これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

お伊勢さん

2017-03-11 08:55:55 | 国を常しえに立てます
今日は伊勢に向かっています。

何も考えずに今日というスケジュールになりましたが、昨晩、旅の準備をしていた時にフト切符の日付が目に入った瞬間、表現できないものが
ドーンと滝のように怒涛の勢いで流れ込んで来ました。

最初は心落ち着けようと踏ん張ったものの、次々と押し寄せる勢いで胸が張り裂けそうになり、堪えきれず涙が止まらなくなりました。
それは毛穴という毛穴から、あるいは口を開ければその口から、全身のすべてから溢れ出るような、歯を食いしばっていなければ嗚咽が
漏れてしまいそうなほどのエネルギーでした。

個というものはなく、幾万もの微細な集まりが、途轍もなく大きなところから流れ込んでくるような感じでした。

そして今朝は4時半に起こされました。
本当は12時すぎの出発予定でしたので、溜まった寝不足を解消するつもりだったのですが、全身の細胞が完全に覚醒してしまったので
否応もなく諦めて早出することにしました。

でも何故、今日という日がお伊勢さんなのか。
東北と伊勢の繋がりというものは、普通に過ごしているとなかなか見あたりません。
ドーンというのが来なければ、完全に切り離しているものでした。

こうなのだろうと思うことはいくつかあります。
とはいえ、そのボンヤリしたものをハッキリさせようというのは余計なことにしかなりません。
ボンヤリしたものはボンヤリしたまま放っといたほうがいい。

私たち一人一人は代表でもあり、代わり身でもあり、私たち自身でもあります。

手を合わせて一つになった時、何かが起きているわけです。
これを人間考えでアレだコレだと判断すると、事実が歪められて、本来なすべきことも為されなくなります。

私たちの自我が見える範囲というのは極めて限定的なものでしかありません。
そして、元の本の素のところから、コレだというものが溢れて来たとしても、そこについてアレコレ考えてしまうと、その瞬間ミソがついて
しまい、たちまち限定的な決めつけと化してしまいます。

世に言う、自分がドコそこへ行ったから地震がおさまったとか、天にあがったとか、護られたとか、本来そういうことは無いものでしょう。
確かにその人も、そうした一人なのでしょうが、たった一人でそのようなことは無いと思います。

それぞれ自分で気がついていなくとも、何人もの人たちが様々にそのようなことをやっています。

数多くの光がポッと灯る。
薄明かりのもと、幾万ものローソクにやわらかなともし火が揺らぐ。



それぞれにお詣りし、あるいはその地を訪れ、手を合わせ、ただ心を鎮めています。
何か大掛かりな神事をやるわけではありません。
静かに落ち着きクリアになっていることが何よりも大切となります。

ですから、地震をおさめるとか、天にあげるとか、そういう思いを持っているほうが、かえって波立ち、濁り、塩梅が良く無いわけです。

自分で何も分かっていない状態が最上と思います。

見えない世界のほうが何となく凄いように思いがちですが、どちらが上も下もありません。
実際、霊体では限界がありますが、この肉体あればこそ出来ることも山ほどあります。

結界の張られている場所や、エネルギーの強い場所、伊勢神宮のような御神域(まさしく神の領域)など、普通の霊体では入れない場所でも
それとは次元の異なるこの肉体であれば関係ないわけです。

肉体は壁を通り抜けられませんが、空間は通り抜けられます。
霊体ではその逆のことが起きているということです。

ただ、それは違う場面、たとえば危ない場所であっても平気でスイスイ入れてしまうことも意味しますので、注意は必要です。
封じている場所や結界には絶対近づいてはいけません。

とにかくこの世に生きている私たちだからこそ出来ることがあるということです。

「意味」などというものは必要のないことですし、余計な味噌をつけるだけで何の役にもたちません。

分からないことは、分からなくてもいいことです。

ただ楽しみ、喜んでいればいい。

私たちは誰もがみんな天地を貫く柱です。

それは、お役目でもおつとめでもなく、営みと言えるものではないかと思います。


大草原の小さな私

2017-03-11 07:59:00 | 心をラクに
人生は、よく登山に喩えられたりします。
そして頂上へ向かう道は一つではなく、いくつもあるのだと聞くと、うんナルホドと思うものです。

