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国を護るのは私たちです

2015-07-13 22:36:50 | 国を常しえに立てます
東京に来ますと、あまりに偏った報道にウンザリしてしまいます。

確かに政府は少し慌てすぎの感はありますが、とはいえ、法解釈を変えると危機を招くなんてことを本気で信じている人がどれだけいるのでしょうか。

一部の人たちが大騒ぎしているだけなのに、あたかも全体がそうであるかのような印象操作に思えてなりません。

金切り声で、ただ反対のための反対を叫んだり、確信犯的に危機感や不安感を煽りたてる女性議員の姿が連日ニュースに流れています。
なぜこの人ばかり注目されるのでしょう。
視聴者の興味よりも報道側の作為の方が優先されてはいないでしょうか。

そもそもその人物からして、内容以前に、衆目の場で注目されることに胸踊っているのがヒシヒシと伝わってきます。
その憤った姿とは裏腹に、内面の喜びが全身から溢れ出てしまっています。

さすがに、必死に署名活動をやったり集まって叫んだりしている人たちはそれとは違うとは思います。
ただ、理想を追い求めすぎて今の現実が見えなく
なっていたり、規則や規律を守ることが絶対正義と信じて生きてきた人生が、どうしても見え
隠れしてしまいます。

もしかしたら、先ほどの女性議員にしても確信犯などではなく本気で憂い心配しているのかもしれません。
でもストレートに言ってしまえば、それは己の乱された心を元に戻したいためだけのヒステリーだったり、全体を見ずに一点のみにしがみつく
偏狭でしかないように思えます。

そして今ここに至っては、さすがに気がついてないはずはありませんので、ただ己の幻想を汚したくないがために現実を見まいとしている、
もしくは規則や規律から脱線することを生理的に嫌がっているだけと言わざるを得ません。

ただそのような中でもクレバーな人たちは、この先の世界情勢をきちんと想定した上で、意図的にそうした言動を取っているように感じます。

下手に頭が回るだけに、そうした本心を隠し、もっともらしい言葉を並べ、不安を煽りながら大衆を誘導し、本流を決壊させようとしています。

そうした人たちからすれば、キンキン声で叫ぶ人というのは、都合のいい演者ということになります。

こうした夢見心地の幻想というのは、誰もがさすがに現実離れしてると感じてたはずなのですが、まさかここにきて現政権の支持率低下という
報道がされてしまうと、冗談では済まされなくなってきます。

知識人やマスコミがこぞって浅はかなケチをつけ続けると、目先を惑わされて洗脳されてしまうのでしょうか。

その有り得ない現実に、憤りのあまり思わず口を滑らせてしまう議員が出るような始末です。

しかしそのこと自体が格好の材料となり、揚げ足取りが加速してしまいました。
もちろんこの議員たちもまだまだ幼いとしか言えず、大変に残念です。
わざわざ低次元で叩かせるようなネタを提供してしまったのは痛恨の極みです。

マスコミは強い政権を見ると本能的にこれを叩き落とそうとするものです。
そこには正しいか正しくないかといった理屈など存在しません。


アンチテーゼという対立構造こそが自己の存在理由であるからです。

非難したいという衝動が先にあって、理屈や大義名分などはあとから付け加えているだけです。

マスコミや知識人たちは論理をすり替え、違う土俵へ移してしまうことを得意中の得意としています。
本来はそんなところに論点はなかったはずなのに、民衆の不安や怒りを煽るポイントを的確に突いて誘導していきます。

目の前に差し迫った国の危機と、何となく強引に見えることへの心理的な抵抗感を、同じ土俵で語るというのはどう考えても無茶苦茶な話です。

感情というエネルギーは本当に盲目的なものです。
そこに心が向かうと、瞬時にそれが100%となって、他の全ては視界から消えて見えなくなります。

そこのところを巧みに突いてきます。

とても大切な内容について、広く深く、様々な切り口から冷静に考えていかないといけないのに、一瞬にして、狭く浅く幼稚な視点にフォーカス
させてしまいます。

そして感情的な好き嫌いというレベルに落としめてから、フェアネス精神を全面に出して「もっと様々な論議を尽くすべき」として、関係のない
箱までひっくり返してグチャグチャにして焦点をボヤけさせて「何だかよく分からないけど嫌な印象だけ残る」ように仕向けるわけです。

だから、現総理はわざわざ子供に絵本を読み聞かせるように譬え話をするしかなくなりました。
論点を整理すれば、もともと誰にでも分かる話だからです。

しかし、マスコミや野党はその努力までも揚げ足を取って非難の材料にします。

幼少期に戦争を実体験してその悲惨さが強烈に焼き付いている世代の一部は、そのあとの人生を平和に過ごせたが故に、いま目の前に迫る危機を
冷静に判断できない、いや、冷静に判断したくないという状況に陥っています。

