私たちが日々の一瞬一瞬をチョキチョキと切り続けているのは、実は、紙を切ろうとする思いそのものを手放すため
とも言えます。
それは、『こう切ってやろう』と考える自我を受け入れる、と言い換えることもできます。
自覚のないまま自動モードに乗っかってしまうのではなく、それを分かった上で見守っていると、いつの間にか自動モードが無くなっていることに気がつきます。
『こう切ってやろう』というこだわり自体が起きなくなっています。
その時とは、私たちが切り絵の平面から降りている瞬間であるわけです。
それは自分では気づいていませんが、たとえば風呂に入ってボーッとしている時や、山の上から景色を眺めている時、
プールで長いこと泳いでいる時、満天の夜空を見上げている時など様々な場面で訪れるものです。
そしてそのどれもが、感覚が前面に出ている状況であるのが分かります。
日常生活のように、意識が前面に出ている状態では、いざ切り絵から降りようとしても逆に足元がガッチリ固まって
動けなくなるのが事実です。
なぜならば、降りようとする思い自体が、切り絵の平面上に存在するものだからです。
自我の発した思考であるならば、その思考を続けるうちは自我と一体であるということです。
つまり、その思いから離れないかぎり、その思いが成就することはないわけです。
「事を為さねば何かを成すことはできない」という感覚からすれば、離れようと思うことなく離れることなどできる
のか?と思ってしまいます。
しかし、そうした疑心がまた解決を遠ざけてしまうことになります。
先ほどの例のように、風呂でもハイキングでも、切り絵の平面から離れようと思っていなくとも気づけば離れている
わけです。
もっと言えば、離れていることに気づいてすらいないほどです。
「こうしよう」という意識は、放っておくことで自然と遠ざかっていくものです。
イエス(賛同)だろうとノー(拒絶)だろうと、「こうしよう」という思いに変わりはありません。
ですから、一見すると遠回りに見えますが、まずは自動モードのままアレコレと発する自我の思いを受け入れることが
一番の近道になるのです。
受け入れるというのは、賛同することとはまた違います。
そのままに見守るということです。
イエスもノーも無い。
そこに自分を挟むことはない状態です。
私たちは「ノーの反対だからイエス」と無意識のうちに反応する癖がついてしまっています。
そうして、プラスだ・ポジティブだと、今度はそちらの方向にアクセルを踏んでしまいます。
しかしノーの反対とは、イエスもノーも無い状態。ニュートラルの状態です。
そしてイエスの反対もやはりニュートラルであるわけです。
それは、能動的なアクションが何も無いまま、流れを眺める状態です。
オールOKというものにしても、全てを肯定するのではなく、全てがそのままに流れるのを受け入れるということに
なります。
イエスもノーも自我が発するものです。
自我の思いに乗っかることは、自我をさらに波立たせることにしかなりません。
ポジティブ思考というものにしても、あくまでネガティヴ思考から脱却するための一時的な方便に過ぎないということ
です。
ニュートラルに流すためには、客観性と寛容性が必要となります。
なにごともそうですが、相手の立場に立って考えるというのはとても大事なことです。
この場合であれば、自我の立場になって見るといとです。
本当の理解とは頭で考えて分かるものではなく、心からの実感によってあとからついてくるものです。
自我というのはそれ自体が切り絵の平面に存在しますので、当然その平面上のことに必死になります。
もとより目先のことに囚われるものなのです。
それが良い悪いではなく、そういうものであるわけです。
囚われるという表現ではネガティヴイメージが強すぎるので「必死」と言った方がいいかもしれません。
溜め息混じりの“仕方ない”ではなく「なるほど、そうだよなぁ」という理解が生じれば、その瞬間すでに受け入れて
いることになります。
切り絵の平面では、そうなるもの。
避けようのないこと。
それどころか、必死に頑張っているのです。
無駄とか意味ないとかそういうことでなく、その立場として一所懸命なのです。
いじらしいくらいに。
「なら、しゃーないわな」と思った瞬間、自我の力みが緩み、全身の皮膚がフルオープンとなり、天地の呼吸を呼びます。
自我を忌み嫌ったりマイナスに見たりすることは、自らをさらに切り絵の平面に縛ることになります。
自我を拒絶しようとしているのは、その張本人たる自我そのものです。
逃げよう避けようと私たちが思っている時というのは、自我のド真ん中に中心を置いている状態に他ならないわけです。
過去の自分や他人を非難したり避けることもまた、自我を肥大させることにしかなりません。
過去がどんな形だって、もうそれはそれで仕方ないのです。
それでイイんです。