ただ、この喩えというのは誤解を招く恐れがあります。
それは、頂上という目的地に向かって様々な道を引いてしまうからです。

また、頂上というイメージも良くありません。
例えばそこに辿り着いたあとを想像しますと、さて次はどうしようと思った時、もう歳も歳だと自分の体力や気力に限界を感じてしまって
次なる登山、つまり新しいことへの一歩をとてもハードルの高いものに思い込んでしまいます。

「上に登っていく」というイメージがハードさを想起させてしまうわけです。

登山という譬えから脱しないまま話を進めていきますと、残りの余生はただ山をおりる道になりかねません。

確かに、下山というものも、それはそれで大きな意識変化をもたらすものではあります。
頂上を目指していた時には見えなかった足下の花や眼下に広がる街並み、人の営みが、下山の時にはとてもよく感じられます。

その謙虚さが老年の真骨頂であり、新たな味わいを生むというのもまた事実です。

でもそれ以前に、登りだとか、下りだとか、登山という観念から離れてしまった方が、年齢や状況に関係なく心は軽やかなままとなるのでは
ないでしょうか。

そこには、行きだ帰りだという考え自体が存在しなくなります。
さらには、頂上なるものもありませんから、何歳になろうとも体力気力に関係なく、今すぐ新しいことに心を向けられます。

そもそも私たちは、いくつになっても私たちのままです。

歳を取るというのはあくまで肉体の話でしかないのですから、身体を使う登山に喩えるのは初めから限界があると言えます。


さて、実際の登山を見ますと、下山の喜びというのは、登頂という目的から解放されてホッとし、パーっと世界が広がるところにあります。

何かに囚われ黙々と歩いている時というのは、目に入るものが限られ、心に映るものはわずかとなります。
特に一本道を歩いている時ほど、そうなりがちです。
それが黙々と作務のような集中であればいいのですが、自動的な惰性になってしまうと心は雑念に埋め尽くされてしまいます。

ということは、登りだろうと下りだろうと、目的に囚われず、道に縛られずにいれば、青い空や野に咲く花、広大な大自然を満喫できると
いうことになります。

それはもはや登山ではなく、単なる散策と何ら変わりません。
こっちに行こうと思ったけど、こっちの方が気持ち良さそう。
そんな感じです。

そうなると、登山でなくて平地でも同じということになります。
登るという概念もさる事ながら、行く先へと道が引かれてしまうところに縛りが生じるわけです。

実際、人生を歩んでいく時、私たちは知らず知らずに自分の道を引いています。
すると、いつしかその道そのものが主となり、私たちはただそれに沿って進むだけの存在と化してしまいます。
それはまさしく、道というものに私たちが隷属している状態であるわけです。

未来に向けて引いた道。
そこから外れないようにする一歩一歩。

自分でハンドルを握っていると思っていても、実際はゴルフ場のカートと同じ、自動運転のゴーカートと変わらないということです。

道というのは自ら作り出した虚構、幻想の縛りでしかありません。

そもそも頂上とは、今ココにはない何処かです。
今ココには存在しない未来と、今ココとを繋ごうとするから、そこに一本道が出来てしまいます。

そうして“この道しか無い”と頑なになってしまうと、見えるものも見えなくなって、心も苦しくなっていきます。

もちろん、その道にも野の花は咲いているでしょう。
そうした花に目をやる心があれば、その道にも多くの喜びがあるはずです。

どのような一歩であろうとも、それが今ココであるのは絶対の真理です。

ですから、どんなにツラく暗い一歩であろうともそれをしっかりと味わいきることが大事だというのはこれまでも書いて来たとおりです。

それ自体は変わることのない話ですが、今日はそこからさらに少し視野を広げた話をしています。
それは、道というものに知らず知らずのうちに囚われてしまってはいないか、ということです。

一本道に囚われている苦しみは、野の花だけで癒されるものではありません。
黙々と一歩一歩を踏みしめていくのはとても大事なことですが、囚われをなくし視野を広げたならば、その一歩一歩は真に自由な一歩になる
でしょう。

頂上を目指すこと自体はいけないことではありません。
ただ、道そのものに囚われてしまうと、これは苦しみの世界でしかなくなります。

夢や目的にしてもそこに囚われず、行く先を遠目に仰ぎ見て、ホォホォいいねぇと思ったら、あとは気にせず放っておいたほうが、今ココの
景色を堪能できるというものです。

そうすることで、道に囚われること無しに進めるようになります。

そしてその時、私たちは、道そのものが存在しなくなっていることに気がつくのです。


まだ小さな子供が学校生活に悩み苦しむ姿を見ますと、私たちは「学校だけがこの世の全てじゃないんだよ」「今の友だちだけが全てじゃ
ないんだよ」と声をかけたくなります。

