左 長池陸軍演習場道
右 中村
田原 道
天保11年2月建立(1840)
施主 欣浄寺
道標 前回の記事 ⇒ 道標城陽0272 高倉宮冑之社 三宅石碑
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左 長池陸軍演習場道
右 中村
田原 道
天保11年2月建立(1840)
施主 欣浄寺
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旦椋神社
旧観音堂村の産土神。旦椋は穀物を収納する校倉の古語。また、平治の乱で知られた以仁王の冑を祀ったとも伝え、冑神社と称したという。
本殿は、二間社流造、こけら葺。規模・つくりは、荒見神社本殿(重要文化財)に共通しており、桃山時代風の華やかさがある。現在、本殿は覆屋で守られている。境内は、カシが中心の緑豊かな森である。境内地の背後は砂利採取地がせまっているが、氏子の努力によって境内の緑は守られ、鎮守の森にふさわしい景観を遺している。
当社の例祭は10月4日である。観音堂の道沿いには、高張ちょうちんがたちならぶ。神輿の巡行はなく静かな祭りである。桃山時代の建築様式を伝える本殿や緑豊かな境内地をもつ当社は、昭和58年4月15日付で、京都府より本殿は登録文化財に登録され、本殿を含む境内地は環境保全地区の決定を受け、将来にわたる保存と保護の措置が講じられた。
旦椋神社には、平安時代末期(12世紀後半)の皇族で平氏討伐に挙兵した以仁王が、戦いで傷つき、冑をとって休んだという言い伝えがあります。
式内 旦椋神社 明治21年3月
皇紀2600年の鳥居
関連記事 ⇒ 陵墓府021 以仁王 神社府0108 高倉神社
関連記事 ⇒ まとめ006 紀元2600年石碑・献木・奉納額
神社 前回の記事 ⇒ 神社城陽0207 荒見神社 本殿・重要文化財
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神応寺
石清水八幡宮を創った行教律師が、貞観2年(860)応神天皇の牌所として一宇を建立し、応神寺と号したが、のちに天皇にはばかり、神応寺と改めたと伝わる。はじめは四宗兼学の道場であったが、中世に禅宗となり、今は曹洞宗になっている。
文禄年間(1592~96)朝鮮出兵にあたって秀吉は神功皇后の三韓侵略にあやかって石清水八幡宮に詣うで、軍の先鋒にと八幡宮の神官の参加をのぞんだが、神社側はおそれをなして命に服さなかった。秀吉は大いに機嫌を損じたが、神応寺の住職が「出兵の首途にはまず応神天皇の御寺に参詣されるべきである」ことを進言したので秀吉の機嫌がなおったといわれ、このとき秀吉は寺領200石を寄進したとつたえる。
また、京阪八幡市駅近く、石清水八幡宮の門前に、絲杉山神応寺という寺があります。
860年、石清水八幡宮を勧請し建立した奈良大安寺の僧行教により、応神天皇の霊を祀る寺として建てられました。
この寺の12世弓箴善僵(きゅうしんぜんきょう)は、豊臣秀吉に命ぜられて神応寺の住職になりました。秀吉とは同郷とのことです。この住職と秀吉との間にこんな話が残っています。
1592年、秀吉が朝鮮出兵に際し、石清水八幡宮に参詣し、神官に従軍を求めました。ところが戦場に行くことをおそれて応ずる者がなく、秀吉の怒りをかいました。
このとき、神応寺の住職の気転で、神功皇后の三韓征伐にあやかるのであれば、応神天皇をまつる神応寺に参詣するのがよかろうと進言。秀吉はきげんをなおして寺領120石を寄進したとのことです。この石高は江戸時代になっても続けられました。住職は、秀吉の朝鮮出兵に際して、九州の名護屋までお供したことが寺の記録に残されています。
本堂・堂内には本尊薬師如来と日光・月光像を安置し、傍らに秀吉の束帯像を安置する。
開山堂・行教律師座像(重文・平安時代)はもと石清水八幡宮にあったのを明治になって移したものと言われる。
書院・伏見城の遺構とつたえ、狩野山雪の筆とつたえる障壁画がある。
境内の墓地には江戸初期の大阪の豪商 淀屋の墓、淀屋辰五郎の墓がある。
平成29年(2017)12月9日 撮影
徳川家の位牌
智慧 文殊菩薩
本尊 薬師三尊佛
開山 行教律師之像
行教(ぎょうきょう)
奈良にある大安寺の僧で、平安時代男山に八幡神を移し石清水八幡宮創建に力を尽くしました。
859年(貞観元年)、聖和天皇の時代に、宇佐八幡宮にお参りした行教は、「都の近くに移り国を護る」とのお告げを受けました。そして都へ向かう途中、八幡神の意志にしたがい男山山頂に神をまつることにしました。
神応寺には行教の像が安置され、国の重要文化財に指定されています。
豊臣秀吉の像
淀君 茶室の庭石
本堂には 衣冠束帯姿の秀吉の像がある
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院久御山0578 極楽寺 浄土宗
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長池宿碑
長池宿碑
明治21年(1888) 建立
文久年間(1861~64)、助郷の課役にくるしんだ当時の村人たちが、大道栄造の尽力によって救われたことが記されている。
島利兵衛の墓 芋の形をしています
琉球芋宗匠島利兵衛と裏面にきざまれている。
利兵衛は長池で薬種問屋をいとなんでいたが、その中に幕府の禁制品があったため、遠島に刑に処せられ、琉球喜界ケ島へ流された。享保元年(1716)ゆるされて帰国の際、ひそかに甘藷の種を持ち帰り、この地に試植した。それより各地に栽培が行われた。特に隣村の寺田村ではもっとも品質のすぐれたものが生産されたから、一般に「寺田芋」として知られるにいたった。利兵衛は元文5年(1740)に没した。
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院城陽0683 常光庵
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