後悔や苦しみというのは、当時の自分や他人が良い悪いということではなく、そのような論理展開をあれこれ考える、
今この自我が作り出すものです。
自己批判や他者批判というのはその自我をより一層エネルギッシュにして後悔や苦しみを増大させることにしか
なりません。
そして繰り返しになりますが、ここで間違えていけないのが、だからといってその自我を否定したり手放したいとは
思わないことです。
あんなツラい経験を受け入れるなんて不可能。キツすぎる。あり得ない。受け入れられなくても仕方ない…
それはそれで事実だと思います。
それを否定するものではありません。
ただ、だからといってそこで終わりにしてしまってはいけないということです。
そうやって思考停止にさせてしまうのがトリックであるわけです。
別に、自我が保身のために私たちを騙そうとかゴマかそうとしているわけではありません。
私たちが勝手に思考を放棄してしまっただけです。
そしてこれまた、しつこいようですが、そのように思考を放棄してしまったこと自体も、良いとか悪いとかはなくて、
ただの状態に過ぎません。
今は、そうしたことに気づくことが全てです。
「状態」を、ありのままに見るだけ。
それで終わり。
そこでそのまま流せられれば、私たちは切り絵に乗らずにいられます。
自動モードで繋がってしまっていることをキチンと自覚していくことが大事ということです。
景色を眺めたあとのあらゆる付け足しは、たちまち自我の世界へ直行となってしまいます。
単なる状態に対して余計な色をつける行為が、私たちの足を引っ張ることなります。
私たちはこれまで無意識のうちにそれをやってきました。
つまり「私たちが勝手に思考を放棄した」と書くと、すぐさま「私たちが悪かったのだ」と判断してしまう癖がついて
いるということです。
「思考を放棄した」というのは事実としての状態ですが、「私たちが悪い」というのは自我の創作です。
そこには明らかにスイッチの切り替えが存在しているのですが、私たちはそれに慣れすぎてしまって、気がつけなく
なっています。
そうして初めは天地宇宙の世界に立っていても、無自覚のうちに切り絵の世界に戻っているということです。
それと気づくことなく、自動的に誘導させられてしまっているわけです。
自動モードで自我の創作が続いていることを1ミリも気づかずに、それを100%信じ切って、リモコンロボットの
ように過ごしています。
グルジェフはそのことを「眠った状態」「目覚めていない」と言いました。
といって、またそこで自我の誘導を悪いことだと断じてしまうと、これまたドツボにハマってしまいます。
このような場合、そうなんだなと自覚しつつ、あがらわず誘導されるところに道はあります。
切り絵の平面、切り絵の下に広がるテーブル、そしてまた切り絵の平面、というように私たちは瞬間瞬間で目まぐるしく
立ち位置を変えます。
それが悪いということではなく、それを全く自覚していないということです。
これからも目まぐるしく立ち位置は変わります。
それを変えまいとするのは、自我の発する我執になってしまいます。
チャカチャカ変わっても全然いいのです。
ただ、その都度「今は切り絵の平面」「今は天地宇宙」とそれをきちんと自覚できていることが極めて重要なわけです。
「あんなツラい経験を受け入れることなんて私には不可能。キツすぎる。あり得ない」という思い自体、否定するもの
でも肯定するものでもありません。
そうだよね、と受け入れるものです。
大事なことは、そのように思っているのは誰なのか?ということです。
それは「私」ではありません。
「自我」であるわけです。
しかし、それを「私」そのものだと思い込んでしまうことが、それ以上の思考停止を招いてしまっています。
切り絵の上にいる自我がそのように苦しみ傷ついていることは事実です。
そしてそれが私たちとともに歩んできた分身であるのもまた事実です。
だからこそ、私たちは自我がそのように傷ついていることを芯から理解できて、それを受け入れられるのです。
決して、自分ではないと言って切り捨てるものではありません。
切り絵の平面の下に、天地宇宙に広がる私たちがいます。
切り絵の分身に自分のすべてを凝縮させてしまうのではなく、『広大無辺に広がる私たち』と『切り絵の上の私たち』
という全貌を見渡しながら、自我を受け入れます。
その痛みや苦しみを中心に感じるということです。
忘れるとか突き放すとかいうことではありません。
ただ、視点を変えるだけのことです。
過去の出来事は、一つ一つの切り絵であり「状態」です。
それをそのまま流れるにまかせて眺めるというのも、自我を受け入れることによって成されます。
勉強にしろスポーツにしろ、最初から超一流の人など居ません。
みんな失敗や下手を受け入れて進歩します。
過去の切り絵を受け入れることが、諦めや寛容、そして自我を含むあらゆる存在すべてへの無条件の信頼を生み出します。
過去のツラい記憶を呼び覚ますような出来事に出会っても、「あの頃の自分はいじらしかった、かわいかったなぁ」
あるいは「よく頑張ったね、えらい」と思える時が必ず来ます。
もっと言ってしまえば、どれだけ押入れの奥に押し込めても、最期の最後はババーンと全部広げられるわけです。
誰もが死ぬ時には、すべてを表沙汰にされるのです。
しかもその時は衆人が見守るなかでのフルオープンです。
みんなの前で素っ裸になるのなんてヘッチャラだという剛毅な人なら別ですが、そもそもそういう人ならば押入れに
押し込めることなどあまり無いのではないかと思います。
いつかはやること。
どうせ裸になるなら、せめて一人の時に素っ裸になった方がラクというものです。
損得勘定で話してしまいましたが、そういうことでなくても、事実とは案外たいしたものではないのです。
最期の最後の場面で、それまで奥に隠していたものを引っ張り出された時というのは、初めこそ恥ずかしさや情けなさ、
悲しさ、様々な思いが起きるでしょうが、そうしたあとには必ずこのように思います。
「なんだこんなにラクになれるなら何十年もシンドい思いをすることなかった」
「やっちまった」
「先に言ってよ!」
最期の最後でラクになるよりも、早いうちにラクになって身軽に生きていく方が、数限りないことをより深く味わうこと
ができます。
私たちはある意味、苦しさを自ら作り出し、それを解き放った時の開放感を楽しんでいます。
ストレスや圧力のかかった状態から、元に戻る反動に喜びを感じていると言えるわけです。
もともと不足するものなど何もなく愛に満ち溢れている、というその事実を再確認するための一種のゲーム的な要素が、
この切り絵の世界の存在理由でもあるということです。
ですから、シンドい状況はシンドいわけですから、その事実をそのまま認めるのが何よりも先決となります。
シンドいことを忘れようとしたり見ないようにしたり、あるいはそのように考えてしまう自分を非難したり、加害者を
非難するというのは、同じ1コマにとどまってグルグルと自分の尻尾を追いかけることにしかなりません。
コマを進めてゲームを成立させるためには、事実を俯瞰して、風の流れを止めないことが何よりも大切となるわけです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/6b/db2e70ce7b330240ba7d67edc7ad310e.jpg)
何かのキッカケで過去の傷が蘇るような出来事があったとします。
たとえばその当事者にバッタリ逢ってしまったとか、当時を思い起こすようなシーンに触れてしまったとかです。
そういう時は五感にダイレクトに来ますので、瞬時に当時の切り絵に魂が直結してしまいます。
まさにフラッシュバックです。
そうしたものが訪れた時に、冷静に切り絵の平面から降りるというのは至難のワザでしょう。
ですから事前のケアというものが大事になります。
地震や火事など災害対策と同じです。
その日が来る前に日頃からシュミレーションしておく、その状況を想起して備えておくわけです。
この場合ならば、平和で余裕のある心地の時に、過去のツラい思い出を振り返るということになります。
ツラい出来事そのものは、事実としての状態です。
それを眺める。
ただ、眺める。
そこから「自分は悪くない」とか「アイツが悪い」とか出てきても、それはただ自分が切り絵の平面に移動して
しまっただけのことなので、それはそれとして、また天地宇宙に戻る。
あるいは、自分を責める方向に行った場合は「自分は生きている資格が無い」「リセットさせたい」と出てくるでしょう
が、それはそれとして一通り流したあとに、また天地宇宙に戻る。
戻ってふたたび、ツラい出来事を、ただの状態として眺めます。
この最後に「戻る」という作業が災害対策になるわけです。
これまでは怒りや悲しみの感情が湧くとすぐフタをして、そのまま切り絵の平面に立ち続けていました。
そうした習慣を断つということです。
シュミレーションというのは実際にやらないと意味がありません。
ただ、いきなり過去をバーンとフルオープンすると心が傷だらけになってしまう場合は、焦らずゆっくりやっていく
ことになります。
前回も書きましたが、当時の自分が芯から傷ついている時は、まずは今この大きな自分がその自分を包み込んで、傷を
優しく温めてあげることが先です。
そうして少しずつ、ドアの隙間からチラ見でもいいので、過去を振り返っていくということです。
過去の傷を頭に浮かべ、その映像に飲まれることなくその先へと進める、つまりそのまま切り絵の平面から降りるという
ことを手動モードで習慣化していくと、それが新たに自動的な流れとなっていきます。
これまで条件反射的に「アイツが悪い」とか「自分が悪い」と自我の感情へリンクしていた自動モードが消えていくということです。
