これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

生きることは美しい!

2021-12-28 08:03:00 | 天地の仕組み
この世界は、なぜこんなにも、生命に満ち溢れているのでしょうか。

私たち人間にしてもそうです。
何十億もの命は、何のために生まれてきたのでしょうか。

小さい頃、とても不思議に思いました。
でも、なかなかその答えは見つかりませんでした。

遥か何千年も昔からその問いは繰り返され、幾通りもの解釈となり、哲学や宗教となりました。

そうしたものは非日常的なジャンルと区切られて、私たちは、問いそのものを胸の奥に押しやり、日々の現実に目を向けるのでした。

ただ、ここで少し視点を変えてみると見えてくるものがあります。

先人がこれだけ何千年も考えても分からない。
ということは、もしかしたら、それが答えなのではないか。

つまり、「答えがない」というのが答えではないかということです。

答えがないのですから「すべてが正解」と言うこともできます。
つまり、どんな生き方をしてもOKということです。
そうなると、考えることをやめたり棚上げにしてきたこと自体も正解となります。

私たちは、心のどこかに「これでいいのか?」という不安な気持ちを持ってきました。
自分の進む方向は本当にこれでいいのだろうかと。

「答えなど無い」という示唆は昔から言われてきたことです。
ただ、そう言われると私たちはかえって反発したくなります。
なぜなら、胸の内に「なにか答えがある」という感覚がしっかりとあるからです。

そのため、その正解らしき何かを求め、私たちはあちこち探し回るのでした。
それは、人生を模索する行動とも言えます。

つまり、答えが無いということが、結果として、様々な経験をする原動力になっているということです。

私たちは、大切な疑問にフタをし、宿題を棚上げにしていることに、なんとなく負い目を感じてきました。

人類は、行き先も分からず、ただ生存本能に従って無制限に増加しているだけではないか?

そのような不安が私たちの中にあったわけです。

そのため、人類自体を悪者のように感じ、地球を破壊しつくす傍若無人であるかのような自責の念にかられてきました。

そして個人レベルでは、規律や規範を求め、特に海外では宗教を日常に置くことで心の安寧を獲得してきました。

しかしそれは、己を束縛し支配されることを自ら願う行為でしかありません。

捉えどころのない負い目や自責の念から逃れるために、自らを罪深き人間とし、規律や規範に従わせることで安心感を得る。
そのように、私たちは知らず知らずのうちに自身を縛ってきました。

でも、もう大丈夫です。

今の、これでいいのです。

すでに私たちは全員、いまこの瞬間、正しい生き方をしているのです。

私たちは、これでいいのです。

なぜか。

生きること自体が、この世に生まれた目的だからです。

それは、この世を去る時に「あの世に待って帰れるものが何か」を考えてみれば明らかです。

あの世に持っていける唯一のもの。
それは「経験」です。

そして、経験とは何かと言えば、未知を味わうことに他なりません。

この世界は、刻一刻と変化しています。
私たちのまわりもそうです。
昨日と同じ朝に見えても、あらゆるものが昨日と違っています。
全く同じ環境は二度と訪れません。
いつもと同じように見えても、すべてが初めての体験となります。

未知というのは、非日常的なことや不可思議なことだけを指すものではありません。

あまりに当たり前すぎて、私たちはそれに気がつかなくなっているだけです。

他の人にとって体験済みのことであっても、自分が未体験であれば、それは未知です。

また、昨日と変わり映えの無い1日に見えても、すれ違う人も違いますし、会う人との会話の内容も違います。

時間・場所・人物といった前提条件が異なれば、それは唯一無二の初経験となるわけです。

私たち人類はもちろんのこと、この世に生命が満ち溢れているのは、あらゆる未知を体験するためだと言えます。





そもそも全ての生き物がナゼ、小さく生まれ、成長し、老いていくのか、不思議に思いませんか?
そういうものだと私たちは思っていますが、それこそは、変化が未知を生むからです。

上手く歩けない中での経験。
素早く動けるようになってからの経験。
知恵や体験を得た上で衰えていく経験。

場面場面で様々な経験をします。
すべては新たな未知を味わうためのものであるわけです。

もしもそこに変化が無ければ、いずれ全てが既知になります。
しかし、この世界は常に変化し続けています。
変化すればこそ、この世はこれからも未知であり続けます。
天地宇宙というのは存在自体が未知の塊であるわけです。

そして、未知を知ることは魂の喜びです。

未知に触れた瞬間、私たちの魂には波紋が広がります。
それは意識や感情のレベルではなく、魂レベルの話です。

私たちの魂とは、天地宇宙のひとしずくです。
つまるところ、天地宇宙が、未知に触れる喜びを求めているということです。

だから、天地宇宙は生き物に溢れている。

弱肉強食という無慈悲にも見える世界さえも、すべてはあらゆる視点からこの世界をくまなく経験するためのもの、魂の波紋を得るためのものであるわけです。

ですから、強者や弱者という発想そのものが、人間考えでしかないということです。

他者と違いがある、変化があるからこそ、未知が膨らみ経験が広がります。
真の多様性とはまさにこのことです。
なんでもかんでも平等などというセリフはこの世に唾吐く行為に他なりません。
自然界が不平等の世界であるというのに、人間界だけは平等であるべきと騒ぐのは不自然この上ありません。

「万物流転」「諸行無常」は未知を広げる要素となっています。
この世は不条理なのではなく、極めて効率的かつロジカルに成り立っているのです。

たとえば、私たちが記憶をゼロにして生まれてくるのも、一つには未知を深く味わうためのものと言えます。

予期しない物事ほど、魂の波紋は大きくなります。

あらゆる出来事、体験は無味無臭の無色透明ですが、それに触れるとたちの心に波紋が広がり、それが悲しみや喜びとして感じ取られます。

感じ方は人それぞれです。

それでイイ。それがイイのです。

それを味わうことが私たちの存在意義です。

正解が一つしか無いならば、この世には一人だけ存在すれば事足りてしまいます。
そうでは無いからこそ、これだけの人間が存在しているのです。

どのような環境、どのような人生、どのような体験であろうとすべては無色透明です。
そこに優劣はありません。
それは大自然の弱肉強食の世界を見れば明白です。

大自然ですらも、そうなのです。
いわんや人間をや、です。

他人と自分を比べることはナンセンスです。
自分の過去と比べることもナンセンスです。

隣の芝が蒼く見えても、隣は隣です。
今は彼がそれを味わう役目なのですから、勝手にやらせとけばいいのです。

あるいは、自分の過去に華やかな時期があったとしても、それもまた、その時の自分にやらせとけばいいのです。
たとえ目の前の景色が辛く苦しいものだったとしても、今はそれを味わう場面というだけです。

無駄なことは一切ありません。
異なる体験があるだけです。

そしてそれらはどれもが等しく魂の喜びであるわけです。

それでも苦しい時は弱肉強食の野生を思い出してみて下さい。
つい先ほどまで平和に草を食んでいたシマウマが、次の瞬間にライオンに襲われ食べられてしまう。
この時シマウマは、さっきまでの平和を思い今の不幸を呪うでしょうか。
いいえ、おそらく、今の瞬間だけに心を向け続けているはずです。
残酷な言い方に聞こえるかもしれませんが、シマウマは、最期のその瞬間を体験することで未知に触れているということです。