現状を変えることが、平穏な日々を失うことに思え、過去のトラウマが恐怖となってしまうわけです。

あるいはまた、我が子を戦地に送りたくないという母親たちにしても、実はこのまま座して待つことの方が戦場に置かれることになるのを理解
できずにいます。

現総理は石つぶてを投げつけられて泥と血にまみれようとも己を顧みず、この国と私たちを護ろうとしています。
言い過ぎかもしれませんが、それはゴルゴダの一場面と重なって見えます。

数々の名作を世に送り出してきた聡明な映画監督ですら、いつもの冷静さを失って、決めつけの論理でもって自らの景色を翳らせてしまって
います。

何故、これほど傷だらけの総理の姿を見て、それを自己満足の売名行為などと思えるのでしょう。
信念や感情に囚われてしまうと、ありのままの姿が見えなくなってしまうのでしょうか。

このようや偏向報道が繰り返されると、誰だって不安になるのが当たり前です。

自分たちは政治家に騙されているのではないか?
学者や弁護士がこれだけ騒いでいるから本当にヤバいんじゃないか?
第一、最近の自民党は傲慢すぎる!
何でも思い通りになるなんて勘違いさせてたまるか!
黙ったまま騙されるくらいなら、取り敢えず先送りの「NO」だ!


これが大衆心理というものです。
感情に走ると理屈ではなくなります。

そうであればこそ、今、私たち一人一人がしっかりと自分の柱を天地に立てる必要があります。

今のアジアの緊張状態をしっかりと見てみましょう。
近い将来どのようなことが想定されるでしょうか。
本当に何も起きないと思いますか?

中国が戦争なんてするはずがないと、ナゼ決めつけられるのでしょうか?
それは単に、私たち日本人の視点でしかないと思いませんか?

戦争か無益だというのは私たちの価値観でしかありません。
この世にはそれが有益だと考える人たちだって居るのです。

常識というのは一人一人違うものですし、それが国単位になれば尚更です。
爆買い集団のマナーを見ていればそんなことくらい簡単に分かるはずです。

中国という国が、経済的にも国政的にも今どういう状態にあるか考えてみましょう。
アメリカが、今どのような状態にあるかも。
戦争というのは、どういう時に起きるのでしょうか。
ウクライナ情勢を見て、分かることがあるはずです。

「悪いことをしたら孤立する、責められる、損をする、だからやるはずがない」というのは幻想です。

そして何故ここまで焦って法案成立をしようとしているのか。
この案件を審議する前までは支持率も高かったわけですし、普通に考えれば時間をかけて慎重に進めれば、わざわざ大勢を敵に回さなくとも
法案は可決したと思いませんか?

それを、アメリカに脅されているとか、タカ派の戦争屋が本性を現したなどと言うのは簡単です。
でも、ここまであれだけ慎重に進めてきた総理がそこまでやるのは、待った無しの理由があるからと思えませんか?
いずれ成立させればいいというのでは遅いと。

すでにその一端が先日の上海株式でも見られました。
破綻してからの体制作りでは遅いのです。

その時すでにシッカリとした体制ができていることが、彼らの暴発を防ぐことになります。
しかしそんな話を一国の総理が出来るはずありません。
責任ある立場の人間は、自ら引き金をひくようなことはしません。

前例しか見えていないと、この先の様々な変化は想定できなくなります。
同じ状態が続くだろうというのは、単なる願望であり、思考放棄です。
それは自分勝手な理屈でしかなく、相手のことを何も考えていません。

どれだけ正論を並べたところで、現状を変えずに守り続けたいという主張は、結局は自分のことしか考えていないのです。

本当に相手(相手国)に心を向けていれば、相手(相手国)がやりたいようにやるだろうということが当たり前に分かります。

ナゼ、「そんなはずはない」と、こちらの理想を相手に押し付けられるのでしょうか。
それは相手を見ていないことと同じです。
拒絶していることに他なりません。

相手のそのままを受け入れていれば、善悪や良し悪しの判断など加えることなく、ありのままの姿が見えてきます。

あの国が経済発展してるだとか、一つにまとまってるとかいうのが実は幻想でしかないことは、他の誰でもない、当事国である彼らが一番よく
分かっています。
そして、戦争や侵略というのが現状打破の手段として有り得ることも、彼らは極めて冷静に現実的に認識しているのです。

「私たちに向かって戦争責任を叫んでいる当事国なのにそんなバカな」と思うのは単なるお人好しです。

それでも自分はイイ人でありたい、お人好しでもイイというならば、それはそれで一人で勝手に
浸っていればいいだけの話です。
口には出さず静かにしていればいい。
そんな自爆も厭わぬような自己満足に、まわりの人たちを巻き込むのは筋違いも甚だしい。