狭い世界に自ら追い込むその姿を痛ましく思い、もっと大きな世界があることや、新しく何でも出来ることを教えてあげたくなるでしょう。

でも、その小学生や中学生の姿というのは、まさしく今の私たちの姿だと言えるかもしれません。

思い込み。
それは広大なこの天地宇宙を、わずかひとすくいの狭い世界に変えてしまいます。

ただ、小学校にしろ中学校にしろ、単に嫌だから行かないというのでは擁護することはできません。
面倒だったり、つまらなかったりするくらいで行かないのは単なる登校拒否です。
一本道だ何だという以前に、まずは歩かないと話にならない。
それは今の私たちにも言えることであります。

しかし、この世に絶望して死んでしまいたいと思うくらい学校がツラい、あるいは面白くないとなれば、話は別です。
本当に死んでしまうくらいならば、学校を辞めたり転校したりするほうがいいに決まっています。

これもまた今の私たちにも当てはまることであるわけです。

根本的な話としてまず、学校が嫌だったとしてもそれに耐えて通うことに大きな意味があります。
ただ、うつむいて自分の足しか映らずにそれをやるのと、正面を向いてやるのとでは雲泥の差があるということです。

いつでも新しいことは始められるという感覚を持ち、無限の選択肢が目の前にあると理解しておくことは、逆に、目の前の一歩一歩を
味わいきるコツにもなっていきます。


まわりの環境やまわりの人たちは、そうした気持ちを折るようなことを畳み掛けてくるかもしれません。
しかし、どのような一歩であろうとも、それは決してまわりが決めたものではなく、どこまでいっても私たちが選択しているものだと理解する
ことです。

たとえまわりからの要望に迫られて選んだのだとしても、それは他の選択を諦めて仕方なしにそれにしたわけではなく、自分が「積極的に」
それを選んだということなのです。

私たちは、常に、自分で、今この一歩を選んでいます。
そうでなければこの世に生きていられません。
受け身の選択などは、生涯、一度もないのです。

まわりが何と言おうと、いくつもの選択肢があると知った上で目の前の一歩をあゆむことがとても大きな意味となります。
しかし、自分までも選択肢は一つしかないと思った瞬間、本当にそこには他に何も無くなってしまうということです。

そして実は、いくつもの可能性があるとただ知っているだけで、そのあと選択や決定をしなくとも、いやむしろ選択や決定をしない方が、
新しい何かに向かっていくことになるというのがこの世の真実ではないかと思います。

ネガティヴな選択であろうとポジティブな選択であろうと、そこに我執があるかどうかが分かれ目になります。
そして、目的へ向かって引かれた道は、その我執を強化するものになりかねないのでありました。

つまり、選択そのものは間違いなく自分がやっていることですが、その判断が我執に因って決まる。
しかも、そうなっていることを自分で認識せずに、自動モードでやってしまうということです。

これまでと同じ職場、同じ家庭という「一歩」にしても、まったく異なる「一歩」にしても、どちらもイーブンです。
その一歩をまったく異なるものだと捉えてしまうと、レールの切り替えという大決断が必要になります。

私たちは、目の前に道が続いていると思い込んでいます。
実際はそんなものは存在しないのに、何故か私たちの頭にはそれがハッキリと存在しています。

定年まで働いて家のローンを返すという道。
子供が大学を出るまで給料を稼ぎ続けるという道。
仕事仲間や友人、家族と生涯仲良くやっていくという道。
いつまでも健康に暮らして平和な老後を過ごすという道。

それらはどれも自分の中の幻想でしかなく、そんな道など、もともと存在しません。
どれもが結果としてそのようになっただけで、終わってみるまでは、道などは存在しないのです。

ですから逆に「仕事を辞めて稼ぎが無くなり、家を差し押さえられ、寒風に吹かれながら余生を過ごす道」というものも当然存在しません。

そこにあるのは常に、今ココの一歩だけです。

道から外れたとか、道をつけたとか、そのような「道」というものは、どこにも存在しないのです。

いま歩いている「道」。
それとは違う、どこかへと続く「道」。

そんなものは無いのです。

ですから一歩一歩において「コレもしくはアレ」という選択は存在しないということです。
そこの意識をクリアにする必要があります。
あえて言うならば、すべて目の前にある「コレ」「コレ」「コレ」であるわけです。