天地が無駄な仕組みを作るはずがないではないですか。
それを人間の価値観で推し量ろうとするから、誤解と苦しみが生まれるというだけです。

この世は全てが完璧です。
そこにある人生は全てが完璧です。
天地宇宙というのはそのように出来ているのだと思います。





いま目の前にある悶々とした日々にしても同じことです。
私たちは一人残らず、この世のあらゆる未知を体験しにきています。

それは分担作業と言うこともできるかもしれません。

今その時その環境を体験しきることが、私たち一人一人の存在意義です。

ポジティブな生活だけを積極的に受け入れ、ネガティブな生活は受け入れられないというのは、天地自然に反しているということです。

私たちは体験をしている時点で目的を果たしています。
生きていること自体が、私たちの生まれてきた理由です。

体感というのは常にこの瞬間です。
瞬間を体験しているという点で、全ての生き物は共通しています。

何年も土の中に暮らしてきたセミが地上で数週間しか生きられなかったとしても、あるいはウスバカゲロウが1日しか生きられなかったとしても、瞬間瞬間を体験していることに変わりありません。
長ければ幸せ、短ければかわいそうというものではないわけです。

私たちは、瞬間を味わうためにこの世に生まれてきました。
時間ではありません。
いま目の前の、この瞬間です。

不自由な日々だろうと明るい日々だろうと、それらをしっかり体験しきることが、私たちの魂の喜びであり、魂を預かった私たちの責任と言えます。

最期のときに、自分の人生を振り返り、ホッとできるのはそういうことなのではないかと思います。

そして、未知の最たるものは、人との交流です

未知と未知の融合ですから、相乗的にハレーションを起こします。

それは、人間レベルの心としてはとてもツラい体験に感じるかもしれません。
しかし、魂レベルでは未知との触れ合いと受け取ります。

自身の人生をどの瞬間もしっかり味わい切るのと同様に、相手もその人自身の瞬間を味わいきっています。

自身のこの瞬間を大切にすることで、他人のその瞬間も尊重することが出来るようになります。

それこそが真の平等であり、多様性の尊重ではないでしょうか。


(おしまい)



自分らしさという虚像

2020-12-05 16:11:00 | 心をラクに
人生というのは嬉しいこと楽しいことばかりではなく、辛いこと悲しいこともあります。

この世に生を受けた目的が、あらゆる体験をすることにあるのならば、そうしたストレスもまた私たちの生きる意味そのものだと言うことができます。

とはいえ、苦しいことを耐え忍んで黙々と修行しろというのでは、あまりに無慈悲すぎます。
私たちは苦しむために生まれてきたはずはありませんし、この世が私たちを苦しめるために存在しているはずもありません。

確かに、生物の進化の歴史を見ると、そこにはストレスが大きく影響しています。
そうなるとストレスそのものが良い悪いではない。むしろ辛いこと悲しいことは私たちにとって必要な事象であるのは明らかです。

つまり、天地は必要なものを私たちに与えているのであって無慈悲なわけではない。
そうなると、そこから派生する「悩み」「苦しみ」というものが不自然なのではないかということになります。

まさしくそれらは人間特有のものであって、他の生き物にはありません。
つまり、もともとそんなものはこの世に存在しないものであり、私たちが勝手に自作自演しているに過ぎないということです。

といって、それを「知恵を持ったための宿命だ」と考えるのは短絡的であり、思考停止と言えます。

人類は太古から生老病死に苦しんできました。
しかしこの世の体験として、それらはどれもかけがえのない事象です。
それを苦しみと捉えてしまうところにこそ問題がある。

私たちは、なぜ自作自演をしてしまうのでしょうか。

何千年、何万年と、人類はそれが仕方のないものだと思わせられてきました。
諦めさせられてきたと言ってもいいかもしれません。

具体的に、身近なところから紐解いていきたいと思います。





現代社会は様々なストレスに溢れていますが、そのほとんどは結局のところ、人間関係に帰結すると言えます。
生老病死のうち、「生」の苦しみの筆頭は、人間関係かもしれません。

仕事の付き合い、身内の付き合い、ご近所付き合い。
そうしたものは現代社会に限らず、太古から存在しました。

私たちは誰しも、自分の好きなようにやりたいわけですが、そうはいかないところから悶々とした感情が生まれます。

もしも他の人が自分と同じ考え、同じ感性であれば、こちらで気を使ったり、気を揉んだりする必要はなくなります。
軋轢や衝突が生じないとなれば、人間関係での苦しみは存在しなくでしょう。

しかし、何から何まで自分と同じ考えの人など存在しません。
人は少しずつ考えが異なるため、自分のことを理解してもらう必要が生まれます。そこに心労が生じます。
誤解されたりするとますます心労がつのります。

理解してもらう必要など無いとして好き勝手にやると、それはそれで疎(うと)んじられ嫌われることになります。
そこでも心労が生まれます。

ましてや、全く意見が合わない人、考え方が違う人というのは必ず居るものです。
多少あわないくらいならばストレスも小さくて済みますが、話が全く噛み合わない、考え方が根本から違うとなると、これはもう大変です。

しかも状況によって、例えば上司とか親戚が相手だと、その考え方に合わせないといけない場面もあります。
これまた大変な心労となるわけです。

心の波立ちというのは、落ち着いていれば鎮まっていくものですが、落ち着く前に次のストレスを受けてしまうと、波立ちはさらに激しくなります。

波立っている状態にあると、小石が飛んでも、たちまち大波と化します。
そのため、波立っている時は防衛本能から相手に過剰に当たるようになります。
イライラしている時に逆ギレするのはそのためです。

イライラを外に出せない場合は、それを押し殺して自らダメージを受けることになります。
それが続くと心や体を壊すことになる。

そうしたことが日常茶飯になると「次また来るかも」という心配がつきまとい、常にハラハラした状態になります。
心が波立っている状態、イライラしている状態というのは、いわば臨戦態勢です。
お互いが臨戦態勢にあると、波立ちの連鎖はエスカレートしていきます。

互いに自分は悪くないと思っているので、自分は引きたくない。相手に降参して欲しい
「相手が謝るのが当然」というのは、相手を屈服させることと同意です。
そうであればこそ、自分が謝ることは相手の軍門にくだることに感じ、自分から謝れなくなります。

これは個人の関係だけでなく、国同士の関係にも当てはまります。
外交といっても、結局は人間関係の延長に過ぎません。

あらゆる言葉や理屈を畳み掛けて相手を屈服させたところで、相手に残るのは傷と恨みでしかありません。
それは経済圧力や武力によって屈服させられた相手国がどうなるか考えれば容易に想像できることです。

個人でも同じです。

自分の安心を求めると、相手は真逆の状態になります。

自分から謝らないと何も事態が変わらない、でも認めたくない、屈服したくない。その機微は相手に伝わります。
自分も悪いが相手も悪いなどと考え始めたら、相手も臨戦態勢を解かず、波立ちは収まらないままとなります。

相手もストレスを受けている。
こちらと同様、相手も波立ちの中にアップアップしているのです。

たとえば相手に力いっぱい腕を掴まれたら、無意識のうちにこちらもグッと力が入ります。
オマエが先に力を抜けと言ったところで無意識レベルの話ですから、それは無理というものです。

臨戦態勢を解くよう相手に強要したところで、相手は余計に波立つ。
つまりは、まず自分の臨戦態勢を解くのが先。

自分が良い悪いではなく、その自問自答そのものを手放すということです。

それは第三者から見れば全面降伏に映るかもしれません。
でも目的が勝ち負けでなく正常化にあるなら、そんな意地など本当にどうでもいい話でしょう。

これは相手の方が強い立場にあったとしても同じです。
たとえ自分が弱い立場だったとしても、自分がこだわっているからこそ自分自身を傷つけることになっているということです。

あれほど仲の良かったカップルだったのに、まわりも信じられないほど互いに嫌悪し合ったりするのは、まさに波立ちの連鎖に因ります。

常にザワザワと心が波立っているため、ほんの少しのことでも大波になってしまう。
それ自体は大したことでなくとも過剰なストレスとなりダメージは果てしなくなる。

生理的にダメ、顔も見たくないというのは、それはもう平時の波立ちが酷すぎるということです。
不安と苦痛から逃れるための防衛本能が、相手のことを考えただけで鳥肌モノとさせるわけです。




こうした極端なケースに限らず、人間関係のストレスというのは、大なり小なり、相手との考え方の違いにあります。

他人との関わりの中で、不安、心配、怒り、悲しみが起こります。

あらためて考えてみましょう。
その波立ちとは誰が起こしたものなのでしょうか?
相手でしょうか?
それとも自分?