そうなると、現実で誰かにバッタリ出逢ったり、不意打ちでトラウマが蘇った時でも、パニックになって思考停止させ
たり現実逃避するようなことも無くなっていきます。
さて、切り絵の平面から降りるには、相手の立場にたって諦める(明らかに見極める)ことが有効でした。
それは自我の立場に立って見ることでもあり、また加害者の立場に立って見ることでもあります。
受け入れるというのは、何も相手が正しいものだと認めることではありません。
「正しい・正しくない」という概念は、何処までいっても比較でしかありません。
必ず敗者が生まれてしまいます。
それでは自我が、我が身を守ろうと過熱するだけです。
相手の立場に立って、その言動を「理解する」ということが、すなわち受け入れることになります。
「そうは言っても」と感情や自我をそこに付与するのは、自分を切り絵の平面に引き戻すことにしかなりません。
それはそれ、これはこれ、です。
切り絵の立場だったらそう思うのは当然だよね、でも今は天地宇宙の立場から見ての話だから、ということです。
感情や自我に引っ張られそうになった時は、今の自分はどこに足を置いているのかを明確にしておけば大丈夫です。
切り絵の平面に立ってはいけないということではありません。
いま自分はそこに立っているのだからこう考えるのは当然だ、と客観視できればいいのです。
それは自我に飲まれたことにはなりません。
そうやって腑に落ちれば自我は満たされます。
そうなれば、そのあとはラクに切り絵を離れて見てみることができるようになるわけです。
切り絵に引きずり込まれまいという抵抗こそは、自我そのものです。
その瞬間すでに切り絵に居るのです。
昔の漫画の「お前はもう死んでいる」みたいなもんです。
過去の記憶にしても同じように、引きずり込まれまいと思うのではなく、それはそれでいいということです。
過去の思いや感情というものは、切り絵の上に立っている自分、すなわち自我が発しているものだという理解さえあれば
それでいいわけです。
それが「受け入れる」ということです。
無くそうとか、心の奥へしまいこもうとする必要は無いということです。
今ここの自分が「こう切ってやろう」「こう切るゾ」という自我に引っ張られたとしても、やはりその思いを否定したり
忌み嫌うのではなく、自分が切り絵の上に立っていることを自覚していれば大丈夫ということです。
そもそも自我というのはそういうものですから、そこに立てばそうなるもの。
そこに立ってはいけないということではなく、そこに立っていることを自覚することが大事なのです。
この世に生きる限り、私たちは切り絵の平面から離れて生きることは出来ません。
そもそもそれを味わうために生まれてきたのですから、それこそ本末転倒になってしまいます。
紙を切るという思い自体を受け入れれば、ハサミ使いも自ずと天地の呼吸になっていきます。
いつ何どきでもそのようにあるというのは理想ではありますが、それに囚われてしまうとそれは遠ざかってしまいます。
そのようになれた「今」が、この一回にあれば十分なのです。
真実が分かってスッキリ悟ったはずなのに、気がつけばまた囚われている…
そんな時でもガックリ落ち込む必要はないわけです。
何度でも切り絵の自我に引っ張られて、一喜一憂していいのです。
私たちはそれをやりにきているのです。
完全無欠な聖人君子など夢の世界の話に過ぎないと知ることが、本当の悟りと言ってもいいかもしれません。
死んだら誰もが天地宇宙である自分に気づきます。
それこそ完全無欠です。
もとより私たちは完全な存在であるわけです。
ただ、不完全であるフリをして楽しむためにこの世に来ているのです。
ですからそれは不完全などではなく、人間らしさと言った方が正しいということです。
その状態から、少しでも完全な状態に近づこうとする。
それがこの世というアミューズメントパークの最大の楽しみであるわけです。
もとより相対比較は意味を成さないのです。
わざわざ不足している状態を作ってスタートしたのですから、その自分を卑下したり、苦しんだりするのではこれまた
本末転倒になってしまうということです。
みんなの形は違えど、たどり着く先は同じです。
派手なことをなそうとも、道半ばだろうと、地味だろうと、死んだ瞬間に等しく切り絵から離れます。
そして、もとから完全な状態にあることを思い出します。
結果はみんな同じということは、私たちはまさに過程を味わうためにこの世に来ているということです。
より上を目指そうとする思いにシンドくなった時には、実はそういう種明かしだったんだと一息ついてみるとラクに
なります。
今のこの自分を受け入れられれば、過去の自分も受け入れることができるようになります。
人間くさく生きることは、魂の喜びそのものです。
それこそが、寛容というものを一気に花開かせる鍵となるのではないでしょうか。
(おわり)
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とも言えます。
それは、『こう切ってやろう』と考える自我を受け入れる、と言い換えることもできます。
自覚のないまま自動モードに乗っかってしまうのではなく、それを分かった上で見守っていると、いつの間にか自動モードが無くなっていることに気がつきます。
『こう切ってやろう』というこだわり自体が起きなくなっています。
その時とは、私たちが切り絵の平面から降りている瞬間であるわけです。
それは自分では気づいていませんが、たとえば風呂に入ってボーッとしている時や、山の上から景色を眺めている時、
プールで長いこと泳いでいる時、満天の夜空を見上げている時など様々な場面で訪れるものです。
そしてそのどれもが、感覚が前面に出ている状況であるのが分かります。
日常生活のように、意識が前面に出ている状態では、いざ切り絵から降りようとしても逆に足元がガッチリ固まって
動けなくなるのが事実です。
なぜならば、降りようとする思い自体が、切り絵の平面上に存在するものだからです。
自我の発した思考であるならば、その思考を続けるうちは自我と一体であるということです。
つまり、その思いから離れないかぎり、その思いが成就することはないわけです。
「事を為さねば何かを成すことはできない」という感覚からすれば、離れようと思うことなく離れることなどできる
のか?と思ってしまいます。
しかし、そうした疑心がまた解決を遠ざけてしまうことになります。
先ほどの例のように、風呂でもハイキングでも、切り絵の平面から離れようと思っていなくとも気づけば離れている
わけです。
もっと言えば、離れていることに気づいてすらいないほどです。
「こうしよう」という意識は、放っておくことで自然と遠ざかっていくものです。
イエス(賛同)だろうとノー(拒絶)だろうと、「こうしよう」という思いに変わりはありません。
ですから、一見すると遠回りに見えますが、まずは自動モードのままアレコレと発する自我の思いを受け入れることが
一番の近道になるのです。
受け入れるというのは、賛同することとはまた違います。
そのままに見守るということです。
イエスもノーも無い。
そこに自分を挟むことはない状態です。
私たちは「ノーの反対だからイエス」と無意識のうちに反応する癖がついてしまっています。
そうして、プラスだ・ポジティブだと、今度はそちらの方向にアクセルを踏んでしまいます。
しかしノーの反対とは、イエスもノーも無い状態。ニュートラルの状態です。
そしてイエスの反対もやはりニュートラルであるわけです。
それは、能動的なアクションが何も無いまま、流れを眺める状態です。
オールOKというものにしても、全てを肯定するのではなく、全てがそのままに流れるのを受け入れるということに
なります。
イエスもノーも自我が発するものです。
自我の思いに乗っかることは、自我をさらに波立たせることにしかなりません。
ポジティブ思考というものにしても、あくまでネガティヴ思考から脱却するための一時的な方便に過ぎないということ
です。
ニュートラルに流すためには、客観性と寛容性が必要となります。
なにごともそうですが、相手の立場に立って考えるというのはとても大事なことです。
この場合であれば、自我の立場になって見るといとです。
本当の理解とは頭で考えて分かるものではなく、心からの実感によってあとからついてくるものです。
自我というのはそれ自体が切り絵の平面に存在しますので、当然その平面上のことに必死になります。
もとより目先のことに囚われるものなのです。
それが良い悪いではなく、そういうものであるわけです。
囚われるという表現ではネガティヴイメージが強すぎるので「必死」と言った方がいいかもしれません。
溜め息混じりの“仕方ない”ではなく「なるほど、そうだよなぁ」という理解が生じれば、その瞬間すでに受け入れて
いることになります。
切り絵の平面では、そうなるもの。
避けようのないこと。
それどころか、必死に頑張っているのです。
無駄とか意味ないとかそういうことでなく、その立場として一所懸命なのです。
いじらしいくらいに。
「なら、しゃーないわな」と思った瞬間、自我の力みが緩み、全身の皮膚がフルオープンとなり、天地の呼吸を呼びます。
自我を忌み嫌ったりマイナスに見たりすることは、自らをさらに切り絵の平面に縛ることになります。
自我を拒絶しようとしているのは、その張本人たる自我そのものです。
逃げよう避けようと私たちが思っている時というのは、自我のド真ん中に中心を置いている状態に他ならないわけです。
過去の自分や他人を非難したり避けることもまた、自我を肥大させることにしかなりません。
過去がどんな形だって、もうそれはそれで仕方ないのです。
それでイイんです。
後悔や苦しみというのは、当時の自分や他人が良い悪いということではなく、そのような論理展開をあれこれ考える、
