アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

まち歩き城陽1113 鴻の巣山 山頂からの眺め

2019年12月06日 21時03分03秒 | まち歩き

 

 

中央の山は 愛宕山

 

平成30年12月9日 撮影

 

まち歩き 前回の記事 ⇒ まち歩き城陽1112 大木 水度神社参道

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます


まち歩き城陽1112 大木 水度神社参道

2019年12月06日 17時55分19秒 | まち歩き

 

瘤がすごい

 

 

 

大きく曲がっています 

 

関連記事 ⇒ まとめ001 樹木

まち歩き前回の記事 ⇒ まち歩き城陽1111 歌碑 鷺坂 柿本人麿

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます


史跡城陽053 正道官衙址 

2019年12月06日 13時17分11秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

 

 

遺跡の発見

標高40~50mの南向きの台地上にあるこの遺跡は、昭和40年(1965)、台地西端の池畔で瓦片や土器片が見つかり、古代寺院があったと推定されて「正道廃寺跡」と名付けられました。

しかし、昭和48年(1973)2月からの大規模な発掘調査では、寺院跡とみるより、奈良時代の郡衙(郡の役所)中心部分と推定される建物群跡が確認され、昭和49年(1974)には名称も「正道遺跡」と改められました。その後、付近で部分的な発掘調査を続けた結果、遺跡西側にも建物群跡があることがわかっています。

国の史跡に

この遺跡は、5世紀の小規模な古墳と6世紀後半から7世紀にかけての集落遺構、そして7世紀以降の整然と配置された大型の掘立柱建物群からなる官衙(奈良時代の役所)遺構などが重なり合う複合遺跡です。

特に官衙遺構は歴史・地理的背景や出土遺物などから、奈良時代の山城国久世郡の郡衙中心部であると推定され、昭和49年(1974)9月、城陽市では最初の国史跡の指定を受け、翌年3月に史跡地全体の約10,850㎡が公有化されました。

 

史跡の整備

この遺跡は、発掘調査後埋め戻されて長い間広場になっていましたが、遺跡の保存と活用を図りながら、積極的にまちづくりに生かしていこうという機運が高まり、平成元年(1989)2月、文化庁の指導を得て、この遺跡を含む市内5ケ所の史跡整備構想を策定。翌年この官衙遺跡の整備基本計画を作り、平成3年(1991)10月から整備工事に着工、平成4年(1992)11月に工事が完了しました。

 

整備の方法

整備に当たっては、官衙建物群のうち、ほぼ同時期のものと推定される建物群を復元の対象とし、時期を異にする建物遺構は、一定の覆土をして地下に現状保存しています。

建物の復元の仕方は、発掘調査の結果に基づいて柱の位置や太さを忠実に表現し、一方、柱の高さや柱組みは近い時代の建築様式を参考にして、これらの建物の規模が想像できる「イメージ復元

」となっています。

また、遺跡内の樹木は、在来植物の中から選び、特に奈良時代の「万葉集」の歌に詠まれている、いわゆる「万葉植物」には代表的な万葉歌を添えて紹介しています。

 

 

 

古代城陽を詠んだ万葉歌

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡木津川052 木津川の歴史  飛鳥・奈良時代

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます

 


神社城陽0205 久世神社 本殿・重要文化財  久世廃寺跡

2019年12月06日 06時40分01秒 | 神社

 

久世神社西側の境内地にあたる。

以前からこの辺に布目瓦が散布し、古い寺院跡があることが伝わっていたが、昭和43年、測量が行われた結果、東西に並ぶ2ケ所の土壇があることが確認された。東は塔跡、西は金堂跡と推定され、講堂はこれより北に位置するものと思われたが、今のところ判明していない。

出土遺物は飛鳥様式の軒丸瓦や軒平瓦が多く、南門付近ではまた天平様式の見事な金銅仏(奈良時代)が出土した。寺域はほぼ1町(約108m)を占めるものとみられ、伽藍配置は平川廃寺とは逆に、いわゆる法起寺式であり、奈良時代前期に建立された寺院であることが判明した。寺名については明らかでなく「久世廃寺」と称している。

 

塔跡は、東西13.7m、南北13.4mの瓦積基壇と推定されています。

金堂跡は、東西26.7m、南北21.3mの瓦積基壇です。

講堂跡は東西23.5m、南北13mの瓦積基壇で、基壇上には7間(21m)×4間(10.5m)の四面庇をもつ建物があったことが確認されています。

南門跡は、南北4.3m、東西8m以上の基底部が確認されています。

南門跡北側の瓦溜まりからは、像高6.9m(頭頂~足裏)の金銅造の誕生釈迦仏立像が出土しています

また東側の市道沿いでは、補修用瓦を焼いたと考えられる瓦窯跡が見つかっています。

発掘調査により、奈良時代前期に創建され、8世紀中ごろに建物が整備され、11世紀前半に廃絶したと考えられています。

寺域北東側の丘陵上には、6世紀に築造されたと考えられている芝ケ原1~7号墳(前方後円墳2基、円墳5基)があります。

久世神社

旧久世村の産土神で、日本尊命を祭神としている。創祀年代は明らかでない。本殿の建物が室町時代末期の建築であることから、それ以前の鎮座であると思われる。もとは若王社といったが、明治維新のときに今の名に改め。明治7年(1874)郷社に列せられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

本殿 重要文化財

丹塗りの一間社流造、檜皮葺で、柱上部・組物・庇水引虹梁・庇蟇股などを極彩色に仕上げています。内部は内陣と外陣に分かれ、内陣上部には幣軸付板扉、外陣正面に引違の格子戸を4枚たてています。内陣正面の板扉には扉2枚にわたり大きな松を描き、左右の脇羽目板にも草花を描いています。

内陣正面の欄間中央に巴紋、左右に6弁の花紋を飾っています。

外陣正面には透彫り欄間をいれ、単純化した唐草文様を柱一間分にわたって彫刻した中に、中央に菊、左右に各2個ずつ計4個の桐を配しています。

建立年代は明らかでありませんが、室町時代中期とされています。

 

 

 

関連記事 ⇒ まとめ045 京都府の重要文化財・国宝 建物

神社 前回の記事 ⇒ 神社左0204  出世稲荷神社

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます