これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

この世界は美しい。

2016-05-14 23:46:40 | 心をラクに
景色の見え方というのは、人それぞれ千差万別です。

彫刻のような虚像だけの世界ならば、見え方もあまり変わらなかったかもしれません。
しかし、この世というのは生命に溢れた世界です。
生きとし生けるものは、見た目の切り絵だけではなく、その向こうに遥かなる広がりを持っています。

それを人は無意識のうちに透き通して、重ね見ています。
その奥行きも、人それぞれにピントが異なりますので、観え方も異なってくるというわけです。

ある人にとっては、相手の人柄や雰囲気が前面に映るかもしれませんし、また別の人にとっては目鼻立ちや体形が前面に
映るかもしれません。

つまり、私たちは見ようとしたようにしか見えないということです。

昔から、アバタもエクボと言われますように、心がそうなっている時というのは実際に目に映る映像が本当にそうなって
います。
モヤモヤと何となくそうなっているのではなく、ハッキリとそのような画像になっているわけです。

これはプラスの心の場合だけでなく、マイナスの心の場合でも同じです。
つまり、エクボがアバタにもなるということです。

勝手な思い込みがあるとそれに似通った部分だけが浮き上がり、そこに無意識の補正がかかるため、当人にとっては
真実の映像と化します。

俗な話ですが、例えば安保論争一つ取っても「アメリカに脅されてやっている」「戦争法案だ」「我が子が徴兵される」
と考えてしまうと、まさにそれに合致する部分が全景を占めるようになります。
「ワイマール憲法がナチスを生んだ」と信じると、どのような憲法であろうと独裁政権の道にしか映らなくなります。

ひとたび本人にとってそれが真実となると、それ以外の見方ができなくなってしまいます。
他人が何を言っても、それは単なる詭弁か妄想、思い込みとしか映らないわけです。

この世の景色というのは本来ニュートラルなものです。
しかし切り絵のどこかに焦点が片寄ると、途端に全景がゆがみ収縮してしまいます。

これが正しい、こうに違いない、こうあるべき、という考え方をしていると平面上の切り絵の世界だけでなく、その
向こうの奥行きに対しても片寄りを起こすことになります。
それは、どこかに絶対正義や絶対真実があるに違いないと探している時も同じです。

そうしたことは、まさしく信仰の世界で見られることですし、「~の法則」といった精神世界にも見られることです。

ニュートラルとは、平面だけでなく奥行きに関してもオールフリーな状態です。

ただニュートラルというものに何らかのイメージを持つと、その時点で最早ニュートラルでは無くなってしまいます。

あらゆる出来事の奥に広がる、遥か深遠な景色。
それを「こういうものに違いない」と決めつけると、その通りにフリーズした世界と化します。
プラス思考にせよ、必然性にせよ、言葉に縛られた瞬間、底浅い狭量なフォーカスになってしまうわけです。


自分の見ている景色が正しいと思い込むと、自分の目に映ったものが真実となって、それ以外は間違ったものなります。

子どもの頃、母親がこの身を案じて叱る姿も、単にガミガミとヒステリーに怒りまくる景色にしか映らなかったでしょう。
それと同じことが、今この目の前の景色でも繰り返されているのです。

これも天地宇宙の一面である。
あれも天地宇宙の一面である。
これやアレとも違う景色もある。
どれもこれもがこの世界を現すものだ。


そうした心が、今の思い込みとは違う景色を映していくことになります。

景色というのは、心によってコロコロと変わっていきます。
実際、良くも悪くも、心一つで景色が一変するということは誰しも経験
あることだと思います。

たとえば、仕事で大きな成果を上げた時、多くの人から称賛された時、あるいは誰かに恋した時、私たちの景色はどう
なっているか。
たとえ暑さ寒さ雨風があろうと、何も気にならず空高く明るい世界に過ごしているのではないでしょうか。
しかしそれが一転、仕事で大失敗をしたり、白い眼を向けられたり、失望されたりすると、先ほどまで明るく輝いていた
景色は、暗く陰鬱とした景色へと一変することでしょう。

世界は何一つ変わっていないのに、私たちのフォーカス次第で天地がひっくり返る。

一枚絵の何処にフォーカスさせるか、奥行きをどれほど深くに感じるか、それによって目に映る現実が実際に変化する
ということです。

そして、この自由自在なフォーカス機能こそは、この世界をより変化豊かに味わうものでもあるわけです。

ニュートラルというのは、不干渉ということではなく、自分がどのように見ているか、それを自覚できている状態です。
まさにTVのチャンネルを変えるようにです。

ありのままに受け入れるというのは、そこに自分が不在ということではなく、無限の見方ができる状態にあるということです。

そもそも万物は無限に広がるものであり、それを見る自分もまた無限に広がるものです。
互いの無限が溶け合った時、私たちはありのままに受け入れるニュートラルな状態となっているわけです。


うららかな春のひととき。
庭先へ足を放り出しながら、暖かい陽射しを心地よく感じていた時でした。
突如、目に映る全てが自分自身になったことがありました。

それを何と表現すればいいのか分かりませんが、すぐ手前の草花も、庭の向こうに生い茂っている木々も、まったくもって
自分の指先のようになって、すべて自身であるような感覚になったのでした。

景色のすべてが区切りなく『マトリックス』のように不可分の唯一無二となり、淡い黄色とも金色とも言えるような
ほんのりと輝く温かみに満ち満ちました。

とても満たされた、心地よい世界。
その時、心の底から「世界は美しい」と感じてました。

全身を包まれるというか、むしろ自分から全体へ溢れ出ているというか、どちらともつかない感覚の中、ただ「愛おしい」
という思いで一杯になりました。

「自分」というものも「まわり」というものもない。
自分以外という感覚がない。

何のために生きているとか、存在意義だとか、そうした発想そのものがあまりにも砂つぶのようなちっぽけに感じて、
「存在している」というただそれだけで、途轍もなく温かく、優しく、愛おしい。


目に映るすべて、心に感じるすべてが心の底から愛おしく、思考というものも消えて、ただその状態に溶け込み、幸せな
心地となりました。


しかしその一方で、そこまでの経験をしても、次の日にはいつもの自分なのでした。

つまらないことに囚われ、哀しみ喜び、笑って怒る。

宇宙から還った宇宙飛行士は人間が変わったようになると言いますが、本当に偉いと思います。
私たちはどんな体験をしても、その時が過ぎればまた元の自分に戻ってしまっています。

でも、それはそれでイイのだと思います。

どれが特別な経験ということではなく、どれもこれもが、その時その瞬間をしっかりと味わい尽くしています。
その時の感覚や心はウソ偽りのないものです。

だから、それでイイのです。

あの時はあの時。この時はこの時。
無理に襟を正そうとすると、おかしな話になってしまいます。

白隠禅師も「大悟十八度、小悟数知れず」と言われています。

それまで思いもしなかった大きな気づきをしたからといって、たちまち人格者になるというわけではありません。
悟りというものに過大な妄想を抱くのは、謙虚さに欠けるというものです。

何が変わったのかというと、何も変わりません。
自分は、前の自分のままです。
逆に言えば、前のままの自分は既にそれで何も過不足ない姿だったということにもなります。

聖人君子になれずにガックリくることではないのです。

悟りというのは、それで自分の何かが変わるということではありません。
それは経験の一つであり、感動の一つです。
それを噛み締める。それで十分なわけです。

そして私たちは生きている限り、それまで味わったことのない新しい気づきというものに何度も出会います。

「気づき」と言っても、人々を感嘆させるような派手なものということではありません。
その言葉に酔いしれたらアウトです。
気づきとは、それまで思いもしなかったことにフト気づくことです。
ですから、他人から見ればごく当たり前のことだって山ほどあるでしょう。
でも、それが私たちにとっては悟りなのです。

思い込んでいる時というのは、それが思い込みであると自覚することはできません。
目をつぶっている時には光が見えないのと同じです。

それがフトした時に、まぶたの隙間から木漏れ陽が注ぎこむことがあります。
そのとき初めて、それまでの世界が自分の思い込みの景色だったと知るのです。

私たちは生きていくなかで数多の悟りを繰り返していきます。

泣いたと思たら、もう笑っている。
悟ったと思たら、もう忘れている。

それでイイということです。

そもそも私たちは、見ようとしたようにしか見えないものなのです。

悟りは凄いものだと考えているかぎり、新たな景色はやってきません。
「囚われない、オールフリー、ニュートラルというのはこういうことではないだろうか」と勝手な想像をした時点で
それらは全く異なるものと化します。

これもアリ。あれもアリ。
また別の何かもアリ。
自分からウロウロ探しに出歩くのでなく、何でも来い来いと、来るもの拒まず楽しもうとするウェルカム姿勢こそが
この世というアミューズメントを楽しむもっとも自然な姿かもしれません。

ちゃらんぽらんな感じもしますが、もとよりそうした気質こそが日本人の真骨頂なのではないでしょうか。

私たちは、もともと何もかも知っていましたが、何も知らないように望んで成って、そして一つ一つ新しく景色が広がる
その喜びを味わいに来ました。

小悟は無数。

一度悟ったはずなのにまた同じ自分になっているというのは、それこそラッキーというものです。
落ち込むようなことではありません。
一粒で二度おいしい、その喜びを噛み締められるのは幸せです。

取るに足らないような些細なことでも、悟りは悟りです。
そのように気楽に考えていけば、悟りは加速します。

いま目の前に映る景色は、この世界のすべてでは無い。
これから小悟無数にして、薄皮を剥がすように、思い込みが晴れて、明るさが増していく。


生きていくと、様々な思い込みに気づきます。

生きているということは、それだけで新しい景色が広がっていくということです。

何も変わらないと思うとその通りに映るだけです。
でも、ウェルカム姿勢になれば、何も特別な修行などしなくとも自然と世界は晴れあがっていきます。

生きる喜びとは、まさにその一点に尽きるのではないでしょうか。


『この世界は美しい。そして人生とは甘美である。』

それは決して、安っぽい綺麗事なんかでは無いということです。



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