石を投げて来たのは相手なんだから、当然、相手ではないか、、、

波長の合う相手だろうが、合わない相手だろうが、衝突した時に共通する言い分は「相手が悪い」「相手が間違っている」というものです。

これは裏を返せば「私は正しい」ということになります。

ちなみに「私は可哀想」というのも、この「私は正しい」の一種です。

世の中には色々な考え方が存在します。
考え方というのは価値観から生まれるものです。
「私は正しい」は、そうした価値観によって生み出されます。

価値観とは、文字どおり、何に価値を置くか、何を良しとするかの物差しです。
ですから、自分の価値観に合えばそれは「正しい」ことになり、合わないことは「正しくない」ことになります。

同時にそれは、合わないものは「価値が無いもの」という危険な因子をはらむことになります。

世の中の対立というのはすべてここから始まっています。
その行き着く先が敵対関係であるわけです。

敵対関係の根源は、お互いの価値観にあります。

自分の価値観にどっぷり浸かりすぎると、異なる価値観は、見ているだけでゾッとするようになります。生理的に。
これが正しいのだ、私こそが正しいのだ、という考えに囚われてしまうと、排他性が極まり、残酷な思考を生むことになるのです。

多様性を訴えておきながら排他的かつ攻撃的な人たちが存在する理由はここにあります。
彼らの中には自分の信じる一つの完成形があって、それに少しでもそぐわないものは「間違ったもの」「正すべきもの」となるのです。

「相手が間違っている」という考えは「相手を正すべき」となり、さらには「駆逐すべし」となります。

黒人差別反対から派生した破壊活動はまさにこのパターンであり、過去の戦争もすべてこのパターンです。

個人同士の軋轢も、民族同士、国家同士の軋轢も、根っこは同じです。
もっと言えば、私たちの日々の悩み、苦しみ、そして悲しみも、すべて根っこは同じです。

「己の正しさ」こそが、すべての大元にあります。

解決するには、相手をどうにかさせるのではなく、自分が手離すということです。

相手を非難・否定するのではなく、自分のこだわりを捨てるということです。

程度の差こそあれ、この世に生きる私たちは誰もがみな「良くないこと→だからそれはダメだ」「正しくないこと→だからこれは違う」という判断のもと日々を生きています。

これはほとんど脊髄反射的に自動判定されています。

自分で考えて判断を出すケースもありますが、日常の多くは、考えるまでもなく自明のものとして、先に結論が出されています。

私たちはそれを追認しているだけなのですが、まるで自分の中からその結論が生み出されたかのような錯覚に陥っています。
自分が考えたものと信じ込んでいるわけです。

今の私たちは、自分の信じる価値観に完全に乗っ取られています。
身も心も預けた信者と化し、おんぶに抱っこの状態にあるのです。

この世には、本当の正しさなど存在しません。
それぞれに信じるものがあるだけです。




もともとの私たちは、まっさらな状態でこの世に生まれてきました。

生まれたての本当にまだ小さい頃、心の中に「いい・悪い」という小さな種が蒔かれました。
まわりの顔色や声色で「相手が嫌がること」「喜ぶこと」という、初期の価値観が植え付けられました。

それは「相手が怒る」「褒める」という反応によっても強化されていきました。

まわりの人たちが何に対して嫌がるか(怒るか)というのは、まわりの人たち自身の価値観に依るものです。
自分が望む望まないにかかわらず、幼いこの時点で、自分を育てた相手から、価値観の相伝が行われるということです。

子どもの頃に撒かれた種は、その後も色々な価値観が塗り重ねられ少しずつ大きくなっていきます。

家庭で蒔かれたケシ粒をそれぞれ持ち寄り、遊びの中で関わり合い、塗り重ね、さらにまた家庭や学校、隣近所、あるいはテレビや本から得たものが塗り重ねられ、整えられていきます。

小さなケシ粒の上に色々なものが塗り重ねられ、形が整えられ、細部まで丁寧に作り込まれていく。

世の中には、その場その場に正しさが存在しており、私たちはそうした正しさに合わせて粘土をこねていきます。
そうして三者三様の粘土細工が作られていくわけです。

その粘土細工は、別の言葉で「自分らしさ」「自分像」とも言います。

家庭での自分像が作られ、会社での自分像が作られ、自分の中での自分像が作られていきます。

私たちは、自分で彫り上げた自分像に服を着せて暮らしているわけです。

子供というのはそれが一つしかありませんので、TPOに関係なく場違いなことをやらかします。
私たちが様々な自分像を使い分けるようになるのは、それぞれの環境によって「あるべき姿」(=正しさ)が異なるからです。

家庭の中での自分。
交友の中での自分。
学校や会社の中での自分。

会社の中で父親のように振る舞うことはできませんし、家庭の中で上司のように振る舞うことはできません。

周囲の人々との関係性の中で、私たちの自分像は無自覚のうちに形作られていきます。

立ち位置が変わると、自動的にその場に合った自分像に入れ替わります。
立ち位置というのは相手との関係性で決まるものです。

このことがよく分かるのが、高校や大学の友だちと久々に会った時です。
その瞬間、私たちは当時の自分に戻り、年齢も立場も忘れて、はしゃぎまわります。

私たちは、その場その場の「正しさ」をもとにいくつも自分像を作っており、まわりとの関係性の中で無意識のうちに特定の自分像を選択しています。

その場その場の正しさというのは、その場その場を支配する価値観によって作られたものです。
会社や学校、家庭といった小さな範囲を支配する価値観もあれば、社会全体を占める価値観もあります。

親とはこういうもの、学生とは、社会人とは、日本人とは、人間とは、、、

固定観念は価値観によるものですし、常識というものも価値観によって作り上げられたものです。
様々な場面の「正しさ」が幾重にも重なり、私たちの社会は成り立っています。

私たちは、人間社会という波立つ海を渡り歩くため、いくつもの自分像をポンポンと飛び石しています。

そうした自分像の中でも最たるものは、言うまでもなく「普段着の自分」です。

これこそが一番のクセモノであるわけです。

様々な場面で使い分けている他の自分像と同じく、普段の自分というものも作られた偶像の一つに過ぎません。
にも関わらず、物心がつく前から身近にあるために、私たちはそれが自分自身だと勘違いしています。

