アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

ポスター0021 御霊祭 5月18日

2015年05月15日 23時00分44秒 | 掲示ポスター

京都御苑内を巡行するようになりました

町中とはまた違った雰囲気が味わえるでしょう

 

一方で 担ぎ手が足りないのでしょうか

 

ポスター 前回の記事 ➔ ポスター0020 如月の華  九条武子ものがたり


寺院中0182 休務寺 浄土宗西山禅林寺派 画家 石田幽汀 墓所

2015年05月15日 11時07分01秒 | 寺院

浄土宗西山禅林寺派  

 京都市中京区錦大宮町154

 

円山応挙 師   画家  石田幽汀  墓所

 

万人講  第5番  地蔵尊

 

寺院 前回の記事 ➔ 寺院中0181 満福寺  西山浄土宗

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石碑中0055 小浜藩邸跡  徳川慶喜も使った

2015年05月15日 08時01分52秒 | 石碑

小浜藩邸

若州小浜藩邸跡 通称 若州屋敷

ここ池ノ内町一帯は江戸時代京都所司代を三代21年の長きにわたって務めた

譜代名門の若州小浜藩酒井家12万2千石の京都藩邸跡である。

その敷地は東西220m、神泉苑通から智恵光院通まで、

南北260m御池通から三条通まで、

その他家臣の屋敷が西側に きもこれらを含めると

約2万坪の広大な藩邸であった(二条城は約8万坪)

又、この屋敷はのちに徳川15代将軍となった慶喜公が

文久3年(1863)12月から使用し、

慶應3年(1867)9月21日二条城に移るまでの3年10ケ月、

京都における幕府の活動拠点となり、

この間ここで四賢侯会議を始め、

京都守護職、老中、所司代ら幕閣要人等と協議を重ね、

大政奉還の腹案を持って二条城に入り、

慶應3年10月14日の布告となった。

この屋敷が幕末我国にとって重要な役割を演じ、

その決断が下された場所である。

当時の面影を残すものは無く、唯一前に立っている燈籠あり、

側面に萬延二辛酉二月(1861)正面に白須甲斐守源政偆とある。

福井県 小浜市

幕末藩士 ➔ 梅田 雲浜

石碑 前回の記事 ➔ 石碑中0054 今は走っていない京都市電 記念石碑

 

 

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寺院中0179  竹林寺  幕末、六角獄舎で処刑された勤王志士37名が眠る

2015年05月15日 00時22分01秒 | 幕末・明治維新前後

明治10年になってようやく当寺に改葬された

 

 

墓石が見えます

 

 

平野国臣は、もと福岡藩士で京都において同士とともに

尊王攘夷運動に奔走したが捕えられ、

元治元年7月19日(1864)蛤御門の変(禁門の変)の時、

戦火に乗じて逃走を怖れ六角獄舎で生野挙兵の同士、

天誅組の水郡善之祐以下16名、

池田屋事件の古高俊太郎以下8名の勤王志士とともに未決のまま斬首された。

「憂国十年、東走西馳、成敗在天、魂魄帰地」と辞世の詩をよみ、

三十七歳の生涯を終えた。

明治10年(1877)西ノ京刑場(西大路太子道一帯)あとから

姓名を朱書きした瓦片と白骨が発見され調査の結果、

これらは六角獄舎で斬首された国臣ら勤王志士37名の遺骨

であることがわかり、改めて当寺に移葬された。

 

 

 

 六角獄舎跡の記事はこちら➡  六角獄舎跡

寺院 前回の記事 ➔ 寺院中0178 円竜寺 真宗大谷派

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