これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

スタートが違う

2018-08-19 14:24:26 | 心をラクに(仕事がツラいとき)
電車に乗っていますと、窓の外には当たり前のように家やマンションが続いています。
新幹線で何時間走っても、景色の向こうには家々が続いています。

都会でも田舎でも、ごく普通に、津々浦々まで住まいが広がっています。

購入であろうと賃貸であろうと、住む家を確保するのは大変なことです。
でもこんなにも住居が連なっている。

つまりそれが叶うだけの何らかの仕事を、みんなやっているということです。

私たちの意識というのは普段、目の前のことだけにフォーカスされているため、なかなかまわりを見ることはありません。

日々、自分の仕事や暮らしを見ていますと、何とかやっている、よくやってると思ったりします。
でもフト顔を上げてみますと、それが自分一人ではないことに気づかされるわけです。

自分のことしか見えていない状態というのは、アイ・カメラの世界(目が写す世界)です。
脳裏に映る世界とは、まさしくカメラがフォーカスした風景に他なりません。

他の人たちが目に入らないのは、意識(=カメラのフォーカス)が違うところに向かっているからです。

とはいえ、同じ他人でも、自分より恵まれている他人はやたらと目に入ってくる。
それというのも、自分が欲してやまないところ(環境、物、状態)へ心が向いてると、そこに居る人たちも画面に映り込んでくるからです。

結局それも、自分のことしか見ていないからこそ起きる現象だと言えます。





自分の意識が向いた先へとカメラは向きます。
本来ならばフォーカスする時だけ覗いて、それが終わればカメラはおろして裸眼に、すなわち普段の景色に戻るものです。
つまり裸眼の世界というのが今ココになります。

しかし四六時中、自分の欲してやまないところや不平不満に向けてフォーカスし続けていると、いつしかそれが世界の全てに成っていきます。
それは、常に双眼鏡を覗きながら生活しているようなものです。

寝ても起きても、遠く離れた世界ばかりが目に入ってくる。
自分が居ない場所。今ココではないどこか。
それが私たちの目に映り続けます。

「自分はそこに居ない」「その環境を得られずにいる」という映像にさらされ続けていますと「自分は不足している」「孤立している」と洗脳
されていきます。

足元には若草が生え、野花が咲いているのに、遠くしか見えない。

すでに自分に有るものは見えにくい。
まさに灯台もと暗しです。

こうであって欲しい、これが嫌だ、という不満不足は「今ここ」をハナっから否定するものとなります。
それは、今この肉体の有る現実世界ではなく、架空の世界、幻想の世界をさまよっていることに他なりません。



誰もが必死に生きている。
私たちはその一人です。

もとより、心から仕事を楽しんでいる人なんて滅多に居ません。

誰だって、家族を養うため、雨風、寒さをしのぐため、食料確保のため、つまりはこの世を生きるため、汗水を流しています。

どんなにツラくても、生きるために。

どこまでも続く家々。
マンション群の一戸一戸。
山あいの一軒一軒。
そのすべてに必死の日々がある。
何とかやりくりする生活があるわけです。

その波はこの世界の津々浦々にまで広がっている。
悲喜こもごも、苦しさも悲しさも、その数だけ広がっている。

生きているということは、生きるための勤めが存在しているということです。
生きていく手立てが必ずあるということです。

この世には今日を生きるための手立てが幾万と存在しています。

もしもこれが限られた数しか存在しない、たとえば椅子取りゲームのような世界だったならば、餓死者が後を絶たなかったでしょう。
でも現実はそうではありません。

先進国だから当たり前、現代だから当然、という単純な話ではない。
単なる金銭ではなく、生きていくための手立てという広い意味で考えています。

いつの時代でも私たちは生きるために必死に走り回っていました。

昔からそういうものです。
それが普通、それが当たり前。
ハナからこの世界はそういうものであるわけです。

ですから、そうではない状態を求めれば求めるほど苦しくなっていきます。

馬車馬のように走り続けなければならない人生、と嘆くことはありません。
それこそは逆の見方をする必要があります。

人が存在する限り、生きる手立ては尽きることなく存在している。

考えてみますと、実はこれはとても不思議なことであり、凄いことだと言えます。







通勤ラッシュの時間帯。

ドアが開いてドドドーっと人混みに押し潰されますと、窮々になって、目の前の狭い空間に必死になります。
外の景色を見る余裕なんてありません。

プライベートでも仕事先でも、色々なことが次々と押し寄せると、まさに通勤ラッシュの寿司詰め状態のようになっていきます。

身を守るため、現状を打破するため、目の前の一つ一つを解決していく。
ですから、目の前に集中してまわりが見えなくなるのは悪いことなんかではなく、もともと自然なことであるわけです。

しかしその状態が延々と続いてしまうと、マズイことになっていく。
まわりが見えなくなって、その狭い世界というのが自分の全てになってしまう。

そうなると、思うわけです。


「私たちは苦労するために生まれてきたのか」
「そもそも、なぜこの世は、働かないと生きられないような仕組みになっているのか」

「野ざらしの雨風の中に寝てもビクともしない丈夫な体」
「食事を取らなくても朽ちることのない体」
「そんなふうに人間を作っていれば、働かなくても過ごせたはず」
「そうすれば、心からやりたいこと、楽しいことに集中できたはず」

「しかし雨風に冷えれば体は壊れるし、食べなければ死んでしまう」

「だから住まいを確保しないといけない」
「だから食料を確保しないといけない」
「だからツラくとも働かないといけない」

「楽しくワクワク生きたいけど、生きるためには頑張って仕事をしないといけない」

「でもそれで仕方がないのだ」
「ツラいなどと考えてはいけないのだ」



心に湧き上がる不満を吐き出し続けると、このような感じになっていくのではないでしょうか。

ただ、普通はこんな不平不満をこぼすのは嫌だと思ってしまうものです。
ネガティヴな感覚は出来れば避けたいと思ってしまうからです。

でも間違いなくこれは必要なことだと言えます。

私たちは歳を重ねるほどに、疑問に思うことすらやめようとしてしまいます。
いわゆる、諦めグセというやつです。

何故?という思いつきそのものを即座に否定してしまう。
考えるだけ無駄、虚しくなるだけ、というようにです。

しかし最初から思考を停止させてしまうと、問題の本質には絶対に辿り着けません。
不平不満はよくない、ダメだ、という優等生思考こそが諦めグセの元凶です。

真実は逆で、不平不満にトコトン向き合わなければ、その先には進めません。
真面目になろうとすればするほどドツボにハマって行きます。
不平不満は吐き出しきらないと、その出どころが解消されることはないのです。

思考を停止させず、いま一度落ち着いて考えてみますと、不満の向こうに新たな疑問が現れてきます。

「ちょっと待てよ、なにかおかしい」
「そんなことのためにこの世は用意されたのだろうか?」
と。

そうしますと、それに対して間髪入れずに「違う」という言葉が頭に浮かんでくるはずです。

この世が苦しみの世界だなんて誰が決めたのでしょう。
私たちでしょうか?

いえ、私たちが生まれ落ちた時には、世界はすでにそのような決めつけに溢れていました。

我々はエデンの園を追放された罪人だ
キリストに石を投げつけた裏切者だ
輪廻転生から抜け出せぬ煩悩の塊だ
地球というのは宇宙の流刑地なのだ
すべては因果応報の結果なのだ…