この最も近しい自分像というのは、すでに触れた通り、幼い頃からの環境の中で作り上げられたものです。

そして、それこそが自分にとっての正しさの凝縮でもあります。

自分像とは、これまで信じてきた様々な価値観の集合体です。
だからこそ、自分の信じていることを否定されると、まるで自分自身を否定されたような錯覚に陥るのです。

この自分像の作り主は、まぎれもなく私たち自身です。

たしかに物心もつかない子供にとっては、何も分からず、言われるがままに作ったに過ぎません。
それでもなお、それを作った主体は、親や環境ではなく、私たち自身にあります。

別に、責任の所在をどうこう言おうとしているのではありません。
誰がそれを掴んで離さずにいるのか、という話です。

自己判断を伴わない幼子ですから不可抗力そのものです。
でも「だから仕方がない」「そんな私はかわいそう」と判断してしまうと、話はそこで終わってしまいます。

親が悪い、環境が悪いと、まわりのせいにしてしまうと、一生この自縛から逃れられなくなります。
それどころか、負の連鎖、拡大再生産を招く危険すらあります。

たとえば、
親から受けた仕打ちを我が子に行い、上司に受けた仕打ちを部下に行う。

はたまた、
親から受けた仕打ちを、自ら、自分に行う。
人から受けた仕打ちを、自ら、自分に行う。

親の呪縛は解かれたはずなのに、自分で自分にその縛りを課す。

そもそも人間は、教わったことを疑うことなく吸収する存在です。
何にも濁らず透明に透き通った存在、それが本当の私たちです。

その私たちは、今この瞬間もここに在ります。

ただ、私たちはそこに意識を置かず、今は粘土細工の方に意識を置いているというだけの話です。

そんな作り物の出来に、悩んだり悲しんだりする必要はありません。

「でもこんだけ塗り重ねられた粘土を引き剥がすのは大変だ」「ピカピカに戻すのは困難だ」などというのは単なる思い込みです。

そもそも、その粘土細工は私たちではないのです。
核となるケシ粒からして私たちではない。
引き剥がす作業自体、必要ないのです。

こっちに、透明に透き通った私たちはいます。

今のそれは単なる粘土の塊に過ぎません。
必死にしがみ付くものではありません。
それは本当の自分ではなく、単なる彫刻なのです。




あらゆる悩みや苦しみを生み出しているのは、その自画像、自刻像です。
自分の信じる正しさこそが、様々な苦しさの元凶です。

粘土の彫刻を押し付けたのは親や環境かもしれません。あるいは過去の自分かもしれません。

でも、、それを選んでいるのは私たち自身なのです。

ですから、本当に単純な話。

ただ、手放すだけ。

「え、そんなことしたら何も無くなってしまう」「自分が無くなってしまう」

そんな心配は無用です。
私たちは、そもそも何も無いのです。
これが私だ!なんてものなど最初から無い。
つまり、そんなもの必要ないということです。

「普段の自分」などに縛られなくていい。

何か着てないとマズいなんてことはありません。

何も無い状態こそが、自然な私たちなのです。


(つづく)




『泣きなさい 笑いなさい』 (実践編)

2020-08-10 21:17:00 | 天地の仕組み
[雨ニモマケズ] (宮沢賢治)

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモ マケヌ
丈夫ナ カラダヲ モチ

慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモ シヅカニ ワラッテヰル

一日ニ 玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲ タベ

アラユルコトヲ
ジブンヲ カンジョウニ 入レズニ
ヨク ミキキシ ワカリ
ソシテ ワスレズ

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニ ヰテ

東ニ 病気ノコドモ アレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニ ツカレタ母 アレバ
行ッテ ソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ 死ニサウナ人 アレバ
行ッテ コハガラナクテモイヽトイヒ
北ニ ケンクヮヤ ソショウガ アレバ
ツマラナイカラヤメロト イヒ

ヒドリ(日照)ノトキハ ナミダヲナガシ
サムサノナツハ オロオロアルキ
ミンナニ デクノボートヨバレ

ホメラレモセズ
クニモサレズ

サウイフモノニ
ワタシハナリタイ


(おしまい)






『泣きなさい 笑いなさい』

2020-08-10 21:16:00 | 天地の仕組み
遥か彼方の座席で映画を観ている私たちというのは、今この私たちと一つに繋がっています。

どちらか一つということではなく二つで一つです。
二者は遠く離れているように感じますが、その間はすべて私たちで埋め尽くされています。

それを、何層にも連なっているという言い方もできますが、正確に言えば隙間なく繋がっている状態です。
人間の体に喩えるなら、頭のてっぺんが今この私たちで、足のつま先が映画館にいる私たちといった感じです。

どこで切り取るかによってそれぞれ違うところに存在しているように見えますが、その全てで一つの私たち。
一つ一つが個別に存在しているのではなく、すべてが一つの私たちです。

その一端は、今この現実においても垣間見ることができます。

それはただボーッとしてみれば叶います。
本当にボーッとするだけ。
雑念が湧いてきても、それをそのまま放っとき続ける。
放っといても次々とまた雑念が出てきて、なかなかボーッとできませんが、それでも放っておく。

これは日常生活から物理的に離れた場所のほうがやりやすいかもしれません。

山々の緑や大空を見ながらボーッとする。
川の流れや焚き火を見ながらボーッとする。
海に漂う小魚を眺めながらボーッとする。
大の字で温泉に浸かってボーッとする。

一時間もするといつの間にか雑念は消えて、頭の中が静かになっています。
遠くの鳥の鳴き声や、シーンとした静寂の中に、自分も溶けこんでいきます。

天地に広がる感覚。深くへ広がる世界。
これもまた私たちであるわけです。

現実で繰り広げられるドタバタの毎日。
目の前の世界というのはそれ一色に見えますが、実はそのベースにはいつでもこれが広がっています。

この静寂は消えたり現れたりするのではなく、常に今ここに広がっています。
その上にチョコンと、目の前のドタバタが乗っかっているということです。

そしてこの静寂の下には、さらに静かな広がりがどこまでも連なっています。

夜中、深い眠りについている時、私たちはこの広がりの下へ下へと溶けこんでいきます。

もともと広がっている自分。
さらに微細な広がり。
そして映画を観ている自分へと。

私たちは、つま先まで自分全体の広がりをしっかり味わってから、再びこのてっぺんの先っちょの現実に戻ってきます。

上から下までそのすべてが私たち自身です。

息を吸ったり吐いたりするのと同じように、すべての生き物はこれを繰り返しています。

呼吸によって全身に酸素が循環されるように、この動きによって私たちのエネルギーが循環されます。

この流れを止めて頭の先っちょだけで滞ってしまうと、呼吸や血液を止めるのと同じことが起きてしまいます。
つまり、酸欠や鬱血状態におちいり、たちまち私たちは朽ちてしまいます。

あらゆる生き物たちが、この世において捕食される危険を冒してまで睡眠を摂るのは、そのためです。

ちなみに、言うまでもなく野生生物たちは常に「今この瞬間」に集中しています。
狩られて命を落とすかもしれないという究極の不安にさらされているにも関わらず、それに囚われることなく、目の前のことだけに集中しています。
ですから、眠る時もしっかり眠ります。

しかし私たち人間はそうではありません。

現実のドタバタに囚われすぎると、私たちは頭がフル回転になって、いつでもそのことに縛られたままとなります。
そうなると、寝ていてもしっかり眠れない。
深くまで行けない状態となります。