あらゆる可能性はいつもすぐ目の前にあります。
その中の一つを私たちは、毎瞬、選び続けているのです。


その結果として、会社勤めも満期終了となっているかもしれませんし、まったく違う展開となっているかもしれません。

でもそれはあくまで結果に過ぎないということです。
どんなものであっても、今の目の前の一歩一歩を歩んだものでしかないのです。

人生を賭けたような一大決心といっても、バーンと切り替えたと思っているのは自分だけで、それは昨日の一歩と何も変わらないのです。

大決断にしてもそこでまた新たな道を作ってしまうと、またそこに縛られ、昨日と同じ苦しみを続けることになります。

いつだって決めつけや思い込みは、数ある選択を消し去ってしまい、一本道しか無いという幻想に苦しむことになるのです。

幾万の道を遠のけてしまう言い訳は沢山あるかもしれません。
経済的事情、人間関係、家族関係…
確かにそれらは一つの事実です。
でも、それはそれ、これはこれです。

事実から目を背けるということではなく、事実は事実として受け入れます。
決して軽んじたり否定したりするものではありません。
でも、それと同じように、幾万もの一歩が目の前に存在することも消し去ることのない事実であって、それもまた受け入れなくてはおかしい
わけです。

積極的に異なる選択をする必要はないかもしれませんが、積極的に異なる選択を消していく必要もないのです。


知らず知らずのうちに引かれた道というのは、延々と続く一本道になりがちです。
それはまた、限られた一歩を無意識のうちに選択し続けることを意味します。

露頭に迷うという不安が、私たちに道を作らせました。
しかし何のことはない、そこにあるのは一面に広がる大平原であるわけです。

道などありません。
どこへ踏み出すのも全てイーブンです。
そもそもコレとかアレとか選ぶ場面など存在しないわけです。

それを「路頭に迷う」と捉えるのは物凄い屁理屈でして、普通はそれを自由というのではないかと思います。

そして、その景色をいま一度想像して見てください。

見渡すかぎり広がる大平原を前にした時、子どもの頃の私たちは、理屈ぬきに全身喜びに溢れながらキャッキャッと走りだしたでしょう。
その記憶は今もハッキリ残っているはずです。

まさしく世界はキラキラと輝いていたわけです。

そして、今だって広々とした景色を前にすると同じ気持ちになのではないでしょうか。

なぜ子供の頃は世界がキラキラしていたのか。
つまりは、そういうことなのです。



自分の描いた一本道は安全な道だと、なぜか私たちは確信しています。
そこから外れることは危険を伴い、既知こそが安全の保証だと信じきっています。

でも、どれほど頑張っても私たちはほとんど何も知らない存在です。
そして、そもそも知らないことに喜びを感じるからこそ、知らない状態で生まれて来ているわけです。

自分が何も知らないということ。
この世は無限の未知に溢れているということ。
そして道など存在しないということ。

それがキラキラの正体です。

仕事にしろ、趣味にしろ、人生にしろ、その道の熟練者に成ったり、事を成したり、形を残したりというのはどれも結果に過ぎません。
「未知に触れて、それを受け入れていく」
その繰り返しが、結果として何かの形となるだけであって、結果を築きあげるところに私たちの人生があるわけではありません。

私たちの生きる核心は、未知に触れることにあります。

知らないことは恥ではありません。
それは喜びです。


ですから、何歳になろうとも、またどんな状況に置かれていようとも、何かを始めることに遅いということは絶対に無いわけです。
どの一歩であろうと間違いということは絶対に有り得ないわけです。

目の前に延びる道。
そんなものはどこにも存在しない幻想です。

道開きの神様という存在にしましても、私たちは何か新しい道をスーッと引いてもらえるものと考えがちですが、そうではないわけです。

実際は、いまの幻想を少し霧散させるだけです。
夢遊病者やロボットのように機械的に進もうとする私たちの一歩を解いて、ほんの少し自由にさせるということです。

振り返れば、歩んで来た景色を「道」と言うことができるかもしれません。
ただ、それはどこまでいっても便宜上のものでしかないわけです。

私たちはいつだって360°全方位に広がる大草原に居ます。
キラキラと輝くその世界で、今も、いつでも自由自在にあるのです。

(おわり)