時代を越えて様々な表現がされてきましたが、どれもこれも真実などではなく、その手前にある透明バリアーに他ならぬものでした。

そんなものに対して真面目な優等生になる必要なんて全く無い。

真実まであと少しのところで、常に私たちはスカされてきたということです。





受け入れがたい悶々を感じたならば、心の叫びを素直に吐き出したほうが素の状態に立ち還れます。

世迷い言(よまいごと)はやめろ、馬鹿も休み休みに言え、救いようのない話も大概にしろ、と

その声こそが全くもって正しいのです。

結局どれもこれも、この世は苦しいものという決めつけから論理をスタートさせてるからおかしくなってしまう。

この世は苦しいもの、そして神や天地は悪くない、となると「自分が悪いのだ」という結論に必ず行き着くことになるのです。

苦しい世界の中で私たちは翻弄されている、という構図そのものが間違っています。

何を選ぶか、選択は私たちに委ねられています。
世界がそれを決めるのではなく、私たちが決めるのです。

「決まりきった世界の中で私たちは受け身の存在でしかない」というのは思い込みです。
思い込みや決めつけからは、諦めと思考停止しか生まれません。

苦しい日々があり、私たちは生きるために苦労している。
もちろんそれは事実です。

ただその真意が分からなければ、たとえ心を救う言葉に出会えたとしても、その救いは一夜にして露と消え、再び荒波に翻弄されてしまいます。

真意というのはこうです。
「ひっくり返せば分かる」

生きるために苦労する
⇨ 苦労するために生きる

生きるために仕事をする
⇨ 仕事をするために生きる

スタートが逆、ということです。

私たちが平和に生きているところに苦労が襲ってきたのではない。
そもそもが苦労をするために生きているということです。

私たちの命は、生きるためにあるのではなく、苦労するためにあるわけです。



ここで今一度、ネガティヴやポジティヴというものについてリセットする必要があります。

例えば「この世に生きるのは楽しむため」というのは一つの表現でしかありません。
「人生はワクワクするもの」なんてのもそうです。単なる比喩です。
決して、それ以外が間違いということではありません。

この世に正解なんてものは存在しません。

ポジティヴな生き方が正しいというのもまた決めつけでしかないわけです。
なのにそれを追ってしまうから、それ以外の生き方が残念であるかのような錯覚に囚われてしまう。

苦労であろうと、ワクワクであろうと、あらゆる何もかもを味わうためにこの世は存在している。
もちろん、仕事にしてもそうです。

生きるために働くのではない。
働くために生きているのです。

ワクワクしない仕事だから残念、なんてことはない。
天職に巡りあえないから残念、なんてことはない。

仕事で苦労するのも、この世に生を受けた理由の一つということです。
だから、この世は仕事に溢れているのです。

そもそもワクワクする仕事ばかりが溢れる世界なんていうのはファンタジーでしかありません。
それは仕事がそうなのではなく、自分たちがどうであるかに尽きます。

「ワクワクする仕事に溢れている世界」というのは、正しく言えば「ワクワクする私たちしか居ない世界」ということになります。

それは、どんな仕事に対してもみんながしっかり向き合っている世界と言い換えることができます。

囚われや恐怖や縛りがなくなればワクワクする仕事に巡り会えるということではなく、様々な仕事の見え方が変わってくるということです。

何処か遠くに青い鳥を追い求めるのではなく、目の前の足元にしっかりと心を向けることが、ずっと求め続けていた答えであったと知るのです。

その結果として、新しい出会いや新しい仕事に巡り会うこともあります。
でも、それはどこまで行っても結果でしかなく、決して初めから目指されたものではないわけです。

そして繰り返しになりますが、それらはワクワクしていなければ成就しないということではありません。
ワクワクは心の指針ではありますが、私たちをフラフラと夢遊させる青い鳥ではないからです。

何よりも優先されるべきは今の目の前になります。

この世界であらゆる存在が目指しているのは常に目の前の一歩であり、そこに、この世に生まれてきた喜びが広がっています。

たとえ望むべきでない現実がそこにあったとしても、目の前の景色がその瞬間にとっての生まれてきた目的であり夢であるということです。

つまり、すべては今この瞬間にとってのパーフェクトなものであるわけです。

悩んだり悔やんだり羨んだりするのもまた一興。
それはこの世界だけで味わえるものだからです。

目の前に広がる景色。
それが楽しくなくてはいけない、なんてことは決してない。
幸せでなくてはいけない、なんてことはないのです。

苦しくとも悲しくとも、それこそが今この瞬間そのもの。

それでイイのではなく、それイイのです。

因果応報なんて、そんなネガティヴなイントネーションはクソ喰らえなのです。

なぜ仕事が在るのか。
なぜ私たちは仕事をするのか。

家に住むため、家族を養うため、食費を稼ぐためというのはすべて方便です。
私たちがイヤイヤでも仕事や生活に向かうための方便です。

ですから、食べないと死んでしまうのも、やはり一つの方便であるわけです。

食べないと死んでしまう。だから働く。だからあがく。だから悩む。だから苦しむ。

この一連を味わうための方便として、神様(私たち)は食べないと生きていけないようにこの世を作ったと言えるのです。




「誰のための弔いの鐘と問うなかれ、それはあなたの為に鳴らされた鐘なのだから」
(17世紀のイギリスの詩人)


