だって、どんなに貧しい、つましい選択であるにせよ、どちらかを選べるのだから。
みんな、少しずつ幸福で、少しずつ不幸なのでしょう。(「誰も悪くはないのに、悲しいことはいつもある」、という中島みゆきの歌もありましたよね。)
次は、小林薫の、たぶん「男の思い込みと格闘」の話です。
7月5日を、乞うご期待ということで。
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「55歳からのハローライフ」(村上龍原作)について その3
H26.6.29
平成26年6月28日分の、「55歳からのハローライフ」について引き続き書きます。
今回は、「結婚相談所」というテーマです。「熟年離婚」というタイトルが適正かもしれませんが、そうであれば視聴者の反発をくらいそうですね。
原田美枝子の主演で、脚本家も前回と一緒ですが、このたびはほとんどが女性の視点であり、難しいと思われたか、別の女性と共同脚本ということとなっています。今回も連作(?)のような形をとるようです。
このたびのケースは、経済的にはそれほど恵まれてはいない夫婦において、退職後の夫の行動がおぞましく(再就職がうまくいかず引きこもって、テレビに向かって怒ったり罵ったりする行動など)、耐えがたくなり、熟年離婚をし、寄与分としていくばくかの財産分与をしてもらい、パートタイムとして独立しようとしている元専業主婦の話です。その中で、彼女は経済的に恵まれない分を含め、将来に向けて、結婚相談業者を通じ婚活を始めているところです。夫の方は、十分みれんがあり、メールなどを通じ、謝りつつ連絡を取ってきますが、妻は応じません。
お見合いを繰り返すうちに、様々な中年男の本音がでてきます。結婚=性行為としか思わない男、マザコン男で亡妻の墓参りをさせた男、全て割り勘でタクシー代も割り勘にさせつり銭も取り込む守銭奴の男、IT従事者で他人の話を一切聞かない男、まさにパロディです。スープをズズっと音をさせてすする男、フォークを振り回したり、偉そうに大声で話す男、服装のセンスを含め、神経にさわり、女性に嫌われる男がたくさん出てきます。男の醜い姿がよく見えて、秀逸であり、男優が上手だし(素でいけるものね)、大変巧みな脚本と演出です。女性との共同脚本の成果が十分出ています。
最後の男は、余りつまらないことは言わず、聞くことは聞き、食事に誘い、山登りに誘い、カラオケに誘い、赤いバラのプレゼントで求婚する、という順序と常識を踏んだ交際をしてくれた人でした。しかし、その後、うちに来てみてくれ、という話となり、夜の無人の町工場につれて行かれ、私と息子たち夫婦と一緒に亡妻の替わりにここで働いて欲しい、と懇願されますが、迷った結果、結局、断ってしまいます。
職場のパートタイムの先輩(根岸季枝が素でやっています。)は、熟年離婚(55歳だったと思う。)した同僚を、(腹立たしくても結局離婚出来なかった自分に比べて)優しく揶揄するように見守っており、パート仲間全員で、韓国焼肉屋で、彼女が見合いをした、世の男どもを全員で罵倒していました(男の悪口はどうしてあんなに盛り上がるのでしょう)。
彼女(根岸季枝)は、最期のケースの話を聞いてふっと黙ってしまいました。「(誠実そうな男なのに)なぜ断ったの」と聞く彼女に、「だって、家で工場みたいに働いてくれって、私じゃないような気がしたの」と彼女は答えます。
根岸季枝は引き続き黙り込みます。そして、「悪いけど、(用事があるので)もう帰る」と帰ってしまいます。
たぶん、男にも女にも無意識に序列があります。自己愛とプライドと言ってもいいかも知れない。容姿、経済力、そしてまあコミュニケーション能力とか、これらは明らかに目に映ります。それが全てとは決して言いませんが、その序列の中で、自分を相対評価して、無意識に序列をつけ、現実と折り合いながら、男も女も現実を相対的に生きているのです。したがって、若いときは別にしても「無謀な」愛の試みは笑われるし、「随分ねー」とか、ひんしゅくの対象にも、嫉みの対象にもなるのです。婚活は、若いときも、年を取っても厳しく、つらいものです。根岸季枝は、誠実で、自分の夫より数段まさったような、最後の男を、平然と振った原田美枝子が許せなかった、一体私ってなんなんだろうと思った筈で、同時に、心の底では彼女の熟年離婚を「よく、やるよ」とも思っていた、決して悪い人ではないが、人間は幾多の感情の交点で、さまざま迷い、ぶれつつ、生きているのです。