今この自我が作り出すものです。
自己批判や他者批判というのはその自我をより一層エネルギッシュにして後悔や苦しみを増大させることにしか
なりません。
そして繰り返しになりますが、ここで間違えていけないのが、だからといってその自我を否定したり手放したいとは
思わないことです。
あんなツラい経験を受け入れるなんて不可能。キツすぎる。あり得ない。受け入れられなくても仕方ない…
それはそれで事実だと思います。
それを否定するものではありません。
ただ、だからといってそこで終わりにしてしまってはいけないということです。
そうやって思考停止にさせてしまうのがトリックであるわけです。
別に、自我が保身のために私たちを騙そうとかゴマかそうとしているわけではありません。
私たちが勝手に思考を放棄してしまっただけです。
そしてこれまた、しつこいようですが、そのように思考を放棄してしまったこと自体も、良いとか悪いとかはなくて、
ただの状態に過ぎません。
今は、そうしたことに気づくことが全てです。
「状態」を、ありのままに見るだけ。
それで終わり。
そこでそのまま流せられれば、私たちは切り絵に乗らずにいられます。
自動モードで繋がってしまっていることをキチンと自覚していくことが大事ということです。
景色を眺めたあとのあらゆる付け足しは、たちまち自我の世界へ直行となってしまいます。
単なる状態に対して余計な色をつける行為が、私たちの足を引っ張ることなります。
私たちはこれまで無意識のうちにそれをやってきました。
つまり「私たちが勝手に思考を放棄した」と書くと、すぐさま「私たちが悪かったのだ」と判断してしまう癖がついて
いるということです。
「思考を放棄した」というのは事実としての状態ですが、「私たちが悪い」というのは自我の創作です。
そこには明らかにスイッチの切り替えが存在しているのですが、私たちはそれに慣れすぎてしまって、気がつけなく
なっています。
そうして初めは天地宇宙の世界に立っていても、無自覚のうちに切り絵の世界に戻っているということです。
それと気づくことなく、自動的に誘導させられてしまっているわけです。
自動モードで自我の創作が続いていることを1ミリも気づかずに、それを100%信じ切って、リモコンロボットの
ように過ごしています。
グルジェフはそのことを「眠った状態」「目覚めていない」と言いました。
といって、またそこで自我の誘導を悪いことだと断じてしまうと、これまたドツボにハマってしまいます。
このような場合、そうなんだなと自覚しつつ、あがらわず誘導されるところに道はあります。
切り絵の平面、切り絵の下に広がるテーブル、そしてまた切り絵の平面、というように私たちは瞬間瞬間で目まぐるしく
立ち位置を変えます。
それが悪いということではなく、それを全く自覚していないということです。
これからも目まぐるしく立ち位置は変わります。
それを変えまいとするのは、自我の発する我執になってしまいます。
チャカチャカ変わっても全然いいのです。
ただ、その都度「今は切り絵の平面」「今は天地宇宙」とそれをきちんと自覚できていることが極めて重要なわけです。
「あんなツラい経験を受け入れることなんて私には不可能。キツすぎる。あり得ない」という思い自体、否定するもの
でも肯定するものでもありません。
そうだよね、と受け入れるものです。
大事なことは、そのように思っているのは誰なのか?ということです。
それは「私」ではありません。
「自我」であるわけです。
しかし、それを「私」そのものだと思い込んでしまうことが、それ以上の思考停止を招いてしまっています。
切り絵の上にいる自我がそのように苦しみ傷ついていることは事実です。
そしてそれが私たちとともに歩んできた分身であるのもまた事実です。
だからこそ、私たちは自我がそのように傷ついていることを芯から理解できて、それを受け入れられるのです。
決して、自分ではないと言って切り捨てるものではありません。
切り絵の平面の下に、天地宇宙に広がる私たちがいます。
切り絵の分身に自分のすべてを凝縮させてしまうのではなく、『広大無辺に広がる私たち』と『切り絵の上の私たち』
という全貌を見渡しながら、自我を受け入れます。
その痛みや苦しみを中心に感じるということです。
忘れるとか突き放すとかいうことではありません。
ただ、視点を変えるだけのことです。
過去の出来事は、一つ一つの切り絵であり「状態」です。
それをそのまま流れるにまかせて眺めるというのも、自我を受け入れることによって成されます。
勉強にしろスポーツにしろ、最初から超一流の人など居ません。
みんな失敗や下手を受け入れて進歩します。
過去の切り絵を受け入れることが、諦めや寛容、そして自我を含むあらゆる存在すべてへの無条件の信頼を生み出します。
過去のツラい記憶を呼び覚ますような出来事に出会っても、「あの頃の自分はいじらしかった、かわいかったなぁ」