命を落とすほどの危険があるわけでもないのに、昼間の現実に囚われてしまっているということです。

氷山の頂きだけに偏っているとエネルギーが枯れていきます。
私たちは遥か深遠まで広がっているのに、ほんの先っちょにとどまってしまったら、そうなるのが当然です。

ですから、しんどい時こそ、何もしないボーッとする時間を無理やり作ることが、本当の意味でとても重要となります。

日常から離れて、山道の一歩一歩を黙々と踏みしめたり、湖面に浮かぶ釣り糸に心をまかせたり、ひなびた温泉地でテレビも携帯も忘れてゴロゴロしたり、いつもと違った一枚絵の中に自分を置いてしまう。
がんじがらめに縛りつけてしまった現実への囚われを手離すため、完全に脳をリセットする。

ひたすらボケーっとする。
とことんボケーっとなる。
思考のオーバーヒートを止めて、無限に広がる静寂へと身をまかせる。

単なる理屈や理念だけでなく、この「無」に自分を戻す作業が、実体験として必要なのです。

てっぺんに偏っている私たち、そこで根詰まりを起こしている私たちを、少しずつ緩めて広げていく。
これはまさに、こわばった筋肉をほぐして血流を戻していく作業なのです。

ですから、日中にガリガリと氷山のてっぺんに縛りつけられ酸欠状態になっていながら、休みの日もテレビやネットゲームで暇をつぶすなんていうのは、何の解消にもなっていないわけです。

そんなことを続けたら、エネルギーは枯れ、ますます囚人状態が進み、最期のエンドロールを観ながら歯ぎしりをすることになってしまいます。

ドタバタの一枚絵の下に広がる静寂は、特別な環境に身を置かなくても、いつでも得ることができます。
テレビや携帯を手放し、公園でボーッとする、お風呂でボーッとする、喫茶店でボーッとする、トイレでボーッとする。

目の前の景色というのは単なる絵画です。
その広さや狭さに関係なく、私たちというのは天地無限に広がっているのです。




深層に広がる私たちにまかせきるというのは、天地宇宙にまかせきると言い換えることもできます。

私たちはしっかり護られている、見守られている、ちゃんとコントロールされているわけです。

深層に広がる私たちだろうと天地宇宙だろうと、どちらも同じことなので、自分でシックリくる方を使えばいい。
とにかく、おまかせしきって目の前のことだけに集中すればオールOKというのを納得できること、安心できること、信じきれることが重要です。

そして、くれぐれも、そこに打算や逆算を入れないよう注意が必要です。

たとえばツラい現実に直面した時、映画館にいる自分を思い出して「最後はGOODエンドになるからこれでいいのだ」というのは、できることなら避けたい。

理屈ぬきに「これでいい」というのが理想だと言えます。

もちろん、慣れるまでの方便としてならばアリかもしれませんが、いつまでもそれをやってしまうと自分の本心を誤魔化していることになってしまいます。

これが危ない。
優等生気質が陥りやすい罠です。

自分の本心から目を背け続けるのは、エンドロールで一番後悔するパターンです。

それが良いことであろうと悪いことであろうと、打算や逆算の行動というのは自分の本心を包み隠して押さえつけるものなので、自分自身がもっとも残念に感じることとなります。

ですから、正解狙いや優等生的発想というのは、とにかく即やめた方がいい。

そうなるくらいなら、やらないほうがいい。
やりたいように、やっちまったほうがいい。

自分の欲得や執着に素直になった方が、本当にずっとマシなのです。
それほど、自分自身に嘘をつくというのは、残念無念な行いなわけです。

誰かに褒められたいという思いは捨てちまったほうがいい。なにせ最後の砦たる自分自身こそが残念がるわけですから。
誰からも認められないかもしれないという不安も捨てちまったほうがいい。本心に素直であることこそ自分自身が喜ぶことなのだから。

ですから、ひとたび現実社会に戻ったら、この世の仕組みやネタバラシなど忘れて、目の前のことだけに集中しきることです。

そのために私たちは、わざわざ全部忘れて生まれて来ています。


ところで、天地自然に広がった大きな自分を体感すると、その感覚のままで目の前のドタバタに集中したいと思うところです。
たしかに目指すところはそうなのですが、そこは焦らず気長に考えた方がいいかもしれません。

私たちは一度に一つのことしかできません。
二つのことを同時に出来ないようになっています。

正確に言えば、一瞬一瞬において私たちは一つのことしかできません。

「いや、テレビを観ながらメールをやっている」と思うのはただの錯覚です。
一つ一つの瞬間は必ずどちらかのことしかやっていません。

それほど深く没頭していない時は、別のことに瞬間的に心を切り替えられるだけの話です。
凄い速さで行ったり来たりできるから、まるで同時にやれてるように感じてるだけで、同じ瞬間に二つや三つのことに心を向けているわけではありません。

逆に一つのことに集中しきっている時は、他への切り替えをすることなく連続してそこに心が向いています。
そういう時には、二つのことに同時に心を向けるのが不可能であることを実感します。

これこそが、今この瞬間が一枚絵であること、すなわちこの世には今ココしか存在していないことの証左であり、どうやっても私たちは「今ココ」(=目の前)に集中することしかできないことの証明になっています。

ですから「心を広げようということに意識を使いながら、目の前にフォーカスする」というのはこの世の仕組みとして不可能なことです。

広がるほうに心を使ってしまうと他のことが何もできなくなる。
そうなると、その両立は不可能なのかというとそういうことではない。
心を使わなくてもそれが当たり前になるまで、広がった状態を身体に染みこませればよい。

一度染み込ませれば、あとはそっちのほうに心を使わなくてもそれが自然な状態となる。
そうなれば、心は目の前のことだけに使える、目の前に集中できるということです。

ということで、ボーッする行為は、天地の広がりを身体に染み込ませるための実践トレーニングになります。
まかせきった状態を体が覚えるには、繰り返し繰り返し、数を重ねるしかありません。

ボーッとする。
無になる。

それはしがらみを捨て去った状態です。

しかるに、ボーッとしていると自分が怠けているような罪悪感が湧いてくるとなれば、それは優等生脳の仕業です。
まんまとエゴに騙されています。

実際「ボーッとする」ではなく「無になる」と言い換えれば、たちまち真面目な感じに見えるから不思議なものです。
ただ残念ながら、無になろうとすると無にはなれません。
それは、脳やエゴが主導権を握った状態だからです。

それが「ボーッとする」と言えば不真面目な感じがするけど、簡単に無になれる。

これは本当に大切なことを言っています。

それと同じように、現実に囚われまいと、あの世を強く思いすぎてしまうのも、やはり脳やエゴが主導権を握った状態にあるため血行不全を起こします。

「どうせスクリーンの中の作り話なんだから適当にサラッと流せばいいのだ」とヤル気のない俳優が居たら、どう感じるでしょう。
石に噛りついてでも貪欲に生きようとする姿にこそ、拍手喝采が起こるのではないでしょうか。

一休禅師や禅僧・仙厓義梵は辞世の句で「死にとうない」と言いました。
それはこの世への未練や執着ではなく、目の前への集中から出た言葉です。

つまり、死ぬ間際まで「必死に」生きようとした。
最期の最後まで、目の前のことに一所懸命であったということなのです。




さてここで話を少し広げますと、この世というのは、私たちのまわりの暮らしだけでなく、そこには国があり世界が存在しています。

社会や経済、国際情勢というと私たちからは遠く離れた出来事のように感じますが、どれもが今この目の前の一枚絵の中に共に存在しています。

私たちの日常と、世界の出来事は、決して無関係なものではありません。
そうしたものもまた映画館の私たちを楽しませる要素となっています。

大国同士のいざこざがキナ臭くなっています。
5年後、10年後、想像もつかない嵐の中に私たちは巻き込まれるかもしれません。
でも、それも含めて私たちの芯の部分は楽しんでいるということです。

