左 坂 丹波道
左側 なんと書かれているのでしょうか
右 西 弘法大師 と推定できるのですが
道標 前回の記事 ➡ 道標伏0151 伏見・極楽橋西詰の道標
五七五
居酒屋の前で財布と協議中 /北村
京ことば ヤニコイ こわれやすい。ひよわい。
「ヤニコイ作りヤシ、キーつけヤ」
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左 坂 丹波道
左側 なんと書かれているのでしょうか
右 西 弘法大師 と推定できるのですが
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五七五
居酒屋の前で財布と協議中 /北村
京ことば ヤニコイ こわれやすい。ひよわい。
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浄土宗 招善寺
三階建ての木造建築だ
寺院 前回の記事 ➡ 寺院右0433 智勝院 斎藤利三の墓がある
五七五
財布には電子マネーとはずれ券 /木口
京ことば ヤツス めかす。「エローヤツシて、どこへ」
おしゃれをする人をヤツシという。
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盛り上がっているところが 御土居 東西方向に作られている
御土居 北西角に近いところ
ここは 図の 左上にあたる
御土居は、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、京都の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街地を守る堤防として、天正19年(1591)に多くの経費と労力を費やして築いた土塁です。
台形の土塁と堀(堀の一部は川を利用)からなり、その延長は22.5キロメートルに及び、東は鴨川、北は鷹ケ峯、西は紙屋川、南は九条あたりに沿って築かれました。土塁の内側を洛中、外側を洛外と呼び、要所にはいわゆる七口を設け、洛外との出入口としました。
多数の人々を動員して築造した御土居ではありましたが、江戸時代になると、堤防としての役割を果たしていたものなどを除いては無用のものとなり、やがて近代になると開発により次々と壊され、北辺を部分的に残存するのみとなりました。
ここ鷹ケ峯に残る御土居は、御土居の北西隅にあたる重要な部分であり、京都の沿革を知る上に、また広く我国における都市の発達をたどる重要な他の8箇所とともに、国の史跡に指定されています。
昭和5年文部省指定、昭和40年追加指定 京都市
東を見る
この御土居に入るには 光悦堂で申し出れば フェンスの鍵を貸してもらえます
向こうの山は 比叡山
平成29年4月1日 撮影
関連 記事 ➡ 秀吉が造らせた御土居堀
史跡 前回の記事 ➡ 史跡北028 御土居 史跡公園
五七五
撫でてみる父玉砕の島の土 /辻井
京ことば メッソモ ナイ (滅相もない) とんでもない。
「こんなにモータラ、メッソモナイワ」
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旧 山城国愛宕郡鷹ケ峰村
徳川時代 公儀 鷹ケ峰薬園跡
2010年11月 特定非営利活動法人 京都歴史地理同考会建立
寄付者 故 山田 真
鷹ケ峰 薬園跡のいまむかし
徳川時代 公儀 鷹ケ峰 薬園跡
このあたり一帯は、京都の北郊で、もと山城国愛宕郡鷹ケ峰村といいます。江戸時代に徳川公儀(幕府)が設置した薬園跡です。薬園とは薬草を栽培する場所で、医学発展に不可欠といえます。徳川の武家政府は、すでに京都や伏見から江戸に移っていましたが、京都は禁裏(天皇)や朝廷のあるミヤコとして、変わらず日本の最重要都市でした。学問や芸術の中心地でもありました。
徳川3代将軍家光の時代の寛永14年(1637)、肥後熊本の大名だった細川忠興が、病気がちな薩摩の大名島津家久に「京都に来られませんか。上方(京都・大坂など)での養生をおススメします。上方は医者も多くいますからきっと良くなりますよ」と手紙で述べているのも理解できます。
寛永17年(1640)、京都北郊の当地鷹ケ峰に薬園は設置されました。その規模は60間(約110m)四方で徳川家に仕え、禁裏の典医でもあった藤林道寿一族が、明治維新までこれを管轄しました。
江戸後期の弘化4年(1847)の記録によれば、栽培された薬種のうち95種が禁裏に献上され、73種が江戸に運ばれています。詳しくは上田三平氏の労作「日本薬園史の研究」(1930年刊行)をご覧ください。
明治維新後、藤林道寿は解任され、薬園は維持されることなく、茶畑などの農地に転用されました。跡地には石碑が建てられるなどの顕彰されることもありませんでした。戦前、市内に約80基の石碑を建てたことでことで知られる京都市教育会は、当該地への建碑計画を持っていたようですが、実現しませんでした。
2007年(平成19)に改訂された「京都市遺跡地図台帳」(第8版)にも、周知の遺跡として認定されていません。江戸に営まれた小石川薬園跡は、いまも東京大学理学部が管理し使用されております。大名や民間が営んだ楽園には、旧島原藩薬園跡(長崎県)、森野旧薬園(奈良県)、佐多旧薬園(鹿児島県)のように、現在国史跡に指定されたものもあります。当地とは大違いです。
鷹ケ峰薬園跡にはいまも名残があります。わずかながら農地が点在し、土地の区画(地割)も生きているほか、旧藤林邸の井戸も現存します。そもそも地名が「藤林町」で、往時をしのばせます。現在地はおおよそ同邸の表門跡にあたります。
江戸時代の京都が、医学研究の最先端地のひとつであったことを永く伝えるため、ここ鷹ケ峰に建碑し、顕彰いたします。
2011年6月 歴史地理史学者 中村武生
薬園跡 南側から撮影。中央にのびる森は、ミヤコの城壁・環濠の御土居堀。
藤林道寿邸跡
西側から撮影。井戸は現存する。左手にのびる森は御土居堀
現在の地図上に落とした薬園跡。
現在地はおよそ藤林邸表門跡にあたります。近くには井戸が残っています。
江戸時代後期の鷹ケ峰あたり
天保2年7月(1831)、竹原好兵衛発行 改正 京町絵図細見大成。
石碑 前回の記事 ➡ 石碑上0153 松永伍作碑 明治時代の蚕業教育家
五七五
踏切は私が行くときっと鳴る /亀谷
京ことば マイド いつも。いつもありがとうの意味でもいう。
「マイドオーキニ」を省略して。
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