以前に書いた『お手軽な呪文』の中で、「心はものすごいエネルギー」という表現をしました。
そのエネルギーの正体とは、心そのものではなく、まさしく根源から湧き出る生命エネルギーであると言うことができます。
それというのは、私たちのまわり、この天地宇宙に充満しているものであり、氣とかご神気とか呼ばれるものと同じものであるわけです。
ですから、雑念が消えることで私たちも天地宇宙の物凄いエネルギーへ純化していく、というような話になってまいります。
さて今日のタイトルですが、これは『透明な力』(木村達雄著、講談社刊)からお借りしたものです。
この本には、大東流合気武術の佐川幸義先生のことが記されていまして、そのなかには「触れた瞬間に動けなくなってしまう」とか「大勢で
かかっても一瞬で吹っ飛ばされてしまう」という話が残されています。
超能力というと安っぽくなってしまいますが、要するに、物理の原理原則を超越した見えない何かが働いているということであります。
技は今も伝承されているそうですが、その仕組みについてははっきりとは解明できてないようです。
こういうものは感覚の問題なので、理詰めで解くことはなかなか難しいのではないかと思います。
ただ、ご本人の言葉の中に数多くのヒントが隠されています。
佐川先生は日課として、ひたすら重い棒を振ったり、四股を踏んだり、様々な基本稽古をなんと千回単位でもって繰り返していたそうです。
また、身体だけでなく頭のほうでも、夜も寝ずに四六時中とことん合気のことだけを考え抜いていたと言います。
まさに、合気という一つのことに己の全存在をかけておられたわけです。
そのことをご本人は「執念」という表現をされていますが、そこに囚われというものは一切感じられませんので、これは「極限までの集中」
という意味になるかと思います。
筋肉やスピードという物理的な鍛錬成果ではなく、「今」への極限の集中と我執の透明化により、見えない何かに繋がった。
ですから、根性論だけで同じ形を何千回やったところで、決してその境地には達しないということになります。
やり方を誤ると執着を鍛えることにしかならず、むしろ逆方向の努力になってしまう恐れがあります。
これは私たちの日常においても、起こしやすい間違いと言えるかもしれません。
目的が何であれ、少しでも欲得が混じってしまうと、頑張れば頑張るほど囚われが強化されてしまうということです。
逆に、何千回もの厳しい反復というのは、頑張りを越えて無心に至らないと達成できないような異常な回数を課すことによって、心に囚われず
ひたすら「今」だけに集中することを目指したものであったのではないかと思います。
そうやって我執を無くしていくことで、天地との壁がなくなり、天地そのものとなって、天地のエネルギーと一つになっていった。
佐川先生自身、技そのものよりも、そうした凄まじいルーチンこそが絶対に必要だと仰られ、老齢になられてからも、それを
怠らなかったと言います。
凡人としてはそこまでやりこめば少しくらい数を減らしても大丈夫そうなものと考えてしまいますが、心というものはそれほどまでに移ろい
やすいものなのでしょう。
だからこそ物理的鍛錬としてではなく、身体感覚を刷り込むための作業として、感覚優位の状態を
維持しようとされたわけです。
それは、頭では心を抑えることはできないが、感覚を追えば囚われが薄まることを示しています。
それは私たちも経験していることです。
温泉にじんわりと浸かった時や、ポカポカした春の陽射しにあたった時、あるいは森林の空気や滝のマイナスイオンに触れた時、瞬間的に全ての
囚われが消えて無くなります。
感覚を追えば執着が薄まるということは、執着が薄まれば感覚が広がるということでもあります。
つまりは「透明なこころ」こそが「透明なちから」の正体だといえるわけです。
武道に限らず、一つの道に身を投じた求道者、武骨な職人、あるいは真面目に生きてきた普通の会社員や主婦であっても、「透明なこころ」を
体現している人であれば、同じように「透明なちから」を発しているに違いありません。
先日も書きましたが、包容力のある人物や、高僧と言われるような方たちと同席しますと、それだけでホンワカした心地になります。
それを「徳がある」と表現することもあります。
この温かくて気持ちの良い雰囲気、空気感というものこそ「透明なちから」と言えるわけです。
佐川先生は武道家だったので、それが人を投げ飛ばすという、誰の目にも見える形になりましたが、それと同じ空気感を他の分野の方たちも