彼女は、最後に、見合いパーティーに行くことにします。
男も女も磨きあげて、勝負服、勝負化粧でやってきます。
彼女はその雰囲気に耐え切れず、(私もたぶん駄目です。)、ホテルのバーで一人でワインを飲んでいると、一人ですすり泣いている、イケメンの男に出会います。彼女は生まれて初めて冒険をします。彼に、はちみつ入りのアールグレイを送るのです。受け入れた彼と話しはじめ、彼が何年越しに約束した彼女にすっぽかしを食ってしまったことがわかります。彼は、彼女に一緒に「ひまわり」(あのマルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンの出会いと別れの世紀のメロドラマです。若い人はお母さんに聞いてね。)を見てくれ、といいます。彼をふった彼女が、そのように言っていたのです。
これから先はおとぎ話なので関与しません。ホテルで一夜を過ごした彼女は、朝早く、彼に住所も告げずに出ていくのです。原作にもこのシチュエーションはあるのですが、誰にでも、こんなことは一遍くらいはある、という話でしょうか。(村上龍は本当は優しい人なので、付け加えたのかも知れません。なかったとしたら本当に淋しいことでしょうが。)
その後に、彼女は、元夫に会うことにしました。
夫は、復縁できるかも知れないと思い勇んでやってきます。必要であれば土下座もしたでしょう。言い寄る夫に彼女は答えます。「あの女性は幸せなんでしょうか」、公園のベンチで、先のドラマの吹雪ジュンが野良猫を抱き上げかわいがっています、犬は連れていず、どことなく淋しそうです。彼女は、前のドラマで、様々な行き違いの結果、結局夫と引き続き暮らすことを選んだ人です。その姿は、その後の、彼女の近況かもしれません。
「俺は本当に淋しかった」夫はここぞとばかり言い募ります。
彼女は、握手を求めます。「あなたと私は親であり、おじいさん、おばあさんでもあるのよ。これからも仲良くしましょう。(さようなら。)」、と。
悄然とした元夫は、バスで、力なく手を振りながら帰っていきます。
彼女は、本当の意味で「自由」を獲得したのだと思います(哲学クラスで扱った「近代人の自由」(ヘーゲル)です。詳しいことが聞きたい人は連絡してください。)。
それは、普遍的な、「選択する自由」です。これは、また「人間としての自由の条件」です。
主婦として残るのも、離婚して一人で生きるのも、自分で判断すべきであり、それぞれに苦しみと、悲しみと、屈託とあらゆるものが付きまといますが、少なくとも自分の選択と選んだ人性に対する満足感は生じるでしょう。こわがらずに、高みにある「選ぶ自由」を手に入れるには、同じく「ひとりで決める自由と痛みと引き受けるべき責任」も当然に生じるのです。
おめでとう、今日からあなたも自由になった、というべきかも知れません。
しかし、多くの人がその自由に耐えきれないのもまた現実です。
結婚相談所で、「もう少し続けてみます(後は自分で決めます)。」と彼女は宣言します。
この連作ドラマで、職場の女性が、「今回のドラマが初めて面白かった(興味深かった)。」と言っていました。確かにそうかもしれません。
与太話を少し。学生時代にわれわれにとっての自由とはどんなことだろうか、と議論しました。それは昼飯を食べるときに、カレーかラーメンかを決める程度の自由だと皆で笑ったことがあります。(高いAランチは食えないので)
今思えば、これも結構、本質的なことを言い当てていたなと、思います。だって、どんなに貧しい、つましい選択であるにせよ、どちらかを選べるのだから。
みんな、少しずつ幸福で、少しずつ不幸なのでしょう。(「誰も悪くはないのに、悲しいことはいつもある」、という中島みゆきの歌もありましたよね。)
次は、小林薫の、たぶん「男の思い込みと格闘」の話です。
7月5日を、乞うご期待ということで。
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