それは大災害や天変地異であっても同じことです。
私たちからすればそんなものは嫌に決まってますが、それも含めて私たちの芯の部分は楽しんでいる。
生きることを楽しんでいる。

何が言いたいかというと、そうなるのは嫌なわけですが、そうなったら、もうバンザイしかないということです。
諦めろと言ってるのではありません。
回避するために、事前の策も含めて、最期の最後までジタバタするのが私たちの為すべきことです。
ただ、それ以外のことまで囚われる必要はないということです。

この部分、早とちりしやすいのでもう一度言います。

「まだ起きてもいない先々のことに縛られず、目の前のことだけ見ていればいい」ということであって「いま目の前のことまでも斜に構えて適当に流せばいい」ということではありません。

目の前で、紛争や災害が起きたならば、その時の自分の思いには素直になる。

目の前のことに対して自分の中から湧き上がる思いこそは「今ここ」そのものです。
それを誤魔化したり、繕ったりするのは逃げです。
目の前の今をしっかり受け入れることが、私たちの芯の部分が求めていることです。

私たちというのは、遥か深くへ、樹木のように根を広げています。

深く深くに広がる私たちと常に繋がり、そこから栄養が流れてきて地上の幹や葉のように私たちが支えられています。

そして、地上に姿を現している今この世界で、陽の光や空気をいっぱい浴び、それが栄養となって深く深くへと送られています。

それを向こうから見れば、それこそ全く逆の姿となります。
地中深く根を伸ばしている先がこの世界であって、そこでの様々な刺激や体験、それに伴う内的反応が、栄養となって向こうで花を咲かせます。

蓮の花は汚れた泥の中でも美しく咲いている、だから私たちも頑張れば美しい花が咲く、などと言われますが、それだと価値判断や打算の域を出ません。

泥が汚れているというのは私たちの価値基準であり、ただの決めつけです。
蓮にしてみれば、泥というのは栄養豊富な美しく輝くご馳走なのです。

同じように、この世というのも白黒さまざまなものが入り混じった栄養豊富な世界です。
そこには私たちの内から生じる色々な思いも含まれています。

それを泥沼と称するのは勝手ですが、ネガティブに捉えるのは完全な間違いなわけです。

栄養豊富な世界だからこそ、向こうで見事な蓮華が咲きます。

ですから「泥沼だけど」とか「汚れてるけど」とか、そんな先入観こそ余計です。

私たちがここでやるのは、ただ、その栄養をしっかりと味わいきることだけです。



足の先っぽ寄りでもない、頭のてっぺん寄りでもない、今ここに集中することが私たち自身の証明となります。

それぞれ、その時その場所の役割があります。

この世に居る時は、この世に集中しきる。
目の前の一枚絵を味わい尽くす。
自分自身に素直になりきるということです。

先のことやまわりのことなど考えない。
目の前の一枚絵がすべて。

打算も逆算も見栄も何もありません。

これからも、日々の生活は嵐の連続かもしれません。
難破してボロボロになるかもしれません。
世界では争いが激化し、天地も荒れ狂うかもしれません。

それでも、それは私たち自身の芯の部分は、それも含めてヨシとしている。
その中で生きることを楽しんでいるのです。

いま一度言います。

そうなったら嫌だ!というところに、囚われすぎないことです。

大波が来たら回避行動をするのが、この世に生きる私たちの本分ですから、そうならないように今ここでの最大限の努力をする。
ただ、そうした先に、結局そういう一枚絵がやってきたとしても、それはそれで仕方ない。
深層の私たちがそれだけ壮大なスケールのミックス味を求めていた。
ですからその時が来たら、あとはただ、ひたすら泣き喚くのみです。

最後がどうなろうとも、それでいい。
何が正解なんてものは無い。

何が不幸で何が悲劇なのかなんて、表層の私たちが偉そうに決めつけるものではないのです。

私たちは、ただ目の前に集中し、今ここで出来ることを精一杯やり、そして目の前で起きたことには素直に笑ったり悲しんだり、怒ったり怯えたりするだけ。
その瞬間の自分に素直になるのみです。

子供というのは目の前のことだけに一所懸命です。
やめろと言われてもやる。
そのかわり本当に目の前しか見えない。それしか見てない。
他の雑音は入ってきていません。
それだからこそ、些細なことでも泣き、笑い、怒り、喜ぶのです。

それが目の前を100パーセント味わいきる姿です。

今の私たちというのは何者なのでしょう。
自分で自分を作ってしまってはいないでしょうか。

私たちの本当の心は、素直な私たちを望んでいます。

大人ぶる必要はありません。
カッコつける必要はないのです。

目の前のことに全身を投じ、そして湧き上がるままに、泣き、笑い、怒り、悲しむ。

それがすべて。

それこそがこの世に生を受けた私たちの役目であり、存在意義であるわけです。






(おしまい)




平穏無事はつまらなかった

2020-08-05 14:28:00 | 天地の仕組み
次々と仕事やトラブルに追われ続けていると、何もしなくていい状態に憧れるものです。

でも、いざ何もしなくていい状態になったら、それを幸せに感じていられるのは、せいぜい一週間程度かもしれません。

たとえお茶汲みでも掃除でも、何かやることがあればマシですが、「本当に何一つやることが無い」となると、これは本当にツラい。

もちろんパソコンでネットを見たり、携帯をチェックすることも出来ないという前提です。

もしかしたら半日も耐えられないのではないでしょうか。

ウトウトすることもできない、時間潰しのネタもない。
ただ椅子に座って時間が過ぎるのを待つ。
ついつい時計を見てしまうけど、10分も進んでいない。
嵐の忙しさの時はあんなにも時間があっという間に過ぎたのに。

何もやることがない、何もやれない、時が過ぎるのを待つだけというのは、あらゆる苦痛の中で最もツラいものかもしれません。

たとえば、それは一つの絵画だけを見続けるようなものだと言えます。
他の絵を見せてはもらえない。
脇見も許されず、ただ同じ絵だけを見続ける。

仕事を干されて窓際族にされるというのはパワハラの中のパワハラ、ブラックの中のブラックでしょう。

何もしない。何もできない。
そのツラさというのは、喉を掻きむしるような飢餓感に似ています。
まさに飢えであり渇望です。
酸素や食料を求めるのと同じ、本能的なものを感じます。

定年退職したら自由を謳歌しようと心底思っていた人たちも、そのほとんどが一ヶ月もしないうちにまた仕事を始めたくなるといいます。

私たちは、変化が無いと苦しくなる。
外的刺激が無いと心が枯れてしまうのです。




人と関わりあうことがこの世で一番の刺激だと書きました。
たとえ敵であろうと、嫌いな相手であろうと、怒りや憎しみという形で双方向の交流が生じています。

それは人間相手だけではなく、仕事であっても、日々の生活にしても同じことです。
それら景色が刺激となって、私たちの中でパッションが生じる。

何も描かれていない真っ白な絵画を観たところで、何の感情も湧き上がりません。
刺激がなければ、内発的反応は生じないのです。

ですから、ひどい嵐に叩きのめされる一枚絵であっても、苦しみと悲しみに打ちひしがれる一枚絵であっても、それでイイわけです。

次々と目まぐるしく、取っ替え引っ換え、色々な絵を突きつけられても、それでイイわけです。

そこに内発的反応が生じるのですから。

怒り。悲しみ。
いいではないですか。
喜びや笑いだけが価値あるものではありません。

思い描いた理想の一枚絵に巡り合えたら幸せになれるなんてのは幻想もいいところです。
そんなことは、念願かなって理想の絵に巡り合えた私たちがそのとき何をどう感じるか想像してみれば分かることです。