「集団的自衛権などやったところで中国は抑えられない、他の方法があるはずだ」などと綺麗事を言うのは簡単です。
ならば何をやれるのでしょうか。

具体的な対策も無いのに、スカッとカッコよく極めたいだけの無責任発言は慎むべきです。
心清らかに座して待てば天佑が現れるなどと言うのはファンタジーの世界でしかありません。

最後まで必死にあがく人を、天は助くのです。

マスコミや知識人たちの狡猾な誘導で、違う土俵へと目を逸らされてしまうことは本当に恐ろしいことです。

何となくモヤモヤするから反対しようという、情緒だけに流される今の空気感は、過去にもありました。
民主党への政権交代の時です。

誰が見ても左巻きの集団で危ういと分かりきっていたはずなのに、何故かその時みんなの思考は停止して、ただ目先の感情に流されてしまいました。

あの時も、そして今も、冷静に考えれば誰もが分かることなのです。
あの時の、言いようのないもどかしさを今また感じています。

「現状は変わらない」のではなく、すでに変わっているのです。
ですから私たち自身も変わらないと、逆に危ういということです。

大災害に備えずボーッとしたままでいるほうが、甚大な戦死者を招いてしまいます。

相手のことを本当に思い、キチンと心を向けるというのは、相手がどのように考えて何を思うかに関係なく「そのままを受け入れる」ことです。

それは美化したり、あるいは非難したりすることではなく、どのようなものであってもそのままに冷静に映し見る(認める)ということです。

そこに自分勝手な価値判断を入れてしまうと、相手を嫌って悪意の拡大解釈となったり、逆に架空の理想像へと美化しすぎてしまったり、どちら
にしても現実とは異なる虚像が生まれてしまいます。

何であろうと、勝手な価値判断を加えなければ、自然のありのままが映ってきます。

その景色を、良い悪いとか好き嫌いとか判断するのではなく、そうしたものを映し見た上で私たちは何を対処するのかということに尽きます。

善悪や好悪を混ぜこぜにすると景色がボヤけてしまい、道を誤ります。
これは国の話だけでなく、日頃の対人関係においても言えることです。

人の延長に国があるのですから、それが同じであるのは当然と言えます。

関西に居た時は、そうした対人関係においても「相手は相手」「自分は自分」という空気がありました。
群れなすことなく、それぞれの我が道を尊重していました。

それは冷たさではなく、受け入れていることに他なりませんでした。

それゆえ、たかじんや橋下さんのような人たちが大いに受け入れられていたわけです。

そして、ここが一番大事なのですが、みんなそうした人たちの姿を面白がりはするけれども決してそれに迎合することはありませんでした。

近しくして同調共感するのではなく、突き離したところでそのままを受け入れて面白がっていたわけです。

このスタンスはとても大事だと思います。
迎合することが優しさや親しさになるというのは勘違いも甚だしいことです。

やしきたかじんの番組は、どれも時勢の的をついた辛口の内容でした。
そうした番組が西日本だけでなく東北でも放送されているのに、実は関東圏だけがスポンサーや上層部の関係で放送されていないということが
この国のイビツさを物語っています。

誰からもクレームがつかないことを良しとする安全思考、減点ゼロ狙いの八方美人な優等生思考がそこにはあります。
さらには、より深刻な反日事情もあります。

そうしたものが、いま安保論議を無茶苦茶にしてしまっている元凶と言えるかもしれません。

衝突を恐れるあまり相手に迎合して自らの優しさや親しさ、大人らしさを保とうとする姿勢は、己の弱さ、自信のなさ、許容力の無さ、恐れの
裏返しに他なりません。


そんなものは長続きするものではなく、結局は最後に大きな傷を負うことになります。

地方から多くの人が集まって形成された都市だからこその、肌を触れる痛さや怖さといった、人間関係の脆さがそこにはあります。

関東以外のエリアであれば、正直ベースでやり取りする人たちに対して野暮なクレームをつけるような輩はツマはじきにされます。
だから、たかじんの番組にしても、誰かにケチをつけられたとしても、それを上まわる冷静な人たちによって視聴率ナンバーワンが稼げているわけです。

野党の口撃や市民運動、マスコミの偏向報道を見ているとまさに野暮なクレームそのものです。

それはテレビの中の話ではなく、私たちが現実に生きるリアルの世界の話です。
感情的な空気に流されて安易に視聴率(支持率)を押し下げてしまったら、取り返しのつかないことになります。
決してテレビの向こうの話ではないのです。

ですから、今こそ私たち一人一人が自分の中心に柱を立てて、ありのままの姿を自分の心に映し見ることが大事なのです。

そして何が本当に必要なのか、誘導に惑わされず自分たちで認識しなくてはいけません。

どこか遠い世界の話などではないのです。

この国を護るのは、まさしく私たち一人一人であるのです。



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