あるいは「よく頑張ったね、えらい」と思える時が必ず来ます。
もっと言ってしまえば、どれだけ押入れの奥に押し込めても、最期の最後はババーンと全部広げられるわけです。
誰もが死ぬ時には、すべてを表沙汰にされるのです。
しかもその時は衆人が見守るなかでのフルオープンです。
みんなの前で素っ裸になるのなんてヘッチャラだという剛毅な人なら別ですが、そもそもそういう人ならば押入れに
押し込めることなどあまり無いのではないかと思います。
いつかはやること。
どうせ裸になるなら、せめて一人の時に素っ裸になった方がラクというものです。
損得勘定で話してしまいましたが、そういうことでなくても、事実とは案外たいしたものではないのです。
最期の最後の場面で、それまで奥に隠していたものを引っ張り出された時というのは、初めこそ恥ずかしさや情けなさ、
悲しさ、様々な思いが起きるでしょうが、そうしたあとには必ずこのように思います。
「なんだこんなにラクになれるなら何十年もシンドい思いをすることなかった」
「やっちまった」
「先に言ってよ!」
最期の最後でラクになるよりも、早いうちにラクになって身軽に生きていく方が、数限りないことをより深く味わうこと
ができます。
私たちはある意味、苦しさを自ら作り出し、それを解き放った時の開放感を楽しんでいます。
ストレスや圧力のかかった状態から、元に戻る反動に喜びを感じていると言えるわけです。
もともと不足するものなど何もなく愛に満ち溢れている、というその事実を再確認するための一種のゲーム的な要素が、
この切り絵の世界の存在理由でもあるということです。
ですから、シンドい状況はシンドいわけですから、その事実をそのまま認めるのが何よりも先決となります。
シンドいことを忘れようとしたり見ないようにしたり、あるいはそのように考えてしまう自分を非難したり、加害者を
非難するというのは、同じ1コマにとどまってグルグルと自分の尻尾を追いかけることにしかなりません。
コマを進めてゲームを成立させるためには、事実を俯瞰して、風の流れを止めないことが何よりも大切となるわけです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/6b/db2e70ce7b330240ba7d67edc7ad310e.jpg)
何かのキッカケで過去の傷が蘇るような出来事があったとします。
たとえばその当事者にバッタリ逢ってしまったとか、当時を思い起こすようなシーンに触れてしまったとかです。
そういう時は五感にダイレクトに来ますので、瞬時に当時の切り絵に魂が直結してしまいます。
まさにフラッシュバックです。
そうしたものが訪れた時に、冷静に切り絵の平面から降りるというのは至難のワザでしょう。
ですから事前のケアというものが大事になります。
地震や火事など災害対策と同じです。
その日が来る前に日頃からシュミレーションしておく、その状況を想起して備えておくわけです。
この場合ならば、平和で余裕のある心地の時に、過去のツラい思い出を振り返るということになります。
ツラい出来事そのものは、事実としての状態です。
それを眺める。
ただ、眺める。
そこから「自分は悪くない」とか「アイツが悪い」とか出てきても、それはただ自分が切り絵の平面に移動して
しまっただけのことなので、それはそれとして、また天地宇宙に戻る。
あるいは、自分を責める方向に行った場合は「自分は生きている資格が無い」「リセットさせたい」と出てくるでしょう
が、それはそれとして一通り流したあとに、また天地宇宙に戻る。
戻ってふたたび、ツラい出来事を、ただの状態として眺めます。
この最後に「戻る」という作業が災害対策になるわけです。
これまでは怒りや悲しみの感情が湧くとすぐフタをして、そのまま切り絵の平面に立ち続けていました。
そうした習慣を断つということです。
シュミレーションというのは実際にやらないと意味がありません。
ただ、いきなり過去をバーンとフルオープンすると心が傷だらけになってしまう場合は、焦らずゆっくりやっていく
ことになります。
前回も書きましたが、当時の自分が芯から傷ついている時は、まずは今この大きな自分がその自分を包み込んで、傷を
優しく温めてあげることが先です。
そうして少しずつ、ドアの隙間からチラ見でもいいので、過去を振り返っていくということです。
過去の傷を頭に浮かべ、その映像に飲まれることなくその先へと進める、つまりそのまま切り絵の平面から降りるという
ことを手動モードで習慣化していくと、それが新たに自動的な流れとなっていきます。
これまで条件反射的に「アイツが悪い」とか「自分が悪い」と自我の感情へリンクしていた自動モードが消えていくということです。
そうなると、現実で誰かにバッタリ出逢ったり、不意打ちでトラウマが蘇った時でも、パニックになって思考停止させ