発しているのではないかと思います。
そしてこの「透明なちから」こそが、天地のエネルギーでありご神気であり生命を生かしてくれるものであり、表現を変えれば、寛容さであり
愛というものなのではないかと思います。
佐川先生以外にも武道の世界でこの天地の力を体現された方として、同じく合氣道の藤平光一先生がいらっしゃいます。
藤平先生は、若いころに不治の病といわれた肋膜炎にかかり、必死の修行を経てそれを治されたそうです。
また、その師である中村天風先生も当時不治の病だった肺結核にかかって、命がけの修行でそれを治しています。
いずれの場合も、命に関わる大病によって我欲や我執に向き合い、天地の理に氣づき、道を極める
に至りました。
佐川先生は、透明なちからのことを「合気」と表現し、自分の生きているうちにそれを弟子たちが掴まないと、絶対に分からないと断言されて
いました。
理屈を教わって分かるものではない、言葉で説明されて分かるものでもないとして、「やられた感じをもとに自分のものとしていくべきもの」
と仰いました。
まさにそれと同じことが職人の世界にも見られます。
口で教えたりせず、道具を触らせることもさせず、師匠を黙って近くで見ているだけということを何年も続けさせるというものです。
場合によってそれは、職場だけでなく24時間、寝食までも共にさせたりします。
つまりは師匠から溢れる見えないもの、雰囲気、すなわち「透明なちから」を感覚で掴む、写し取る、それに染まるということなのだと思います。
初めから理詰めで入ってしまうと、一生その感覚を体得することはできません。
なぜ師匠のようにできないのか?何が違うのか?などと頭で考えれば考えるほど囚われが強まってしまい、毛穴が閉じて、感覚をキャッチする
ことができなくなります。
昔の人はそれが分かっていたから、理屈ではなく感覚の方から伝えようとしたのでしょう。
テクニックなどは、あとからいくらでも教えられるものであるということです。
もし最初から技に走ってしまうと、確かにある程度までは急速に伸びるでしょうが、そこから先はどうにも進めなくなります。
見た目だけに走る限界です。
そして一度そうなってしまうと、余計な知識や観念が邪魔してしまい、感覚からの吸収が困難になってしまうというわけです。
現代社会はまさにこのパターンに陥っているといえます。
できるだけ時間も労力も削り、結果だけを求め、理屈やテクニックに走る姿をいたるところで見かけます。
それを効率的と呼ぶのは簡単ですが、それではいったい何のための結果か?ということです。
刻むべき日々は使い捨てにされ、あとに残るはスカスカの張りぼてだけ。
出来た瞬間に用無しになってしまい、また次の張りぼてを作らなくてはいけない。
明らかに行く先が窮してしまっています。
自分が何をしているかなど関係ない、まさにまわりが見えていない状態と言えます。
理屈に走るというのは、目の前の「今」から離れてしまっている状態です。
その証拠に、考え事をしている時は自分のまわりが何も見えなくなります。
つまり、存在していない状態となります。
心も意識も感覚も「今」に全く向いていない状態になるわけです。
逆に囚われがなくなっている時は、まわりの全てを感じています。
「今」に生きるとはそういうことだと思います。
フットワークが軽い器用さよりも、融通のきかない武骨さの方が、天地においては健全な姿であるわけです。
佐川先生のように一日何千回も鍛錬を積むことは出来ないかもしれませんが、日常の生活一つ一つに心を向けるくらいならば、私たちにもできる
ことです。
それは言い変えれば、その一つ一つがすべて、囚われを無くす稽古になっていくということでもあります。
「天地と一体となる」と言うとハードルが高すぎて気負ってしまうところですが、「徳のある雰囲気」「ほっこりとした空気感」と言い換えれば、
なんとも身近に感じて、俄然、魅力が増してきます。
そして日常生活の一つ一つというのは、食事や掃除、洗濯、ドライヤーやヒゲ剃り、そうした他愛もないことを指します。
そうした一つ一つのことを、その時だけは集中してやる。
他のことは一切考えない。
なーんだ、たったそれだけ。
簡単なことじゃないかって思われるのでないでしょうか。
そう、たったそれだけなのです。
それだけのことで私たちも天地と一体となり、天地そのものになり、透明な力に包まれるのです。
その時その時、一つ一つのことに心を向ける。