それは、喜び?
いやいや、そんな浅いところで考察を終わらせては何も見えてきません。

その喜びの出どころがどこにあるかです。

喜びの源泉となっているのは、安堵感、達成感、優越感、そういったものではないでしょうか。

では、そんなものに喜んでいるのはいったい誰なのでしょう。安全、安心に喜んでいるのは誰なのか。

それは表層の私たち。生命維持をなりわいとするエゴであるわけです。

深みに広がる私たち自身は、もっと違う喜びを求めています。

絵画や映画を観るとき、私たちは未知の出会い、未知の展開に胸躍らせます。

それに対して、私たちの表層意識、エゴはその逆のことを望みます。
エゴにとっては安全運転こそが絶対正義だからです。

と、ここでエゴを悪者にしたところで何も解決はしません。
エゴは悪さをしているわけではない。
それはそれでちゃんとした理由がある。
何も知らずエゴのことを悪く言うのは親知らずの不幸者となってしまいます。

エゴのせいなどにしてる暇があったらもっと違うことを考えたい。

そう、やたらこだわってきた理想の一枚というのは、単にエゴが幸せと感じるもの、エゴが満足するだけのものだったと、そっちに行き着きたいところです。

そんな一枚をいつまでも気にかけてどうすんだって話です。

深層の私たちとエゴは逆のことを望みます。

そして結局は深層の私たちが望む現実が選ばれます。
今この私たちが望む現実が選ばれることはない。私たちが望むことはなかなか実現しないということです。

量子力学では「観測すれば現実が変わる」「予想したことは現象化しない」とされていますが、この世が何故そういう仕組みになっているのかといえば、まさにそこに尽きると言えます。

深層の私たちは未知を欲してる。
だから現実は予測したとおりにはならない。

未知であることが最優先となるため、予想は外れるようになっている。

これは何もそういう仕掛けや法則があるということではありません。
単に深層の私たちが、未知の現実を選んでいるだけのことです。

表層の私たちが計画してもその通りにはならないし、計画しなかった方が成るように成る。
手放した瞬間に表層の私たちの計画ではなくなるため、それは観測対象ではなくなる。
そのため実現する可能性が急浮上するということです。




私たちはこの世に未知を楽しみに来ました。

先ほどのサラリーマンの話と同じように、あの世の私たちもまた刺激を欲してます。

この世を勤め上げて定年退職したあとには平穏な日々が訪れます。でもやはり、すぐに退屈になってしまいます。
現世であれほど願っていた平穏なんてのはこの程度のものだった。
そうしてまた、賑やかな世界に嬉々として身を投じようとするわけです。

そしてその際、私たちは、さらに楽しめる仕掛けを自ら選択します。
それはつまり意識と記憶の閉鎖です。
消すわけでなく、無いことにする。
存在しているのだけど、繋がないようにする。

生まれてくる時にあちらの心のまま来てしまうと、ネタバレして興醒めになってしまいます。
それどころか、生きること自体ままならなくなる。

たとえば、もしそのまま向こうの心で映画を観ると「これはスクリーンに映る画像にすぎない」となります。
実に冷め切ったクールガイの誕生です。

それが叶えば、人生に一喜一憂などせず、心もいちいち波打たずに済むかもしれません。
不安や心配からも完全解放されるでしょう。
その代わり、感情移入もできず眺めているだけの状態となります。

そんなものはすぐに飽きてしまう。
そんなことするために来たわけではない。

さらにタチの悪いことに、飽きるだけでは済まず、その場に居ること自体がしんどくなってしまう。

冒頭の話を思い出せばその気持ちが分かるかと思います。

何の変化も無い、何の刺激も無いと、私たちは耐えきれず逃げ出したくなってしまいます。

外と内の交流が枯れるとエネルギー切れの酸欠状態になっていく。
だから、どこか別のところに刺激を求めに、無意識のうちに、移動したくなるわけです。

私たちは映画を観に来ています。     
そして、映画に来た目的は物語を楽しむことにあります。
ですから、まずはそれを観る私たちを物語に没頭させる必要がある。
そして何より、スクリーンの演者には、ちゃんと最後まで降板せず演じきってもらう必要があるわけです。

普段、映画を観る時、私たちは主人公に自らを投影させて感情移入します。
それだけでも十分ハラハラドキドキしますが、そのハラハラドキドキをさらに大きくしたいと思ったら、もう映画の中の主人公が本当の自分だと思い込ませるしかありません。

これで、内発的反応は最大化できます。
ハラハラドキドキMAX、メーター振り切りです。

ただ、それだけでは、いつなんどき自らゲームリセットしてしまうか分からない。
なにせ、苦難や苦労、苦痛を盛り沢山にしたストーリーですから、最後まで完走する前に退場してしまう恐れがある。

そのためエゴが必要となったわけです。

食ったり寝たり、生きることに貪欲にならないと私たちはこの世をあっさりギブアップしてしまう。

エゴは、私たちを生かしてくれているのです。




映画を観る時に、私たちは何を求めているかというと、やはり「楽しかったー」という完走感、読後感でしょう。
ハッピーエンドや幸せ展開に限らず、感動ドラマや悲劇・喜劇、ほのぼの日常ドラマでも、それは同じです。

エンドロールが流れて来た時に、ふぅ、と幸せな息を吐けるどうか。

毎食毎食、ステーキだケーキだと好きなものばかり食べていたら飽きてきてしまいます。
幸せ展開のハッピーエンドばかりだとマンネリ化してしまうわけです。

色々なものを味わう楽しさ、そして、それができる自由さを私たちは持っています。

だからこの世は、色々なメニューを味わう人々で溢れているのです。

世の中には「実現の法則」とか「引き寄せの法則」とかありますが、そんなものを使って追っかけようとしているのは、脳みそが考えだした楽しさや悦びでしかありません。
いやそれ以前に、誰かから与えられた思い込みに過ぎないかもしれません。

今の自分が、苦しいと思ったり、人生を無駄にしてると思ったり、もっといい人生があるはずだと思ったりしたとしても、それは今この氷山の一角が考えていることに過ぎないわけです。

映画館の向こうの私たちは単純に「あー楽しかった」というのを求めています。

実現の法則で「こうなりたい」と思い描いたストーリーがそのまま実現したとしても、それはエゴの悦びであって、私たちの芯の部分の悦びではありません。

そんなんでは、この世を去る寸前まで「いやー、上手く行った、楽しかった」と自分では思っていたのに、エゴから離れた瞬間に「もったいないことした、次はこういうのは無しでやり直そう」ということにしかならない。

昔から、輪廻転生は苦しみだと言われますが、その理由はまさにここにあります。

人間脳の考えたことに振り回されて人生を過ごしてしまったことを悔いて、また次の作品を求める。
でもその作品でもまた同じことを繰り返してしまう。
そうして、再度オーディションを受けて、やっとまわってきた映画でもまたも同じことを繰り返してしまう、、、