たり現実逃避するようなことも無くなっていきます。
さて、切り絵の平面から降りるには、相手の立場にたって諦める(明らかに見極める)ことが有効でした。
それは自我の立場に立って見ることでもあり、また加害者の立場に立って見ることでもあります。
受け入れるというのは、何も相手が正しいものだと認めることではありません。
「正しい・正しくない」という概念は、何処までいっても比較でしかありません。
必ず敗者が生まれてしまいます。
それでは自我が、我が身を守ろうと過熱するだけです。
相手の立場に立って、その言動を「理解する」ということが、すなわち受け入れることになります。
「そうは言っても」と感情や自我をそこに付与するのは、自分を切り絵の平面に引き戻すことにしかなりません。
それはそれ、これはこれ、です。
切り絵の立場だったらそう思うのは当然だよね、でも今は天地宇宙の立場から見ての話だから、ということです。
感情や自我に引っ張られそうになった時は、今の自分はどこに足を置いているのかを明確にしておけば大丈夫です。
切り絵の平面に立ってはいけないということではありません。
いま自分はそこに立っているのだからこう考えるのは当然だ、と客観視できればいいのです。
それは自我に飲まれたことにはなりません。
そうやって腑に落ちれば自我は満たされます。
そうなれば、そのあとはラクに切り絵を離れて見てみることができるようになるわけです。
切り絵に引きずり込まれまいという抵抗こそは、自我そのものです。
その瞬間すでに切り絵に居るのです。
昔の漫画の「お前はもう死んでいる」みたいなもんです。
過去の記憶にしても同じように、引きずり込まれまいと思うのではなく、それはそれでいいということです。
過去の思いや感情というものは、切り絵の上に立っている自分、すなわち自我が発しているものだという理解さえあれば
それでいいわけです。
それが「受け入れる」ということです。
無くそうとか、心の奥へしまいこもうとする必要は無いということです。
今ここの自分が「こう切ってやろう」「こう切るゾ」という自我に引っ張られたとしても、やはりその思いを否定したり
忌み嫌うのではなく、自分が切り絵の上に立っていることを自覚していれば大丈夫ということです。
そもそも自我というのはそういうものですから、そこに立てばそうなるもの。
そこに立ってはいけないということではなく、そこに立っていることを自覚することが大事なのです。
この世に生きる限り、私たちは切り絵の平面から離れて生きることは出来ません。
そもそもそれを味わうために生まれてきたのですから、それこそ本末転倒になってしまいます。
紙を切るという思い自体を受け入れれば、ハサミ使いも自ずと天地の呼吸になっていきます。
いつ何どきでもそのようにあるというのは理想ではありますが、それに囚われてしまうとそれは遠ざかってしまいます。
そのようになれた「今」が、この一回にあれば十分なのです。
真実が分かってスッキリ悟ったはずなのに、気がつけばまた囚われている…
そんな時でもガックリ落ち込む必要はないわけです。
何度でも切り絵の自我に引っ張られて、一喜一憂していいのです。
私たちはそれをやりにきているのです。
完全無欠な聖人君子など夢の世界の話に過ぎないと知ることが、本当の悟りと言ってもいいかもしれません。
死んだら誰もが天地宇宙である自分に気づきます。
それこそ完全無欠です。
もとより私たちは完全な存在であるわけです。
ただ、不完全であるフリをして楽しむためにこの世に来ているのです。
ですからそれは不完全などではなく、人間らしさと言った方が正しいということです。
その状態から、少しでも完全な状態に近づこうとする。
それがこの世というアミューズメントパークの最大の楽しみであるわけです。
もとより相対比較は意味を成さないのです。
わざわざ不足している状態を作ってスタートしたのですから、その自分を卑下したり、苦しんだりするのではこれまた
本末転倒になってしまうということです。
みんなの形は違えど、たどり着く先は同じです。
派手なことをなそうとも、道半ばだろうと、地味だろうと、死んだ瞬間に等しく切り絵から離れます。
そして、もとから完全な状態にあることを思い出します。
結果はみんな同じということは、私たちはまさに過程を味わうためにこの世に来ているということです。
より上を目指そうとする思いにシンドくなった時には、実はそういう種明かしだったんだと一息ついてみるとラクに
なります。
今のこの自分を受け入れられれば、過去の自分も受け入れることができるようになります。
人間くさく生きることは、魂の喜びそのものです。
それこそが、寛容というものを一気に花開かせる鍵となるのではないでしょうか。
(おわり)
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