そうしていくことで徳のあるホッコリした雰囲気が出来あがっていくわけです。
そのエネルギーの正体とは、心そのものではなく、まさしく根源から湧き出る生命エネルギーであると言うことができます。
それというのは、私たちのまわり、この天地宇宙に充満しているものであり、氣とかご神気とか呼ばれるものと同じものであるわけです。
ですから、雑念が消えることで私たちも天地宇宙の物凄いエネルギーへ純化していく、というような話になってまいります。
さて今日のタイトルですが、これは『透明な力』(木村達雄著、講談社刊)からお借りしたものです。
この本には、大東流合気武術の佐川幸義先生のことが記されていまして、そのなかには「触れた瞬間に動けなくなってしまう」とか「大勢で
かかっても一瞬で吹っ飛ばされてしまう」という話が残されています。
超能力というと安っぽくなってしまいますが、要するに、物理の原理原則を超越した見えない何かが働いているということであります。
技は今も伝承されているそうですが、その仕組みについてははっきりとは解明できてないようです。
こういうものは感覚の問題なので、理詰めで解くことはなかなか難しいのではないかと思います。
ただ、ご本人の言葉の中に数多くのヒントが隠されています。
佐川先生は日課として、ひたすら重い棒を振ったり、四股を踏んだり、様々な基本稽古をなんと千回単位でもって繰り返していたそうです。
また、身体だけでなく頭のほうでも、夜も寝ずに四六時中とことん合気のことだけを考え抜いていたと言います。
まさに、合気という一つのことに己の全存在をかけておられたわけです。
そのことをご本人は「執念」という表現をされていますが、そこに囚われというものは一切感じられませんので、これは「極限までの集中」
という意味になるかと思います。
筋肉やスピードという物理的な鍛錬成果ではなく、「今」への極限の集中と我執の透明化により、見えない何かに繋がった。
ですから、根性論だけで同じ形を何千回やったところで、決してその境地には達しないということになります。
やり方を誤ると執着を鍛えることにしかならず、むしろ逆方向の努力になってしまう恐れがあります。
これは私たちの日常においても、起こしやすい間違いと言えるかもしれません。
目的が何であれ、少しでも欲得が混じってしまうと、頑張れば頑張るほど囚われが強化されてしまうということです。
逆に、何千回もの厳しい反復というのは、頑張りを越えて無心に至らないと達成できないような異常な回数を課すことによって、心に囚われず
ひたすら「今」だけに集中することを目指したものであったのではないかと思います。
そうやって我執を無くしていくことで、天地との壁がなくなり、天地そのものとなって、天地のエネルギーと一つになっていった。
佐川先生自身、技そのものよりも、そうした凄まじいルーチンこそが絶対に必要だと仰られ、老齢になられてからも、それを
怠らなかったと言います。
凡人としてはそこまでやりこめば少しくらい数を減らしても大丈夫そうなものと考えてしまいますが、心というものはそれほどまでに移ろい
やすいものなのでしょう。
だからこそ物理的鍛錬としてではなく、身体感覚を刷り込むための作業として、感覚優位の状態を
維持しようとされたわけです。
それは、頭では心を抑えることはできないが、感覚を追えば囚われが薄まることを示しています。
それは私たちも経験していることです。
温泉にじんわりと浸かった時や、ポカポカした春の陽射しにあたった時、あるいは森林の空気や滝のマイナスイオンに触れた時、瞬間的に全ての
囚われが消えて無くなります。
感覚を追えば執着が薄まるということは、執着が薄まれば感覚が広がるということでもあります。
つまりは「透明なこころ」こそが「透明なちから」の正体だといえるわけです。
武道に限らず、一つの道に身を投じた求道者、武骨な職人、あるいは真面目に生きてきた普通の会社員や主婦であっても、「透明なこころ」を
体現している人であれば、同じように「透明なちから」を発しているに違いありません。
先日も書きましたが、包容力のある人物や、高僧と言われるような方たちと同席しますと、それだけでホンワカした心地になります。
それを「徳がある」と表現することもあります。
この温かくて気持ちの良い雰囲気、空気感というものこそ「透明なちから」と言えるわけです。
佐川先生は武道家だったので、それが人を投げ飛ばすという、誰の目にも見える形になりましたが、それと同じ空気感を他の分野の方たちも
