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五七五
入金日ペダル軽やか銀行へ /藤原
京都の俗諺(ぞくげん)
鴨川の水、双六の賽(さい)、山法師 思うようにならないたとえ。平安末期、院政を始めた白河院でさえ思うようにならなかったものが鴨川の水、サイコロの目、比叡山延暦寺の僧兵。
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京都の俗諺(ぞくげん)
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梅小路公園の中に
西八条第は八条亭ともよばれ、平安時代後期、平清盛が平安京の八条壬生に構えた六町を有する広大な邸宅で、仁安元年(1166)頃に造営されたとする。その跡地は下京区歓喜寺町・八条坊門町、南区八条坊門町・八条町に当たる。
『平家物語』によると、清盛が邸内の庭に蓬(よもぎ)を植えたところから蓬壺(ほうこ)とも呼ばれ、その周辺にはまた頼盛・重盛・宗盛ら、平家一族の邸宅がいらかをならべていた。白拍子祇王・妓女や仏御前の物語もこの邸宅での話である。
清盛は仁安2年(1167)に太政大臣の位を退いてから摂津福原(神戸市兵庫区)に居を移したが、妻の二位尼時子はここに住み、邸内に光明心院を営んでおり、また、清盛も入洛の折はこの邸宅を使用している。
清盛は、安元3年(1177)6月鹿ケ谷山荘事件の後、首謀者の一人、西光法師が捕えられ、清盛から厳しい詰問を受けたのはここであり、この邸宅でその処分を決めている。また『山槐記』によると、治承3年(1179)12月16日、高倉天皇中宮で、清盛の娘である建礼門院徳子がこの西八条第に行啓し、清盛は終日微笑みを絶やさず、指を湿らし障子に穴をあけ、孫と戯れて感涙にむせんだとされる。
治承5年(1181)閏2月4日に清盛は熱病をわずらって悶死した。64歳で没し、その2日後、葬送の夜。この邸で火災が発生した。
『平家物語』巻六によると「玉を磨き金銀をちりばめて作られたりし西八条殿、其夜、にはかに焼けぬ。・・放火とぞ聞こえし」と記され、大小50余りの建物が焼けたとされる。『玉葉』によると、のちに再建された建物も、寿永2年(1183)7月25日、平家の都落ちに際して自ら火が放たれ、邸宅は残すところなく灰燼に帰した。平家はここに滅亡して、約400年間続いた平安時代は終わりを告げる。
はかなしな主は雲井に別るれば跡は煙とたちのぼるかな
(平家物語 巻七) 平 教盛
ふるさとを焼野の原にかへりみて末も煙の波路をぞ行く
(平家物語 巻七) 平 経盛
その後、旧地は平家追討の恩賞として源頼朝に与えられ、源家相伝の領地となった。鎌倉時代に実朝の未亡人(本覚尼)によって遍照心院が営まれるに至ったのは、かかる由縁によるものである。
西八条第跡の調査は、公園整備前の平成4・5年の春に行われ、柱跡や溝跡のほか、平安時代後期の土器とともに焼土や炭化遺物も出土しており、西八条第で火災があったことを裏付けている。なお、遺跡は盛土して保存されている。
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五七五
今日もまた名前が出ない顔見知り /山田
京都の俗諺(ぞくげん)
京では右と左が逆になる 平安京は中国と同様に君子が南面としたため、御所の紫宸殿は南向きとなっている。天皇が南を向いて左が左京、右が右京であり、北を上にした地図では左右が逆になる。
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五七五
乗り遅れしたくないから走ってる /吉岡
京都の俗諺(ぞくげん)
鴨川の水で顔を洗うときれいになる
鴨川の水を産湯に使うと美人になる
京都の人の水に対する信仰や京都の水のすばらしさをたたえている。