浄土宗 京都市中京区上瓦町70
墓所に西川 祐信 江戸時代の浮世絵師
祐信は寛文11年(1671)京都の生まれ、姓は藤原氏、俗称祐助または孫右衛門といい、
後に右京と改めた。別に自得斎・文華と号し、
はじめ狩野永納や土佐光祐に学び、西川流の一派をひらいた。
宝暦元年(1751)、81歳で亡くなる。
その子祐伊も浮世絵師として活躍し、宝暦12年(1762)56歳で亡くなる共に妙泉寺に埋葬される。
応挙門下の源や
京都国立博物館館長をつとめた塚本善隆博士の墓がある。
寺院 前回の記事 ➔ 長0173
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石鳥居は明治29年5月建立、社標は大正3年3月建立、
狛犬の台座は昭和8年建立
延暦13年(794)に桓武天皇の勅命により建立されたと伝えられている。素戔嗚尊を主神とし、朝夕、内裏の門を守護するとい櫛石窓神、豊石窓神の二神を合祀する社で、石神(岩上)神社ともいわれている。嵯峨天皇の後院(退位後の御所)冷泉院の鎮守社として崇められと伝えられ、慶長7年(1602)、二条城造営により現在地に移転したが、天明8年(1788)の火災にかかり、現在の社はその後再建されたといわれる。社名は、この地が鎌倉時代の内大臣中山忠親の邸跡に当たることに由来すると伝えられる。 京都市
治承2年(1178年)11月、
中宮(賢礼門院 平清盛の娘 安徳天皇の母)
安産祈願には当社に勅使が遣わされたことがある
もともとは神泉苑の東北にあったが、
二条城の造営により現在地に移転した。
室町初期の明徳の乱には、山名方と足利方の軍勢が
社前にて戦ったことが『明徳記』に記されている。
大正3年建立
長寿御礼
90歳
この 茂山千五郎 奉納額 どこかで 見たことがある
洛中百社に奉納されているようだ
井戸か
文久2年 (1862年) の建立
神社 前回の記事 ➔ 神社中0069 八坂神社御供社
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又旅所 とも云われている
ここは、女子マラソンの野口みずき 選手が かつて 雨の日などに利用した
直線700mのアーケード 三条商店街
この石柱 安政元年(1854年)の建立
八坂神社御供者
由緒
貞観11年(869)都に疫病が流行した時、平安京の広大な庭園であった神泉苑に66本の矛を立て祇園社(現八坂神社)の神輿を送り、祇園御霊会が行われた。当社は住吉の神泉苑の南端にあたり、御霊会祭日である6月14日(明治以後は7月24日に変更)には斎場が設けられ、祇園社の神輿三基を安置し、神饌を御供えする。社名、町名はこのことに因むものである。明治6年村社に列格し、明治39年には村社を廃し、八坂神社の境外末社となる。当社は、四条京極にある御旅所に対して、又旅所ともいわれている。
井戸
関連記事 ➔ 神社下0040 八坂神社御旅所
神社 前回の記事 ➔ 長0068
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