発しているのではないかと思います。
そしてこの「透明なちから」こそが、天地のエネルギーでありご神気であり生命を生かしてくれるものであり、表現を変えれば、寛容さであり
愛というものなのではないかと思います。
佐川先生以外にも武道の世界でこの天地の力を体現された方として、同じく合氣道の藤平光一先生がいらっしゃいます。
藤平先生は、若いころに不治の病といわれた肋膜炎にかかり、必死の修行を経てそれを治されたそうです。
また、その師である中村天風先生も当時不治の病だった肺結核にかかって、命がけの修行でそれを治しています。
いずれの場合も、命に関わる大病によって我欲や我執に向き合い、天地の理に氣づき、道を極める
に至りました。
佐川先生は、透明なちからのことを「合気」と表現し、自分の生きているうちにそれを弟子たちが掴まないと、絶対に分からないと断言されて
いました。
理屈を教わって分かるものではない、言葉で説明されて分かるものでもないとして、「やられた感じをもとに自分のものとしていくべきもの」
と仰いました。
まさにそれと同じことが職人の世界にも見られます。
口で教えたりせず、道具を触らせることもさせず、師匠を黙って近くで見ているだけということを何年も続けさせるというものです。
場合によってそれは、職場だけでなく24時間、寝食までも共にさせたりします。
つまりは師匠から溢れる見えないもの、雰囲気、すなわち「透明なちから」を感覚で掴む、写し取る、それに染まるということなのだと思います。
初めから理詰めで入ってしまうと、一生その感覚を体得することはできません。
なぜ師匠のようにできないのか?何が違うのか?などと頭で考えれば考えるほど囚われが強まってしまい、毛穴が閉じて、感覚をキャッチする
ことができなくなります。
昔の人はそれが分かっていたから、理屈ではなく感覚の方から伝えようとしたのでしょう。
テクニックなどは、あとからいくらでも教えられるものであるということです。
もし最初から技に走ってしまうと、確かにある程度までは急速に伸びるでしょうが、そこから先はどうにも進めなくなります。
見た目だけに走る限界です。
そして一度そうなってしまうと、余計な知識や観念が邪魔してしまい、感覚からの吸収が困難になってしまうというわけです。
現代社会はまさにこのパターンに陥っているといえます。
できるだけ時間も労力も削り、結果だけを求め、理屈やテクニックに走る姿をいたるところで見かけます。
それを効率的と呼ぶのは簡単ですが、それではいったい何のための結果か?ということです。
刻むべき日々は使い捨てにされ、あとに残るはスカスカの張りぼてだけ。
出来た瞬間に用無しになってしまい、また次の張りぼてを作らなくてはいけない。
明らかに行く先が窮してしまっています。
自分が何をしているかなど関係ない、まさにまわりが見えていない状態と言えます。
理屈に走るというのは、目の前の「今」から離れてしまっている状態です。
その証拠に、考え事をしている時は自分のまわりが何も見えなくなります。
つまり、存在していない状態となります。
心も意識も感覚も「今」に全く向いていない状態になるわけです。
逆に囚われがなくなっている時は、まわりの全てを感じています。
「今」に生きるとはそういうことだと思います。
フットワークが軽い器用さよりも、融通のきかない武骨さの方が、天地においては健全な姿であるわけです。
佐川先生のように一日何千回も鍛錬を積むことは出来ないかもしれませんが、日常の生活一つ一つに心を向けるくらいならば、私たちにもできる
ことです。
それは言い変えれば、その一つ一つがすべて、囚われを無くす稽古になっていくということでもあります。
「天地と一体となる」と言うとハードルが高すぎて気負ってしまうところですが、「徳のある雰囲気」「ほっこりとした空気感」と言い換えれば、
なんとも身近に感じて、俄然、魅力が増してきます。
そして日常生活の一つ一つというのは、食事や掃除、洗濯、ドライヤーやヒゲ剃り、そうした他愛もないことを指します。
そうした一つ一つのことを、その時だけは集中してやる。
他のことは一切考えない。
なーんだ、たったそれだけ。
簡単なことじゃないかって思われるのでないでしょうか。
そう、たったそれだけなのです。
それだけのことで私たちも天地と一体となり、天地そのものになり、透明な力に包まれるのです。
その時その時、一つ一つのことに心を向ける。
そうしていくことで徳のあるホッコリした雰囲気が出来あがっていくわけです。