アートプラス京めぐり

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神社府0130 離宮八幡宮  その3の2

2018年03月22日 21時56分03秒 | 神社

 

 

手水所  石清水 と書かれています

 

大正11年の時の壹萬円  今に価値ではいくらかな

 

 

河陽宮故址

大正11年3月 大阪油商

 

 

本邦製油発祥地

皇紀二千六百年11月

 

常夜燈

 

江戸時代の元禄の文字が見える

 

狛犬

 

拝殿

 

本殿

 

 

 

当宮は貞観元年(859)、国家鎮護のために八幡神を京の都近くに移座するという清和天皇の勅命のもと、豊前國宇佐八幡宮より山崎に遷座あらされしことを由来としています。嵯峨天皇の河陽離宮の故址に社殿を造営したことから離宮八幡宮と呼ばれるようになりました。

古来、朝廷はじめ幕府などの篤い崇敬をうけ、最大の神事である「日使頭祭」には勅使も遣わされました。室町幕府三代将軍、足利義満は円明寺から水無瀬川の間を当宮神人の在所であることから「守護不入地」とし、大山崎の自治を認めました。以来、明治維新までの長きにわたって、離宮八幡宮の神領として特別に自治を認められる地域でありました。

現在の境内の概観が整ったのは、江戸幕府三代将軍、徳川家光によって行われた「寛永の造営」です。左上の絵図はね寛永11年(1634)以降の境内の姿を描いたものです。幕末に起こった「禁門の変」によって大半は焼失しましたが、惣門(南門)と東門は奇跡的に残り、往時の様子を今に伝えています。

境内地が縮小とれたのは明治に入ってからの近代化の波によるものです。明治9年(1876)に官営鉄道が敷設され、境内の北部が失われました。明治12年、油商山崎講や氏子・崇敬者によって本殿をはじめとする中心社殿が再興されます。

さらに昭和初めには鉄道の再整備が行われ、京都府が設計技手、東金五郎を派遣して、格式ある歴史にふさわしい社殿が再建されました。最も古い惣門と東門は大山崎町の指定文化財に、昭和初期の建造物である本殿、拝殿、透塀、高天宮神社、中門、手水所は国の登録有形文化財になっています。

平成29年3月 大山崎町の歴史・文化遺産を活かした地域活性化実行委員会

関連記事  ➔  まとめ006 紀元2600年石碑・献木・奉納額

離宮八幡宮 全体 案内 ➔  まとめ013 離宮八幡宮

 

 


まとめ014 まとめ0014 葵祭

2018年03月22日 21時17分41秒 | テーマ数々

1  葵祭  昔の写真  葵橋で

2  神社上0071 櫟谷七野神社  葵祭・斎王代も訪れる

3  まち歩き上0140 アーユーレディー 、OKです 葵祭り

4  ポスター0095 葵祭

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ポスター0096 葵祭

2018年03月22日 16時40分20秒 | 掲示ポスター

 葵祭は例年5月15日実施

平成29年のポスター

関連記事 ➡  まとめ0014 葵祭

ポスター前回の記事 ➡  ポスター0095 寂光院 三宅呉暁筆 枯木野猿図

五七五

パソコンに向かい問診する主治医 /野島

 

京みょうが

みょうがは日本原産の野菜の一つで、開花前の花(花みょうが)となんか栽培した若い茎(みょうがたけ)が食用とされる。花みょうがは夏の素麺の薬味や吸物に用いられるほか、柴漬けの原料としてなくてはならないものである。

 


まとめ020 彫刻

2018年03月22日 13時46分23秒 | テーマ数々

 

1  まち歩き山0254  野外彫刻  出会うとき  谷口淳一

2  まち歩き左0728  大原女  彫刻

3  彫刻  OKIBARI YASU BY MASAYUKI NAGARE 1989

4  流 政之 作品「こんちき」

5  まち歩き北1084  彫刻 「寒」  山崎正義

6  まち歩き左1417 植物園の彫刻 「麦藁帽子と少女」  宮瀬 富之

7  まち歩き左1418 植物園の彫刻 「歓びと期待」 山崎 正義

8  まち歩き左1442 植物園内の彫刻像  「向ふ」

9  まち歩き左1443 植物園の彫刻 「岐路」(1969)阿部正基

10 まち歩き1444 植物園内の彫刻  「風と舞う」 江里 敏明

11  まち歩き左1734 植物園内の彫刻 「おもい」 久間秋夫 作

12  まち歩き1735 植物園内の彫刻 「十五夜の力士」 抜水政人 2003年

13  まち歩き左1736 植物園内の彫刻 植物に覆われて詳細不明

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まち歩き左0728  大原女  彫刻

2018年03月22日 13時39分40秒 | まち歩き

 

大原の地で採集した薪・柴を京の町に売り歩く大原の女性をいう。その服装は頭に縫い模様のある手拭いをかぶり、紺衣に御所染の帯を締め、2巾半の前垂れを腰につけ、手には白と甲掛けと足に脚絆、草鞋(わらじ)に白足袋といういでたちで、頭上に薪・柴などをのせる。かつて建礼門院に近侍していた阿波内侍が、山に柴などを刈に行くときの装束をまねたものと言われ、その風雅清楚な服装は上臈(じょうろう)めいたところがある。

秋の日に都をいそぐ賤の女の帰るほどなき大原の里 /定家

小原女の足の早さよ夕紅葉 /与謝蕪村

 

大原女の頭(こうべ)の菊も緋たすきもみな朝露に濡れてあるらし (九条武子)

これは初冬の出町橋を陸続きとして市内へ行商に出かけて行く大原女の早朝の風景をうたった歌だが、今はその姿も見られなくなった。

 

5月に大原女時代行列が大原地区である。「大原女まつり」のメーン行事。寂光院・三千院から勝林院までの約2キロを練り歩く。

秋の時代祭では、室町末期の大原女の姿が再現されている。

 

「大原女」の像

「大原女」のブロンズ像は、1990(平成2)年10月、京都洛北ライオンズクラブが認証状伝達25周年を記念して、無形文化財の指定を受けられた京人形司13世面庄・岡本庄三氏に制作を依頼され、京都市に寄贈されたものです。当時、市営地下鉄の北端駅であった北山駅に設置していたものを、地下鉄の延伸に伴い、2010(平成22)年3月、大原への最寄駅である国際会館駅に移設したものです。洛北・大原の象徴ともいえる「大原女」の像が、市民や大原観光の皆様に愛され、見る人の心のふるさとになってくれることを願って止みません。京都市

彫刻 の展示  ➔   まとめ020 彫刻

関連記事  ➔  まとめ021 九条武子

まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き下0727  う~ん なんて 書いてあるの

五七五

消灯は九時病棟の淋しさよ /西郷

京野菜

花菜 京の花菜の品種は伏見寒咲きなたねが中心である。開花寸前のつぼみは辛し和えや汁の実、おひたし、漬物などに調理され、ほろ苦い味わいとともに春の香りを楽しむことができる。

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