輪廻転生から抜け出せないことが苦しみなのではなく、執着から抜け出せないことが苦しみなのです。

執着は、私たちの自由を奪います。
だから執着に縛られた人生を歩むと「もったいないことしたー!」と悔いて、「よし次こそは!」とポジティブに思うわけです。

別に自分を責めたり、落ち込んだり、そういう感じでやり直そうと思うのではありません。
クソ真面目な自戒でもないし、ましてや罰則なんかではない。
そこにあるのは純粋に期待感だけです。

自分がダメ人間だなんだと、真面目に悶々と考える話では全くありません。
ポイントはそこではないのです。

ここに輪廻転生が苦しみだとか、衆生は度しがたいとか、おかしな発想が出てくる理由があります。

合格点を取ればいいという世界ではないのです。

自分で自分を評価する必要はありません。
等生をやめないと大切なことが見えないままとなります。

求道心が過ぎると迷宮に入って同じことの繰り返しとなってしまいます。

輪廻の永久地獄(?)から抜け出すために執着を無くそうなどと考えると、それがまた執着となって本来の自分自身の自由を奪うことになります。

エゴは肉体を生かすための利己解釈エンジンを決して止めることはないのです。
そして私たちはこの世に生きるかぎり、そのエゴと離れることはありません。
つまり、何がどうなったところで、私たちの頭の中には必ずエゴの反応は浮かび上がってくる。それを消し去ることなどできないのです。

それをゼロにできたら解脱だなんてナンセンスなわけです。
ゼロになるのはこの世を去った時だけです。

ですから、私たちが出来ることは、頭に自己中心的なことが浮かんでもそれに慌てたり否定したり流されたりせず、はいはいソレね、とスルーすることだけです。

それが解脱といえば解脱かもしれません。
だったら、エゴが反応するたび何度だって解脱すればいいだけのことです。

一度解脱すればあとはラクチンな世界が待ってるだなんて甘い期待は今すぐ捨ててしまいましょう。

そこを履き違えて、煩悩(エゴの反応)を無くすことが目的となってしまうと、もうこれは迷宮入りもいいところです。

だって煩悩そのものは絶対に無くならないのですから。

しかし真面目が過ぎると、
「執着となる対象を目の前から無くそう。よし里を捨てて山籠りだ。(それから五年後…)ご馳走が無いから下品にがっつくことのない俺。合格近し!」
なんてことにもなりかねない。

見た目だけ100点を取ったところで本質は何も変わりません。

結局、死に臨んでそのことを悔いて、やはりまた生まれ直すことになります。
里から逃げず世の苦しみをしっかり味わいつくせば良かった、ご馳走を求めてがっついとけば良かった、となるだけです。

じゃあどうすればいいんだ、という話になります。
何をしても救いが無いじゃないかと。

そんなことはありません。
解脱なんかに目的を置かなければいいだけの話です。

執着上等です。
エリート意識なんか捨ててしまえです。
自分なんぞ、たかだかそんなもんだろと。

そもそも、輪廻転生が良くないものだとするからおかしくなる。

もともとその発想は、生きることは苦しいことなのでそこから卒業したい、という考えに端を発してます。

それというのも1000年も前に、生きること自体が苦しい時代がありました。
まさに生き地獄です。
それでもリタイヤはダメ、とにかく何がなんでも完走させなくてはいけないというのは絶対です。
だから方便として、解脱や輪廻転生というものが説かれました。

先々のことに夢を描き、それをモチベーションとして、人々はなんとか今世を生き切ったわけです。

それはそれで、その時代には必要なものでした。

ただ、お釈迦様はあの世のことを一切語っていません。
ましてや来世のことなど尚更です。

そのことを聞かれても決して答えませんでした。
下手に説いてしまうと何が起きたか、火を見るより明らかです。

遠くに囚われてしまっては何の意味もない。今は今しかない。いま目の前に集中することこそすべて。

ですから、先のことなど考えるだけ無駄。
むしろそんなことすればするほどアリ地獄。
「輪廻転生したくない」ではなくて「輪廻転生したっていいじゃん」と、そう考えれば万事解決なのです。

食べることが大変ではなくなった現代において、輪廻転生からの卒業に憧れるというのは、ことさら執着が根深いかもしれません。
なぜならそれは単に優劣意識に根差している可能性が高いからです。

レベルアップできない人が輪廻転生するだなんてトンチンカンなことです。

この世に生まれることや輪廻転生することがいけないことダメなこと、苦しいこと、負け組だとか思うからややこしくなる。

そうではない。

映画館の席にいる私たちは、ただただ「楽しみたい」だけ
だから、なんだっていいんです。

これが合ってるのか間違ってるのか、そんなことはどうだっていい。

本当にここで大事なのは、たとえイマイチな日々、不本意な日々であっても、そこに集中するということです。

「今と違う景色が他にあるかもしれない」「このままでいいのだろうか」なんて浮気心を起こす必要はないのです。

禅寺の作務のように、目の前の掃除、目の前の食事、目の前の日々だけに集中する。
それこそが「あぁ、もっとこうしとけば良かった」という思いを残さずに済むことになります。

こうしておけば良かったというのは、「こうしておけばもっと上手くいってたのに」ではありません。
「こうしておけばもっと面白かったのに」です。

もっと上手くやれたのにという後悔は、死んでエゴを離れた瞬間に跡形もなく消え去ります。
もっと面白く楽しめたのにという後悔が、次また生まれ直すことになります。

人生に成功したかなんてのは全くどうでもいい。
あの時エゴに流されてしまったかどうか、執着してしまったかどうか。
それこそが心残りとなります。

ですから、今この私たちは、どこか遠くにある幸せを追う必要はないのです。

たとえ平凡な日々であろうとも、あるいは無茶苦茶な日々であろうとも、誠実に目の前のことに集中して過ごすことが、映画館の私たちの悦びとなります。

それでもなお、本当にこれでいいのかと不安があるならば、それこそ実現の法則を使ったり、あるいは神社の境内で手を合わせて、こう祈ればいいのです。

「(今は分からなくていいので)死んだあとに楽しかったーと思える人生を歩ませて下さい」

これで安心。あとは目の前の日々に集中するだけです。

映画館の私たちが楽しいと思うような展開をお任せしたので、もう何の心配もありません。

何度も言いますが、それはジェットコースターのような展開かもしれませんし、変化の少ない日々で終わるかもしれません。あるいは悲劇と不幸のオンパレードかもしれません。
どれが楽しいと思うかは、映画館に入ったその人のその時の気分によります。
他の人と違うのは勿論、自分の中でも一貫性なんてありません。

昨日はカレーの気分だったけど、今日はラーメンの気分。
その程度のものです。
ましてやそれが他人となれば、食べたいものが違って当たり前。

本当はラーメンが食べたいのに、誰かと同じ高級フレンチを頼もうとするのは単なる見栄というものです。
食事というのは、見栄のためでなく、喜びのためにするものですよね。

一度おまかせしたからにはあとは一切疑わない。
どんな展開になっても、それが私の本体の望んだところだと信じきる心です。

「それでも、もしかしたら気づかないまま今の形に執着してしまっているかもしれない…」と不安に思う時こそ、そのこだわりを手放せば大丈夫。
様々な執着というものはすべてが繋がっています。
目の前の執着をなくせば、遠くの執着も薄れていきます。

「おまかせしたからにはあとは大丈夫」

その諦めこそが、あらゆるこだわりを解かし、自然とレールも自動修正されていくことになるのです。





(つづく)