末社
鳥居は明治42年12月の建立
杉蛭子大神宮 と額が掲げてあります
北来地蔵菩薩(きたらい地蔵菩薩)
ここには、松原通堀川西入の北門前町及び来迎堂町の地蔵菩薩2体が祀られている。北門前町は、松原通の南の町内で、町名は日蓮宗の大本山本圀寺の北門町に位置したことに由来する。また、来迎堂町は、松原通の北の町名で、町名は天仁2年(1109)にこの地に創建された、寺院である来迎堂に由来する。両町とも、天明8年(1788)の大火で罹災したが、町内の人々の深い地蔵信仰により、それぞれの地蔵菩薩が作られたといわれ、近年は、町内の古老の家で祀られていたが、堀川の暗渠化に伴い、町内の人々によって地蔵堂が建設され、ここに安置された。北門前町の地蔵菩薩は立像、来迎堂町の地蔵菩薩は坐像であるが、いずれも木彫で江戸時代に作られた貴重なものである。なお、北来の名称は、北門前町と来迎堂町の頭文字をとったもので、昭和15年(1940)から一般にこのように呼ばれている。
江戸時代の 朝鮮通信使の宿泊施設だった
本圀寺
江戸時代、日本が朝鮮国から招いた「朝鮮通信使」は京都で滞在した。
そのうち本圀寺は1636(寛永13)年以来定宿とされ、
7回にわたり、一行約400名の宿館として用いられた。
当初、本国寺という名であったが、中国や朝鮮の学問に憧れ、
江戸で朝鮮通信使とも交流した徳川(水戸)光圀の帰依をうけて、のちに本圀寺と改めた。
朝鮮通信使が来ると将軍の名代として代々の京都所司代が一行に挨拶に来て、
饗宴を催すこととなっていた。
1767(宝暦14)年の通信使の随員であった金仁謙の記録「日東壮遊歌」によれば、
当時の本圀寺は相輪をもつ五層の楼門があり、石や木竹を配した庭はよい趣があったという。
1711(正徳元)年の「朝鮮人来聘ら付、公儀(幕府)ヨリ被仰出状御書付」という文書によれば、
など多くの坊舎塔頭が一行のために用いられたことが記されている。
なお、本圀寺は1971(昭和46)年に山科区へ移転した。
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ことわざ
過ぎたるは猶及ばざるが如し
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京都市下京区中堂寺西寺町1-2
平成20年3月
彫刻 木造観音菩薩立像 重要文化財に
平安前期のカヤ材を用いた一木造の優品、頬の締まった顔立ちや衣のひだの鋭い彫は、9世紀前半の特色を示す。
抑揚に富んだ肉付けと腰を強くひねった構えにはこの時期ならではのインド風が濃厚に漂う。
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