生老病死をもってブッダは四苦と言いました。
生きていくのはシンドい。老いるもシンドい。病もシンドいし、死ぬのもシンドい。

しかしそのどれもが、どうしようもないものです。
どうしようもないことをどうにかしたいと思うところに苦しみが生じます。

しかし、どうしようもないということは、それ自体がこの世に必要なものに他ならないと言い換えることができます。

つまり、そもそも四苦はこの世には必要なものであるということです。
そうと知って生まれてきたのならば、私たちはそれを味わう目的で来たということになります。

生きるための仕事、生きるための勤め、生きるための役割、そうしたものは全てそのシンドさのための方便であり糧であるということです。

誰がために糧(かて)はあるのか。
否、誰がために苦しみはあるのか。

もともと外にそれが在って私たちがここに居るのではないわけです。
私たちがここに居るから、それがそこに在るのです。

仕事がもともと有ったのではなく、私たちのためにその仕事が有ったのです。
誰かがもともと居たのではなく、私たちのためにその人が居たのです。

上手くやれば苦しまずに済める、なんていう薄っぺらい期待感こそ四苦の最たるもの。
どうしようもないことはどうしようもない。
その苦しみは私たちのために起きているのです。

こんな仕事は嫌だ、こんな人は嫌だ、ワクワクする仕事をしたい、気の合う人たちとだけ好きなことをやりたい…
それは丸っきり違ったわけです。

今この仕事をやるために生きている。
今この人に会うために生きている。
今このシンドさのために生きている。

そのために生まれてきた。
そのために今この瞬間ここに居るのだ。


そのように降参しますと、見える景色が変わってきます。

無駄な日々など無い。
無駄な出会いなど無い。
無駄な苦しみなど無い。

何かと関わりあうため、誰かと関わりあうため、私たちは生きています。
ご縁というものが、自分一人では作れない体験を生みます。

自分の思いのままの世界が幸せだと決めつけると、そうではない現実に対して悩みや苦しみが生じます。

この世界は、もとより思いのままにならない。

他ならぬ想定外のできごとを私たちは味わいに来ているからです。

想定外というのは自分一人だけでは作り上げられない。
だからご縁というものがある。
仕事も人もそのためのものです。

想定外とはすなわち未知のことです。
仕事も人も苦しみも、すべては未知のためにあるわけです。

そして苦しみの正体とは、自己本位に他なりません。
これは決してワガママという意味で言っているのではありません。
自分しか見えなくなるという意味で言っています。

自分しか見えなくなると苦しくなるのがこの世界です。

ラッシュに窮して狭苦しい空間に閉じこもったり、あるいは遠くの庭ばかり双眼鏡で眺めたり、狭い景色を追っていると苦しくなる。

そこで苦しさから逃げずに、苦しさを受け入れる。
すると不思議なことに、世界がフッと広がっていくということです。

もともと私たちはThe Big Oneです。
大いなる一つであるわけです。
しかし、自分一人だけでは何の変化も生じず何の経験も得られない。
だから分離というものを仮定して、自分以外のものと関わりあうことにしました。

この世こそがまさしくその場として存在しています。
苦労というのは、関わりあいの結果として生じたものであるわけです。



自分たちが、まず今どこに居るのか。
双眼鏡をおろして、今ココをシッカリと見渡します。

そうしてそこに、不足、不満、苦労、苦しみがあったのならば、それこそがこの世に来た目的なんだと諦めきる。そこからがスタートです。

すると、今ココを否定することはなくなります。
今ココを受け入れるとはそういうことです。

これが中途半端なままですと、また双眼鏡を覗いてどこか遠くを探し始めることになります。

この世の中というのは、誰もが生きて暮らせるように出来ています。
それはつまり、誰もが苦労できるという意味でもあるのです。



(つづく)