浄土宗西山禅林寺派
京都市中京区錦大宮町154
円山応挙 師 画家 石田幽汀 墓所
万人講 第5番 地蔵尊
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小浜藩邸
若州小浜藩邸跡 通称 若州屋敷
ここ池ノ内町一帯は江戸時代京都所司代を三代21年の長きにわたって務めた
譜代名門の若州小浜藩酒井家12万2千石の京都藩邸跡である。
その敷地は東西220m、神泉苑通から智恵光院通まで、
南北260m御池通から三条通まで、
その他家臣の屋敷が西側に きもこれらを含めると
約2万坪の広大な藩邸であった(二条城は約8万坪)
又、この屋敷はのちに徳川15代将軍となった慶喜公が
文久3年(1863)12月から使用し、
慶應3年(1867)9月21日二条城に移るまでの3年10ケ月、
京都における幕府の活動拠点となり、
この間ここで四賢侯会議を始め、
京都守護職、老中、所司代ら幕閣要人等と協議を重ね、
大政奉還の腹案を持って二条城に入り、
慶應3年10月14日の布告となった。
この屋敷が幕末我国にとって重要な役割を演じ、
その決断が下された場所である。
当時の面影を残すものは無く、唯一前に立っている燈籠あり、
側面に萬延二辛酉二月(1861)正面に白須甲斐守源政偆とある。
福井県 小浜市
幕末藩士 ➔ 梅田 雲浜
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明治10年になってようやく当寺に改葬された
墓石が見えます
平野国臣は、もと福岡藩士で京都において同士とともに
尊王攘夷運動に奔走したが捕えられ、
元治元年7月19日(1864)蛤御門の変(禁門の変)の時、
戦火に乗じて逃走を怖れ六角獄舎で生野挙兵の同士、
天誅組の水郡善之祐以下16名、
池田屋事件の古高俊太郎以下8名の勤王志士とともに未決のまま斬首された。
「憂国十年、東走西馳、成敗在天、魂魄帰地」と辞世の詩をよみ、
三十七歳の生涯を終えた。
明治10年(1877)西ノ京刑場(西大路太子道一帯)あとから
姓名を朱書きした瓦片と白骨が発見され調査の結果、
これらは六角獄舎で斬首された国臣ら勤王志士37名の遺骨
であることがわかり、改めて当寺に移葬された。
六角獄舎跡の記事はこちら➡ 六角獄舎跡
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